テモテへの手紙第一4章

パウロが、牧会者の心得として語ってきたことは、おおざっぱな言い方であるがまとめるなら、まずは祈り(2章)、そして敬虔さ(3:1-13)、生ける正統信仰(3:14-4:5)ということになるのではないか。

牧会者が守るべきもの、注力すべきものは、教会が真理の柱であり土台である、ということだパウロは、キリストの栄光とその教会の将来の展望を示したが(3:16)そこが大事にされなければならない。しかし、教会においては、キリストの栄光ではないものが中心となり、その将来展望も失いやすいのである。すでにパウロはそうした動きがあることを警告していたが(使徒20:28-31)、実際にその通りのことが起こっていたのだろう。

良心の麻痺した偽善者である偽教師の問題があった(2節)「あなたがたは実によって、彼らを見分けることができます」(マタイ7:15-20)とイエスは言われたが、偽教師は口で語っていることと実際にやっていることが違う。真の神の僕のしるしは、正直さと高潔さ、そして有言実行にある。神の真理に立ち、神に従うことを真面目に求めている人である。また彼らの特徴は、結婚やある種の食事を禁じる、二つの禁止命令の実践にあった。しかし聖書の信仰は、禁止命令の実践ではない。むしろ、キリストにある罪の赦しを得て、神の恵みの中に入れられているのであるから、すべてを感謝し、喜びつつ歩むのが基本である。事実神は、私たちの喜びのために一切の被造物をお造りになったのである。

パウロは、このように偽教師の働きがある中で、教会が、神の家族、神の集会、真理の柱として守られていくように、心がけるべきことを語る。

一つは、教育である(6a節)。「信仰」には冠詞が付されている。キリスト教の教理体系を示唆している。交通標識には、二種類ある。危険性について警告する標識(例えば「落石注意」)と、目標を明らかに示す標識(例えば「東京まで30キロ」)である。牧師は危険について警告を発すると同時に、正しい教理、つまり何を信じ、従っていくべきかを教える必要がある。そのために、牧師自らが神のことばによって養われていなければならない(6b節)

二つ目に、世俗的な年寄り女がするような空想話を避けなさいという(7a節)。パウロは、テトスに「ユダヤ人の空想話」について警告している。第二テモテへの手紙の中でも、同様の警告をしている(2テモテ4:4)。ある英訳では、「神抜きの神話と年寄り女がするような話」と訳している。つまり、キリストの中心性から私たちを引き離してはいけない。そしてむしろ、救い主である生ける神に望みを置く(10節)、敬虔の鍛錬にこそ(8節)、意を注ぐべきである。私たちはやがて主の御前に立つ。主と再会する、その希望に生きているのであるから、すべてが底に収れんされていくような生き方でなければならない。終末的な信仰にあって生きている。

11節からは、テモテに対する直接的な助言となっている。弱気のテモテに対して、「命じ、教えなさい」とあるように、断固とした態度を取るように指示している。そしてまずは模範となるように教えている。いつも正直で愛があること、そして神に信頼することにおいて忠実であること、さらに、心も体も聖く保つことである。また、聖書を朗読し説教し、教育することが勧められる。それらは聖霊の賜物である。神は、牧師に説教と教育の賜物を与えられる。またその働きを遂行する熱意も与えられる。主に与えられたものを軽んぜず、心を砕いてしっかりこれに取り組むことである。そうすれば、すべての人にその働きは認められるようになるだろう(15節)。

また、人を牧会するためではない、自らを教えることに意を注ごう。どんな牧師も自分が到達しえない高嶺に人を導くことはできない。「私にあるものをあなたにも与えよう」とペテロは語ったが、これが信仰生活と宣教の基本原則なのである(使徒3:6)。「よく教える」ことは牧師の資質の一つであるが(1テモテ3:2)、よく教えることのできる人は、よく学ぶ人でもある。成長する牧師(あるいは教会員)は、神のみことばを学ぶ者でなくてはならない。人を教える前に、まず自分自身の魂に配慮し、自分を教え、成長する者であろう。

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