1ヨハネの手紙1章

ヨハネは、間違った教えを説く偽教師たちを意識していたのだろう。あいさつや自己紹介、宛先すら記さず、冒頭から、グノーシス主義思想を意識し反対するような書き方をしている(1、2節)。つまり、イエスは幻ではなく、具体的に人間の聴覚、視覚、触覚に訴える形でやって来た、実在の人であり神であった、と強調する。また、ヨハネは、福音書では「ことば」に焦点を合わせたが、この手紙では「いのち」に焦点を合わせて書いている。

既にイエスの昇天後、50年の月日が経過しており、この時、ヨハネはかなり高齢となっていた。パウロやペテロも過去の人となり、イエスを直接知っている弟子、イエスと共に過ごした感動を語ることができる者は、ほとんどいなかった。そういう中で、ヨハネの円熟した目から、最初のキリストのいのちの感動が伝えられるのである。キリストの声を耳で聞き、キリストの素晴らしい働きを目撃し、キリストに養われた興奮に満ちた3年間、その深い感動がもう一度伝えられる。それは、読者を、ヨハネが持っていた御父、および御子との確かな交わりの中に入れるため、自分自身が持っている感動を共有させるためであった(3節)。つまり、ヨハネは、読者に自分と同じいのちの確信に立ってほしいと願っているのである。

そこでヨハネは、グノーシス主義の低い倫理観を意識しながら、光と闇の対比から語り始める(5節)。光である神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩む、つまりは罪の生活を続けているのなら、それは嘘である(6節)。むしろ、神の光の中を歩んでいるなら、神の光に照らされて矛盾のない歩みをするだろう。つまり、次のことがしるしとなる。

一つは、互いに交わりを保とうとし、交わりを楽しみにするようになるだろう(7)。兄弟姉妹を避け、敵対し、相争い、交わりを断とうとする。それは、光の中を歩むこととは違う。光の子は、夫婦間、家族間、教会間の争い事を引き起こさない。いや、むしろ積極的に愛し合うのである。

またイエスの血によって罪をきよめられるだろう。ここでいう罪は、故意的な罪ではない。むしろ無意識に犯してしまった罪のことである。また、堕落した罪的な性質そのもののことである。つまり、神との交わりを楽しみとし、喜びとするのなら、必然的に、同じように神を愛する人々との交わりを楽しみとし、喜びとするのであり、その人自身が知らずに、影響され、聖められていくことになるのである。

だから、そのような人は、自分の罪を認める(8,9節)ことが容易になるだろう。光の中を歩む者は、素直に自分の罪を認め、それを言い表し、主の聖めをいただく。自分の罪を認めようとしなかったり、物事を他人のせいにしてしまうことは、結局自分を騙しているのであって、真理に従っていない証拠である。むしろ、失敗は失敗と認め、罪は罪と認めることが大切だ。神はそのことを赦してくださるし、すべての悪からきよめてくださる(9節)。

ヨハネはクリスチャンが完全無欠な者ではない事実を直視している。つまり私たちは、自分たちが救われた罪人であることをはっきりと自覚しなくてはならない。自分の心にねたみの思い、苦々しい思いがあったら、それを否定しないことだ。そういう自分をごまかさず、素直に神に告白することだ。また一方で、これをしかたのないこととして諦めるようでもいけない。ヨハネがこの手紙を書いた目的を受けて、この罪から私を救ってくださいと祈ることだろう。私たちは、9節にあるように、神のきよめの力にあずかることを期待することができるからだ。

漁師あがりのヨハネは、「雷の子」とあだ名されるほど激しい気性の持ち主だった。しかし、キリストに養われたヨハネは、後に互いに愛し合うことを繰り返し語る「愛の人」と呼ばれるようになった。ヨハネを変えたのは、キリストのいのちである。そのいのちに与る歩みをしよう。

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