ガラテヤ書3章

パウロは、ガラテヤの人たちが、あまりにも簡単にキリストの十字架を無に帰す行動を取っていることにびっくり仰天している(1節)。ここからパウロは、捻じ曲げられようとしている福音理解そのものについて語っていく。まずパウロは歴史的事実について触れる。彼らは、イエスが荒削りの十字架に釘付けにされ、もだえ苦しみ、力尽きて、死んでいく姿をはっきりと目撃した人々であった。あの苦しみは、「私たちのためにのろわれた」(13節)者となり、罪を赦してくださるためだった、と理解したはずであるのに、誰かがやってきて、十字架を信じるだけでは足りない、といわれて、そうか、と割礼を受けたり、律法を守ったりする。実に愚か者だ、とパウロは言う。確かに、イエスの十字架に何かを付け足しする発想は、イエスの苦しみが足りなかった、イエスはもっと残虐に痛めつけられる必要があった、ことを言っているのだ。

続いてパウロは、福音の本質である神の約束と信仰(1-9、14-18、26-29)と律法の限界(10-13、19-25)について交互にこれを解き明かしていく。2節、まず信仰はどのように始まったのか。キリスト教信仰の出発点は「御霊を受ける」ことによる。聖書を読み、キリスト教的な感覚や振る舞いを教えられてそれを熱心に実践していくことを決意したわけではない。いわゆる宗教的な形式よりも「御霊を受ける」ことがスタートなのである。この御霊は、どう受けるのか。魔術師シモンがまさにそれを願ったことを思い起こしてみよう(使徒8:18)。それは、信仰によって受けるものである。いわば、神の約束を信頼することが、キリスト教信仰のスタートなのだ。

次に、キリスト教信仰は、どのように完成されるのか(3節)。信仰の完成もまた同じである。信仰によって始まったものは信仰によって完成されるのである。そして最後に、今の私たちの信仰生活に力ある業が起こるとしたらそれはどうしてか(5節)。軟弱な者が強くされ、汚れた者が聖くされ、日々私たちの人生に神の業が現れるとしたら、それもまた信仰によるのである。

大事なことは、神は約束を与えられた。それを信じる、というパターンである。パウロはそれを訴えるために、アブラハムの例をとりあげる(6-9節)。14-18節は、それを詳述している。かつて神は、アブラハムという人物に目を留めて、彼に、多くの子孫を与えること、また彼とその子孫に一つの地を与えること、また彼の子孫によって地のすべての民族が祝福を受けることを約束された。この偉大な約束は息子イサク、さらに孫のヤコブに引き継がれた。その後、ヤコブの時代に大変な飢饉の時代があり、ヤコブとヤコブの子孫はエジプトへと移住していく。そして何世紀かがたっていく。17節には430年経った、とある。430年経って、神はイスラエルの指導者モーセを立てて、エジプトで奴隷とされていたイスラエル人を解放し、シナイ山で律法を与えられた。しかしこの律法によって、その約束が破棄されたわけではない。約束を信じるというパターンは今なお残っているのである、というわけだ。だからパウロの言わんとする大筋を追うと26-29節、神の子どもとされるのは、神の約束の祝福を受けるのは、信仰による、律法でも割礼でも祭儀でもない、という断言的な結論に結び付く。

では、律法とは何なのか?10節に戻ろう。そして少しパウロが「律法」という言葉を使う時にそれが何を意味するのかに注意しておこう。つまり、パウロが「律法」という言葉を使う時には、それは、旧約聖書全体を意味することがある。しかし、もう少し違う意味で使われることもある。つまり、モーセ律法の基礎の上に、多年律法学者たちが築き上げたおびただしい規則や伝承のことを言っていることがある。この区別はイエスも「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。」(マルコ7:9)と述べているように、イエスにおいても意識されていたものだ。ともあれ、パウロが言いたいことは、律法はのろいに私たちを閉じ込めるだけであり、救いには何ら関係がないのだ、ということだ。そして律法は、私たちに違反を示すために付け加えられ、キリストの恵みを指し示す役割を果たすのだ、ということだ(19-25節)。

約束は「わたしはあれをしよう。これをしよう」という1人称のお話だ。一方律法というのは「あなたはあれをしなさい。これをしなしさい。あれをしてはならない、これをしてはならない」という二人称命令のお話である。約束は、神様が主体。律法は人間が主体である。約束は、ただこちらが信じるか否かの問題。律法は、こちらが従うかどうか、という問題である。ここでパウロはこの二つを対比しながら、キリスト教は、約束の宗教であって律法ではない。モーセの時代に律法が与えられたとしても、アブラハムの時代からキリスト教は、ずっと約束の宗教だった、と。神が私たちを祝福してくださる、それを信じるだけの宗教であった、と。律法は、違反を示すために機能したのであり(19節)、私たちをキリストに導くための養育係に過ぎなかった(24節)、と。律法は、罪意識を与え、後悔させ、悩ませ、恐怖を与え、苦しませる。それは命を与えるものではない。律法はのろいに私たちを閉じ込めるのである。しかし、キリストが私たちのために「のろい」となってくださった。キリストが私たちの代わりに「のろい」の牢に閉じ込められてくださったのである。だから今や私たちは自由だ。のろいではない、祝福を信頼して生きることが許されている。こうして私たちの人生には豊かな希望があることを覚え、今日も期待をもって一日を踏み出すこととしよう。

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