ローマ人への手紙12章

12章からは、1-8章の教理的な内容を受けた、実践的な勧めになっている。十戒の前文、憐れみ深い神の提示があって、その神を覚えて十のことばを守るように、というのと似ていて、これまで恵み深い神による救いが語られ、その神を覚えて、神に従う道を進むようにと語る部分である。信仰の行いの基本に、神のあわれみと恵みへの感謝と感動がある。そこでパウロは、開口一番に、自分自身を神にささげるように語る。それこそ礼拝である、と。

かつてイスラム教の国を訪問して思わされたことは、日本人には「礼拝」の感覚がない、ということだった。毎日7回繰り返される、祈りの呼びかけに応じて、熱心なイスラム教徒は、礼拝用の敷物を広げ、ひれ伏して礼拝を始める。私たちも彼らと同じように、所かまわず、実際にするかどうかは別として、私たちの存在の根源である神を認め、神の前にひれ伏し、ただ神を崇めるためだけの時を一日の内にどれだけ持ちうるか、考えたいところではないか。もちろん、パウロ的な言い方をすれば、毎日7度の行為を行ったからと言って礼拝的な生活ができている、というわけではない。むしろ、人生に向かう姿勢そのものが、神を認め、神にささげられた礼拝的なものであるか、が大事なのである。

そこで礼拝的な生活、つまり神にささげられた生活の特徴がいくつか述べられている。

第一にそれは、この世と調子を合わせない生き方である(2節)。ギリシア語の言語では、「鋳型で形作られる」を意味する。つまり、夏場にチョコレートが解けて、容器の形に変形するイメージを思い浮かべるとよいが、聖書的な価値観で生み出されたクリスチャンがこの世の熱に溶かされてこの世の価値観に模られてしまうようなものだろう。結局は、やることなすことが聖書を読まない世の中の人と同じようであってはいけない、ということだ。心の一新によって自分を変えなさい。というのは、変えられ続けなさい、ということである。受動態であるから、自分で変えるのではない、聖霊によって変えていただくこと、変えられ続けることが大切なのである。

第二に、慎み深さ。謙遜さということ(3-8節)。ことに、教会生活の中での慎み深さ、謙遜さについてパウロは触れている。教会の中で、自分の賜物を用いて、教会に仕えるように語る。クリスチャンになった時の大きな生活変化は、生活の中心としての礼拝が行われるようになること、そして教会生活が始まることである。それまでは自己目的オンリーで、自己実現を中心とした人生であったのが、神と人に仕える人生を生きる人生へと謙虚な心の姿勢に変えられていく。キリストにある罪の赦しと神のあわれみを深く経験すれば、人生に対する心の姿勢は変わらざるを得ない。残された人生は、自分のためのものではなく、神のため、神を必要とする人々のためのものである。そのように神にささげられた人生は、奉仕的な人生である。神の愛が伝えられる場としての教会が、建てあげられていくように自分自身の賜物を活かして忠実に仕える人生である。そして賜物は多様である。それぞれ育ち、家柄、経験、能力、感性に違いがあるのだから、当然やることなすことは違って来る。そのような多様な働きが大事にされてこそ、教会の働きも豊かになるものなのだ。

第三に、礼拝的生活の特徴は、真実の愛に生きることだ(9-10節)。愛は感傷的な感情以上のものである。それは、「悪を憎み」という悪を識別する力、つまり知力を用い、さらには、「善に親しむ」意思を伴うものである。神の前にあって、神に喜ばれる生き方をすることそのものが、礼拝的生活である。そういう生活のまとめあるいは、スタートとして、毎週日曜日の公的礼拝もある。

というわけで、パウロの勧めは、複雑多岐に人の生活全般にわたっていく。勤勉であること(11)、それは礼拝的生活の特徴の一つである。機会に前髪はあって後ろ髪はない、と言われる。つまり向かって来る時に捕らえなければ、通り過ぎてから捕まえることはできないのである。機会を活かして用いる態度と行為があることは重要で、霊的熱心さを保ち続けることがその秘訣であり、祈りも同じである(12)。忍耐を働かせること(12)、兄弟姉妹の必要や旅人を思いやる気持ちのあること(13)、喜びや悲しみに共感する力のあること(15)、協調性があること(16)、平和を守ろうとする気持ちのあること、さらには、不本意なことがあっても、赦し受け入れ、祝福する力があること(7-21)。ここに、聖書の礼拝観がはっきりと打ち出されている。つまり霊的な礼拝というのは、日曜日の朝の1ないし2時間の宗教的な行為ではない。むしろ、人間が神に造られた者であることを覚えて、神の前に遜り、神に仕える人生を生きるかどうかである。礼拝は普段の日常性と結びついているかが重要なのである。それは手の届かないことを追い求めることではなく、身近な義務を全うすることにある。

礼拝は礼拝、教会を一歩出たら、礼拝での敬虔さや教え、決意、信仰、喜びとは全く関係のない人生を歩み始めるのが、日本人だとも言われる。キリスト教は教会で行う礼拝、祈り、献金、伝道といった宗教的な行為・習慣であり、勤勉、忍耐、愛、赦し、感謝、謙遜、協調といった日常生活や生き方の姿勢とは関係がない、のである。信仰の確信と教会での実践がそのまま日常生活にも映し出されるような、信仰と日常生活が一体化した歩みを、主に導いていただくこととしよう。

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