マタイの福音書1章

 マタイは系図で福音書を始めている。退屈な人名の羅列と思われる部分でもあるのだが、大切な書き出しである。というのもこの系図は、約2000年間に渡る、14代ずつ三つに区分される42代の系図となっている。ただ第一区分は1000年、第二区分は400年、第三区分は600年間と期間も不揃いで、それは旧約聖書の系図と比べるとどうやら取捨選択の編集跡のある大雑把な系図になっている。おそらく14は7の二倍で、ユダヤ人にとっては完全数を意識した技巧的、修辞的な書き方をした、と考えられているが、その系図が付された目的は、これから語ることが、おとぎ話でも作り話でもない、「ユダヤ人の王」であり「ダビデの子」であるイエスの歴史的な実話であることを明言するためであった。マタイは、言ってみればダビデ家公式の戸籍謄本を、その福音書の最初に掲載したのである。
実際、ユダヤ人は、自分たちの子孫から約束のメシヤが生まれるというので、血の純潔と系図の保存を非常に重んじたという。だから、男の子が生まれると、系図を更新し、それを届け出る習慣があったとされる。そこで、イエスが生まれた頃のユダヤの王ヘロデは、自分の血統や系図が良くなかった劣等感からこれを焼き捨てるように命じたとも言われ、さらに、AD70年のローマ帝国によるユダヤ地方制圧により、その系図が保管されていたエルサレム神殿が完全に焼き尽くされたことで、そうした記録は一切失われてしまったという。つまり、旧約聖書の預言通りに、ダビデの子として今なおその歴史的証拠を示すことができるのは、このイエス・キリストのみなのである。これは注目に値する。
さて、この系図の中には四人の母親の名前が出てくる。タマル(3節)、ラハブ、ルツ(5節)、そしてバテシェバ(6節)である。彼女たちは皆異邦人であり、その結婚にはそれぞれ事情があった。タマルは遊女を装って義父のユダと結ばれ、ラハブはエリコの遊女であった。ルツはユダヤ人の集会には加わることのできないモアブ人の女性、バテシェバは、夫を殺されて王宮に召し抱えられた他人の妻であった。こうして見るとイエスの系図は、歴史的実在の法的証拠を突き付けるには、恥と汚れと罪に満ちたあまりにも不名誉な系図である。世間の人が誇って広げて見せるような系図とは大違いである。しかし、それは、イスラエル王国を創始したダビデ家の末が、没落し下落の一路を辿り世間には全く忘れられていくどん底にあって、約束通りに救い主を誕生させた、歴史を支配する神の存在と誠実さに気づかせるのであり、さらにはそれら様々な人間模様における、神のたましいに対する配慮の歴史を覚えさせるのである。つまり、同じような家系の恥があり、どん底があると打ちひしがれている人は、これからのマタイが書くことに心を開くならば、希望があるだろう。
 続いて、18節からは、イエスが誕生した次第が説明される。それは説明せざるを得ない事情があったことを伺わせる。つまり、ユダヤの風習では事実上結婚を意味する婚約期間中、夫ヨセフのあずかり知らぬところで妻マリヤが身ごもっていた、ということである。実に、マタイは正直にその事実を取り上げ、それが私生児を産む事件ではなく、聖霊による神の奇跡であった、と語るのである。大切なのは、ここで信仰を働かせるかどうかなのだろう。これから語られることをとりあえず信仰によって小脇に抱え、マタイの福音書を読み終わった時に結論を出すという姿勢である。そういう意味では、マタイは、1章の前半においてイエスの人間としての起源を描いているが、それに呼応する形で、18節以降は、イエスの神としての起源を描いている、とも言える。マタイは、イエスがマリヤからお生まれになったとして、ヨセフから生まれたとは記していない。ヨセフはマリヤの夫として記されている。イエスは地上の父をもたず、「聖霊によって」、いわゆる神の子として生まれた。そして、マリヤの処女性は、「ご自分の民をその罪から御救いになる」イエスの聖さを強調するものとなっている。人は多くの救いとその手段を必要とするが、罪からの救いにおいては、きよさがその中心となる。これから一か月単なる口先の気休めや慰めを語っているのではない、真の救いを語ろうとするマタイのことばに耳を傾けていくこととしよう。

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