コリント人への手紙第一3章

「兄弟たち」パウロは愛情をもって呼びかけるが、その内容は手厳しい。パウロがこの手紙で取り上げようとするコリントの教会の第一の問題は、分裂であった(1:10)。コリントの教会の人たちは、目に見えない神ではなく、指導者に熱をあげた。ある特定の指導者について、自分たちを「知者」であるかのように見なしていた。それは、この世の社会ではよく見られる光景かもしれないが、キリスト教会は、キリストあるのみである。単純な言い方になるかもしれないが、それは結局信仰の未熟さの問題であった。
パウロは、キリスト者を区別して言う。「肉に属する人」すなわち「キリストにある幼子」と言い換えて、その関心も目的も、考え方も、この世的・人間的な生活を超えることのできない、つまり霊的真理を把握することのできない人、キリスト者にはなったものの少しも成長していない人と、しっかり成長し、霊的真理を理解できる「御霊に属する人」がいると。キリスト者と一括りしたような言い方はしても、実際にキリスト者も様々である。未熟な人、つまり、肉的な信仰者もいれば、成熟した霊的な信仰者もいる。私たちは識別を必要としている(3節)。
コリント教会の人は、いまだにこの世的な段階にとどまっているのではないか、というわけである。もちろん、人間が人間である以上、人間は肉的であることは当然であろう。しかし人はその状態に留まっていてはならないし、まして肉的な事柄に支配されていてはならないのである。
コリント教会のその肉性は、党派心、争い、分派に明らかであった、そして、教会はこの未熟なキリスト者のために混乱していた。そこでパウロは、問題解決のために、いくつかの考え方の指針を示していく。第一に、単なる人間に過ぎない指導者たちをほめそやす党派心が実に愚かであって、教会の指導者について正しく理解することである。パウロは、具体的に、自分とアポロを例にして教えている。パウロもアポロもコリントの人たちが救われるために、主に用いられたしもべに過ぎない。パウロは開拓者で、アポロは後任の教育者であった。そして教会を成長させ、完成させてくださったのは神ご自身である。二人はその目的に沿って一致して働いたに過ぎない(6節)。一方が他方よりも上位にあることはない。二人は、神の言葉を伝える道具であり、具体的に人の魂を目覚めさせ、悔い改めと新生へ導かれるのは神ご自身である。神のみが、魂に新しいいのちを授けられるのである。
なお、二人の働きを示す動詞は過去形で、その時限りの仕事を表している。神の働きを示す動詞は未完了形で継続的な働きである。教会を維持し、完成させるように継続的に働かれるのは神ご自身である。
10節以降、パウロは自分の働きについて説明する。「建築士」ということばは、「アルキテクトーン」。英語のアーキテクトの語源である。「アルキ」というのは主人、長を意味する。「テクトーン」は木工大工を意味する。つまり建築の頭領というわけだ。言われたとおりの仕事を片付けるのではなくて、頭脳と知識を持って、全体を動かしていく働きに携わることである。そのようにパウロは知力を尽くして土台を据えた。その上に、誰かが家を建てている。パウロの使命は土台を据えること、開拓をすることである。その土台の上に建物を建てることの違いがある。両者の働きは、競合せず補完的である。パウロは常に移動し、土台を立てることに集中した。その土台は、キリストである。教会形成において教職者がまず心しなければならないことは、一人一人の魂にキリストとの新しい関係を築くように努めることである。キリストにある罪の赦し、恵みとその愛、そして希望に生きるように、心することだ。そこが牧会の中心である。そこから、様々なキリスト者のあり様が起こりうる。働き人は様々だからである。ただ、バランスのよい「金、銀、宝石」に代表される価値ある信仰の歩みを導く牧会者と、興味関心が偏り、あるいは、いびつな「木、草、わら」といった無価値な信仰の歩みへ導いてしまう牧会者がいることになる。そして、前者が神の報いを受けることは明らかであるが、後者であれ、土台がキリストにあり、神のために何かをやろうと努力したのであれば、彼自身は救われる、というわけだ。救われる人と失われる人がいるのではない。救われた者でよく建てた者と救われたがほとんど何も建てあげられなかった者がいるのだ。ミナやタラントの例えが思い起こされるところである。
16-17節は、教会を破壊する罪が滅びを招くものであることを指摘している。「滅ぼす」は、「壊す」の意味である。つまり、その人の働きを止められるということだろう。神の評価に堪ええない教会形成をした者には、なお救いが約束されているが、神の教会を破壊する者には滅びが警告されている。コリントの教会の場合、怠惰な教会ではない。しかし教会を壊すようなことをしていた。だから、教会を破壊することがないように警告している。
その根本問題は、知者という誇りであり、うぬぼれである。説教の語られ方、つまり修辞力、説得力、精妙さに評価を置き、説教の中身そのものを考えない、あり方を捨てて、遜りなさい(19節)、そして謙遜に学びなさいという。無益な論議を重ねずに、指導されることである。
そして最後に、正しい自己認識を持つように促している(21節)自分をある党派に属させることは、王者たるべき者が奴隷の身分に甘んじることに等しい。自分の力量と才能、そしてすべてを、ちっぽけな人間の一分派にささげることは、何よりも偉大で超越した神に属することを放棄する、実に愚かしく極まりない行為である。私たちは、誰の下にいるのもでもない、キリストのしもべである。神にだけ帰属し、神にのみ従うしもべである。人を誇らず、神を誇る者として歩ませていただこう。

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