テサロニケ人への手紙第二1章

パウロはテサロニケで3週間にわたって宣教した(使徒17:3)。わずかな宣教期間にも関わらず、神の恵みによって教会の基礎が築かれた(1テサロニケ1:9-10)。しかし、敵対するユダヤ人のために、パウロは、生まれたばかりの教会を迫害と困難の中に残して、急遽退かざるを得なかった。テサロニケの教会を案じ、訪問の願いが遂げられないパウロは(1テサロニケ2:18)、代わりにテモテを遣わし、教会を励ました(1テサロニケ3:2-3)。こうしてテモテが、テサロニケの信仰者たちの信仰と愛のよい知らせを持ち帰ったことに応答して1テサロニケ人への手紙が書かれた(1テサロニケ3:6-7)。第二の手紙が書かれたのはそれからまもなくで、第一の手紙で書き送った主の再臨と主の日についての教えの誤解、益々強くなる教会への迫害、パウロの教えの誤解に起因するある者たちの怠惰な生活などがテモテを通してパウロの耳に入ったためである。

そこでまずパウロは、三つの励ましを与えようとする。それは、感謝と誇り、そして苦しみの意味を解き明かすことによってである。

パウロは、彼らの信仰が目に見えて成長していることに感謝している。彼らの愛は豊かにされていた(3節)。彼らの信仰の成長は、愛に表されていた。しばしば苦難は、人を自己中心にするが、彼らはお互いに対する関心、思いやり、心遣いに溢れていた。

それはまさに、神の御業としてのテサロニケの教会が建てあげられていることを伺わせる。神が恵みを注いで、テサロニケの教会の一人一人を建てあげてくださっているのだ。となれば、それはまさに、この困難の中にあっても神が生きておられることを明らかにしているのであり、迫害や苦難は神がおられないことの証拠と言う人もいるのだが、全く逆であり、神に関わる諸々の事柄、つまりさばきも確実だということである。

そこでパウロは、「神にとって正しいことは」と、大胆に信仰者としての確信を語る。神は、「苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に、報いとして安息を与える」(7節)。実に神は正しい方である。生きておられる神を侮ってはいけない。神は正義の神であって不義をそのままにされることはない。しばしば、人は神の裁きを信じられないでいる。しかし、神は愛であると同時に(1ヨハネ4:8)、神は光であり(1ヨハネ1:5)、正義である。パウロは、キリストにあるご自分の救いの計画を拒む者に永遠の滅びの刑罰があることを宣言する(9節)。キリストの救いの計画は罪人を赦し、罪人を神と和解させるものなのだから、それは論理的な帰結でもある。復活の主イエスは、必ず目に見える形で再臨されるのだ、その神を私たちは恐れなくてはならない、ということである(10節)。

ただ、10節後半はよくわからない。「そうです。あなた方に対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです」「あなた方に対する私たちの証が信じられたからです」あるいは、「あなた方に対する私たちの証が確かにされたからです」と訳す提案もある。私たちの証を、福音と理解すればよいのだろう。パウロの説得によるのではなく、パウロが語る福音を信じた彼らは、その福音の力によって生かされ、成長し、良き証を立てた、ということなのだろう。

そこで、パウロはますます祈る(10節)。宣教は自分の業ではない。神の業であるとすれば、人間にとっての最善は祈ることにある。祈りが、一人一人を神の召しにふさわしい者とし、また主の働きの完成へと用いられるのである。ただ神の恵みと神が崇められる業が、私たちの教会の働きとして起こされていくように。神に忠実な歩みこそが、魂の救いに最も効果あるものである。今日も、主の恵みによって信仰に堅く立ち、歩ませていただこう。

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