ヤコブの手紙2章

1章に続く具体的な問題として、次に「差別」が取り上げられる。人の名声、権力、財産によって、特別扱いをする、そんなことはしてはいけない、と。人は皆、等しく神の命を与えられた価値ある存在である。少なくとも神に命を与えられたという信仰があるのなら、見かけで人を判断したり、差別したりすることはやめよう。

人が人を差別するというのは、結局、その人を辱めることに留まらず、キリスト者と呼ばれている以上、キリストの御名を汚すことになる(7節)。キリストは差別などされないからだ。差別はこの世の社会ですら、疎まれるものだろう。それなのに、神の愛に生きると言われているキリスト者が、まさに差別をしているとしたら、全く証しにならないではないか、というわけである。そういう意味で、キリスト者は、最大の戒め、愛の戒めを守ることを大事にしなくてはならない。人を愛するというのは、甘ったるい行為ではないのだ。そこには正義あり、自制あり、常識ありと、見識ある行為なのである。そして信仰はバランスの問題であるから、他の面でどんなに立派に生きていても、一つ欠けていればそれで台無しである(10節)。だから、よくよく注意して、神のみこころに生きるように努めなくてはならない。ただ、神が哀れみ深いように、あわれみと愛情を持って生きることが、確かなことだろう。思いやりのない人は、神の裁きを受けるが、情け深い人は、神様の憐れみを受ける(13節)。

14節からは、行いと信仰の関係が語られる。行いは救いの要件ではない。救いは、イエスの十字架に対する信頼によって、完結しているからだ。つまり行いは、救われた生活を表現するものに過ぎない。たとえて言えば、新築の家について建築業者と契約を交わしたなら、それはもうできたも当然のことだ。しかし、土台が据えられ骨組みが作られ、壁が張り巡らされ、内装が終わってこそ、完成で、それはまだ先のことである。救いは、私たちの言葉と行動の変化によって、目に見える形で表現されていくが、人様々である。ある人は、土台ができた段階であったり、ある人は、家も完成し、引越が始まる段階であったりする。行いは、霊的成長と関係があるのであって、真の信仰は実を伴うのである(18節)。

実際悪魔も霊的な真理は知っている。しかし、彼は善を行うことはない。悪魔と同じであってはいけないだろう。そこでヤコブは、信仰の実例をあげている(21-23節)。まず真の信仰の例その1は、ユダヤ民族の父として尊敬を集めたアブラハムである。彼はまず信仰によって義と認められた(創世記15:6)。そしてその信仰を、神に従うこと、また、息子を献げることによって証しした(創世記22)。この間には、時間差がある。アブラハムがイサクをささげたのは、アブラハムが信仰によって義と認められた時から20年も後のことだ。信仰の例その2は、異邦人の売春婦ラハブである。彼女は、神に信頼することによって救われた(ヘブル11:31)。しかし、その信仰を、証ししたのは、偵察隊を匿い助け、危険を冒すという行いによってである(ヨシュア2:6:17-27)。

こうして結論が語られる「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(26節)信仰と行いは、相反せず、分離できない。

パウロは、救いの根拠としての信仰を強調した。救いの根拠にはイエスキリスト以外の何物も加えられない、と。ヤコブは、救いの結果としての行いを強調した。また、パウロは神の視点から語り、人は信仰によって神から義と見なされている、救いにおける神の御業を確認する。他方、ヤコブは、人の視点から見て、人は行いによって人から義と見なされるのだ、と、救いに与った人のしるしを確認している。私たちは私たちの信仰を証明できる。パウロは暖炉の火を見、ヤコブは煙突の煙を見ている。大切なことは、信仰の生活化である。学ぶだけの信仰生活では不十分である。み言葉は読むものではなく、行うものであり、従うものなのである。

 

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