1テモテへの手紙6章

5章に続いて、牧会者として奴隷に対する関わり方を教える。ある歴史家は、ローマ帝国に住む人々の半数は奴隷であったと考えている。しかしこれら多くの奴隷は教育を受け、文化的であったが、法的にはまったく人間とは見なされていなかった。キリストにある救いと自由を語る福音のメッセージは、奴隷の心を捉え、多くの者たちが信仰を持つようになったという。しかしそれによって、ある奴隷は、キリストにあって新しく見出した自由を、主人に対する不従順の言い訳とし、福音の名誉を傷つけるようになってしまった(1節)。そこでパウロは、奴隷に対して、ますますよく仕えるように勧める(2節)。なぜなら主にある兄弟姉妹という新しい関係から両者は共に益を受けるからである。

次に、偽りの教師に対して(3-10節)。パウロは、偽りの教師について警告することから、この手紙を書き始めた(1:3)。また彼らの危険な教えのいくつかを明らかにしてきた(4:1)。そうした教えが教会に入り込んで、教会が混乱することは避けなければならない。彼らは、先に結婚を禁じたり、食物を断つことを勧めたりするような者であった(4:3)。ここではより根本的な問題、彼らが「主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教え」(3節)に同意しない問題を指摘している。つまり彼らは、キリストではない自分自身を誇ろうとする高慢なやからである(4節)。そして、彼らの関心はこむずかしい議論と論争を引き起こすことで、真理に立とうとするものではない(4節)。さして、さらに彼らは、「敬虔を利得の手段」と考えていた(6節)。つまり関心は牧会ではなく、宗教的なビジネスにあった。パウロは、まことの教師、つまりテモテが集中すべきことを明らかにする。それは「満ち足りる心を伴う敬虔である」富は満足をもたらさないし(6節)、残せない(7節)。そもそも、私たちの基本的な必要は容易に満たされる(8節)。そして富への欲求は滅びと破滅に至る(9-10節)。金銭を求めることには罠である。神の働き人は、確かにその働きから報酬を得るべきであるが(5:17-18)、報酬は、神が用意してくださるものであり、実際の牧会においては、何よりも心が聖い満たしを得ることに心を注ぐべきだ。パウロは、偽教師にどう対処せよとは言わない。むしろ偽教師に関わるよりも、11節、「しかし、神の人よ」と、関わりではなく、あなた自身の存在によって対処せよ、という。正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求める、それが、教会に入り込もうとする偽教師に対する最善の対処である。「正しさ」は、「人格的に完全であること」、「敬虔」は「実践的な敬虔さ」である。「信仰」は「誠実さ」、「愛」は、他人のために犠牲を負うアガペーの愛である。「忍耐」には、困難なことがあってもくじけないで「ねばる」意味がある。「柔和」は、弱さとは違う。「統制された力」とでも言うべきものだ。ともあれ、敬虔な存在をもって信仰を守るために戦うことが勧められる(12節)。16節は、パウロの回心の経験を彷彿とさせる。「近づくこともできない光の中に住まわれる」パウロがイエスと出会い、捕らえられた決定的な瞬間に悟らされたことであった。それが、パウロの働きを決定的に方向づけた。その神の使者であり、しもべであるという自覚のもとに、パウロの働きは展開されていくのである。イザヤも、モーセも同様であったことを思い起こしたい。私たちはまことの生ける神のしもべ、働き人なのである。

金持ちたちへの関わりが語られる(17節)。謙遜であるように。そして先に述べた富の罠(9-10節)に足を救われないように、富ではなく富を与えてくださる神にこそ望みを置き、分け与えるようにと語る。そして天に宝を積むことである(ルカ16:1-13)。

最後にパウロはテモテに教えに忠実であるように、と言う(20-21)。そして偽の教えを避けなさいと言う。余計な議論に深入りしないことである。ただ委ねられた福音に生き、それを証することに注力することだ。これをパウロはテモテのみならず「あなたがた」(21節)と、長老全員に書き送る。主の恵みによって、その働きが進められるように、と。

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