ヤコブの手紙1章

イエスをメシヤとして受け入れたユダヤ人の信仰者は、試練の中にあった。彼らは、これまでとは違うキリスト教信仰を軸とした生き方の故に、試みを受けていたのである。しかし、試みは信仰の成熟に欠かせない。そして、試練に乗り越えて成熟したクリスチャンは、一味も二味も違う生き方をする。

つまり、成熟した信仰者は、まず忍耐を働かせて物事に取り組む。脅威を身に受けた時にこそ、腹をくくることができるのである。忍耐は、困難な状況で神の側に立ち続け、前向きに事態や物事を変えていく力となるからだ。十分忍耐を働かせることができれば、泰然自若の性質を身に着けることができるだろう。

また成熟した信仰者は上からの知恵を求める。自分の知恵・知識など、役に立たないことなどいくらでも知っている。だから、その時その状況に応じて、天より新しい知恵を求めるのだ。そして神が惜しみなく、与えてくれる豊かな天来の知恵を喜び、楽しむこともできる。ソロモンがそうであったように、神は、とがめもせず、無条件に、気前よく自由に与えてくださる。だから困難を取り除いてください、ではなくて、この困難を乗り越える天来の知恵をください、と祈り求めることが大事なのである。そして祈った以上は、神を信頼していくことだ(6節)。信仰の成熟は、神に対する信頼の強さに現れる。まさにヘブル書で学んだように、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるのである(11:1)。

ヤコブの手紙は、非常に実際的な書であり、恐らく教会に現実的に起こっている問題を取り上げて、そこに考え方を示しているのであろう。9節からは、新しい主題、教会内において、身分の低い兄弟と、富んでいる人の混在によって生じる、人間関係の問題について触れている。確かに、両者は一般社会では相いれないものであり、その隔ての壁を打ち壊すのは難しい。しかし教会においては同じ兄弟姉妹である。だから身分の低い兄弟は、自分が高められる、自分が神にあって重要な存在であるという新しい自己認識をもたらすことを素直に誇りとすべきであるし、富んでいる人は、自己卑下という新しい感覚について受け入れるように勧めている。確かに富は、人間に間違った保障感覚を植え付ける。ありのままの裸のままの自分を重要であると理解せず、富んでいる自分が重要であると考えるのである。しかし、何かに依存している人間に重要さはない。まさに太陽の炎熱に枯れてしまう草のようなもので、人間は、裸の自分にこそ価値を見出すことができなくてはならない。それは、神との関係が正されてこそ、持てる感覚である。

次に、身分の低い者にも、富める者にも等しくある誘惑の問題。ここで言われている誘惑は、制御しがたい、内側からの情熱と欲望のことである。私たちがそのような誘惑に屈しやすいのは、試練にさらされる時なのだが、神は、私たちに強すぎる試練を与えられることもない。しかし、当時のユダヤ人には、神が試練を与えるからこそ自分はダメになるのだと言い訳をする人たちがいたようだ。しかし、問題は、私たちの側にある。誘惑に屈するのは、根本的に私たちの内なる弱さのため、私たちの問題である。だから、自分の弱さを弁え、道を誤らないようにすることだ。神は、たとえ私たちが道を誤っても引き戻し、すべてを益としてくださる。耐え抜いてよしと認められるなら、いのちの冠をほうびにいただく。

ともあれ、自分の内にあるものに注意しつつ、みことばを実践することが誘惑に打ち勝つ最良の策である、と心得、みことばを実行することに意を注ぐことだろう。神はみ言葉を実行する力を与えてくださる。その力を得るためには、聞き方に注意しなければならない。ただ文字に目を通すのではない、みことばを心に植えつけるような聞き方が求められている。神の語りかけに慰めを受け、感動と、喜びを感じるような読み方をすることだ。心に響いたことは実行されるからだ(22節)。実行できない人は、不注意に聞いている(23節)。

「宗教」(26節)は、儀礼や典礼や儀式によって外見的に表現されるものを言う。つまり、どんなに礼拝式が敬虔で荘厳になされても、それが生活と結びついていないなら空しい、見せかけに過ぎないという。それはクリスチャン生活の代用にはならない。神を愛する、神のみことばの弟子であることが、一週に一度の礼拝のみならず、日々の生活に現わされる歩みが大切だ。

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