1コリント人への手紙9章

8章で弱い者への配慮を語ったパウロは、さらにこれを自らの権利に絡めて語っていく。それは、他人を害してまでも自分の自由を主張する強い信者に対して、本当の自由というのは、したい放題をする自由ではなく、かえって自分の義務を自由に行う解放性にあることを教えようとしているのである。
まず、パウロは、自分が使徒であることを力説する。彼は十二使徒ではなかったが、復活の主と出会い、直接召され、派遣された。その宣教の働きに実が結びコリント教会が誕生したことは、まさに自分が使徒である証拠だ、と語っている(1,2節)。
続いてパウロは、そうした使徒たちが持つ権利について述べている。教会に支援されて飲み食いする権利(4節)、信者である妻を伝道旅行に連れて歩く権利(5節)、そして、生活のための働きを止めて、ささげられたもので生活する権利である(6節)。
これらの権利は、さらなる四つの根拠によって正当化される。一つは一般常識、世の中の慣例(7-8節)。教会の働き人は、教会が雇用していると考えるべきで、教会からの支援を期待してよい。二つ目に旧約聖書の教え(申命25:4:8-12節)。教会の働き人によって益を受ける人々から報酬をもらうことは当然である、と。三つ目に、旧約時代の慣例(13節)。祭司とレビ人が、律法の定めの中でその生活を支えられるように、定められていたとしたら(民数18:8-32)、まして教会の働き人も同様である。最後に、イエスご自身が教えられたことである(14節)。
このようにパウロは、教会の働き人が教会から報酬を受ける権利があることを力説するのだが、それは報酬を得たかったからではない(15節)。むしろ、福音宣教が妨げられないために敢えてその権利を主張しなかった自分の考え方を理解して欲しかったためである(12節)。つまり、ギリシアではただで教えるものに、価値はないと考えられた。パウロは報酬も求めず福音を語っていたが、福音は安っぽいものではない。むしろ高価なものである。ではなぜ、価値を示すために報酬を得ようとしなかったのか。それは当時ギリシアの町にはたくさんの巡回教師、説教者が溢れていて、その大部分は金儲けの仕事であった。パウロは、福音の価値を強調したが、それにふさわしい報酬を求め、同類の輩とは思われたくなかったのである。
実際パウロは、自分が無報酬で働いているのは、そうせざるを得なかったからだ、と言う。つまり無報酬で働くことが課せられた義務であった、と言う。だから、権利を用いることができるのに用いないこと、それ自体が報酬である、とも言う。そもそもパウロは、自分の報酬よりも、福音宣教の拡大に関心を払っていた。「何とかして、幾人かでも救うため」であれば、一切の躓きは避けたかった(22節)。ユダヤ人にはユダヤ人のように、弱い人々には弱い者になる、ターゲットに合わせて変幻自在に、自分の在り方を変えたというわけである。だから、権利を用いることが躓きとなり、福音宣教の妨げとなるなら、それは、差し控えられる。事実、パウロは、全くセルフサポートを貫いたわけではない。コリントの教会からの支援は受けなかったが、ピリピの教会からの支援は受けていたからである。パウロはケースバイケースで考えていた。
ともあれ、そのように、福音宣教の前進のために、自分自身を律していくこと、それが宣教者にとって重要なことである(24-27)。コリントにおいてはオリンピック競技のイメージは非常に身近なイメージであったから、パウロは、その競技の参加者のイメージを取り上げている。競技者が賞を得るために最善をなすように、福音宣教の働き人も同じである。自らを律して、福音宣教が進むための最善の行動を取る、これが奉仕者に求められていることなのである。

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