コリント人への手紙第二12章

愚かしいようであるが、パウロは、敵対者に対し、11章では経歴や宣教努力を誇り、12章では霊的な体験を誇っている。というのも、敵対者である大使徒の特徴は、ガラテヤ人の手紙に出て来るような単純なユダヤ主義者ではなく、雄弁の術(11:5-6)、幻の経験や啓示(12:1)、しるしや不思議、力ある業といった霊的経験に関心を示し、重視したことにある。言っていれば、興行師的、パフォーマンス指向の働き人である。そこで、パウロは、また愚かしくも自分の霊的な体験を誇っている。愚かさには愚かさをもって答える、というべきか。ところで、パウロは実に多彩な霊的な経験をしている。

1)ダマスコ途上で栄光のキリストに出会った体験(使徒9:3,22:6)

2)アナニヤの訪問により目が開かれた体験(使徒9:12)

3)夢の中でマケドニア人に呼びかけられて、宣教を実らせた体験(使徒16:9)

4)難しいコリント伝道において、神の励ましを与えられた体験(使徒18:9-10)

5)エルサレムの神殿で夢心地になっていた時に神に語られた体験(使徒22:17)

6)  エルサレム逮捕後受けた神の励ましの体験(使徒23:11)

7)  嵐の中で御使いに励まされた体験(27:23)

しかしパウロがここで誇って見せたのは、これらのいずれでもなく、パラダイスに引き上げられた体験である。おそらくその出来事が起こったのは、この手紙が書かれる14年前のことであろう。つまりこの手紙は、AD57年の秋、第三回目の伝道旅行の途上ピリピで書かれたと考えられているから、そこから逆算しておおよそAD43年、パウロが回心してまだ間もない時のことである。パウロがまだ無名の時代(使徒9:30)、故郷のタルソからバルナバによって引き抜かれてアンテオケ教会へ連れて来られるまでのこと(使徒11:25-26)であろう。

ちなみに新改訳、新共同訳では、「一人の人の経験」「彼の経験」とある。何か他人事のような言い方であるが、当時ユダヤの教師は、自分自身の経験を三人称で語る習慣があったので、リビングバイブル訳が意訳するように、パウロの体験として受け止めてよい。ともあれ、パウロは神に引き上げられる体験をした。しかし、パウロが言いたいのは、たとえそのような人を魅了する霊的な体験があったとしても、自分が誇りたいのは自分の弱さである(5節)ということだ。大使徒のように、霊的体験を誇ることはむなしく、弱さこそ誇りたい、ということである。

そこでパウロは、天にのぼる祝福の体験を語った後に、神に与えられた棘の体験について語っている。神を信じたとしても人生から苦悩がなくなるわけではない。自分の弱さが消えるわけでもない。自分の過去の失敗が消え去るわけでもない。しかしパウロは、これら自分を痛めつける者を、自分が高慢にならないために、神に与えられたものだ、と考えた。棘に使われたギリシア語は「人を拷問したり刺し通したりするために用いられる鋭い棒」を意味する。人を落胆させるほどの身体的な痛みである。「私を打つためのサタンの使いです」と語られた「打つ」という動詞は、本来「こぶしで殴る」を意味する。またその動詞に使われた時制は現在、行動が繰り返されることを意味している。これは、パウロが患っていた眼病、あるいは、マラリヤ熱に侵された後遺症のこと、という説が有力である。確かに、手紙を書いたり、説教をしたり、長い伝道旅行をしたり、さらには様々な危険の中を通るパウロの生涯を考えるなら、それがパウロにとっていかに深刻な問題であったかは容易に理解される。しかし、神は、かつてのヨブ同様、パウロがサタンに打たれ、苦しめられることを許容された。苦しみはそれ自体歓迎しえないものであるが、神様がそれをもたらすことがある。

というのも、それによって私たちの内なるキリストの品性が形作られるからである(ピリピ2:15)。またそのような弱さにあることで、一層キリストを主とし、キリストのもとに遜って、キリストの力を証するようになる(10節)。つまり、私たちの弱さを通して、キリストの力が人々に認められていくことが起こってくるのである。だから弱さに甘んじる、となる。

さて、最後に、ここに孤独な働き人パウロの姿があることに注目しておこう。誰もパウロに代わって弁護する者はいなかった。本来ならば、コリントの教会の人々が立ち上がって、自分たちを導いてくれた使徒を大使徒に全く劣るようなものではないと弁護士、擁護すべきではないか。しかしそうではなかったから、パウロは、苦労して、自分の弱さもさらけ出して、戦う他なかった。パウロは疎まれたが、パウロの思いは真摯であり、純粋だった。

だから最後に、パウロのコリントの教会に対する熱い愛が語られる。パウロは、コリントの教会に対して親であろうとする(14節)。「すべてはあなた方を築き上げるため」(19節)、建てあげようと、教会に愛情を注ぎ込むパウロ、そのような人物がいたればこそ教会も前進した。パウロは言う。「あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう」(15節)。開拓伝道者は、誰にも弁護されず、誰にも助力を得られない孤独に陥ることがある。しかしそれでも腐らず、むしろ愛情の粋を尽くすパウロの姿に倣う以外にない。神が共に立ってくださることを覚え、愛情をもって養い続けることである。そこに主の憐れみと恵による新しい導きも起こるからだ。

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