ヨハネの黙示録7章

 黙示録を一読すると、これが非常によく構成の整った書であることがわかる。6章以降16章までの様々な災いについて、一定のパターンがある。一つは、7つの封印に伴う災い。二つ目にラッパに伴う災い、三つ目に鉢に伴う災い、三つの災いが、それぞれ七回繰り返される7部形式のパターンがある。8章を理解する鍵は、このパターンを認識することにある。
まず、7つの封印の話。これは6章から8章の5節まで続く。封印が開かれるたびに、災いが起こる。それは、6章でも触れたが、侵略、戦争、飢饉、疫病、そして終末のファイナル・シーン、様々な衝撃的なシーンの組み合わせで、人類史を要約している。問題はその後の、ラッパに伴う七つの災いの話(8:6-15:8)、そして、鉢に伴う七つの災いの話(16:1-20)である。これらは同じものを三つの角度から見ているに過ぎない。ドラマで言えば、最初に、主題歌と共に番組の要所となるシーンが出てきて、その後に本番が始まり、ドラマ終了後、もう一度主題歌とともに印象的なシーンが繰り返される、そういう流れと同じだと考えてよい。
 つまり最初に、人類の終末に向かう歴史を特徴づける印象的で破壊的なシーンが、七つの封印が解かれるたびに語られる。それは、終末最後までを簡単になぞっていく予告編なのである。続いてこの8章からが本篇。実際、巻物の封印が全て解かれたということは、巻物が開かれて、そこに書いてある内容の全てわかるということだから、七つのラッパに伴う災いのシーンは、最初の7つの封印に伴う災いのシーンを詳しく描写するものである。それは、実際に8から15章まで、長く複雑な書き方をしている。そして最後の、七つの鉢のシーン。これは3回目の繰り返しであり、一番印象的な部分が繰り返されることになるというわけだ。強烈的な書き方で、一章でまとめられる。
 以上を押さえた上で1節から見て行こう。「子羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。」7つ目の封印が解かれた。これまでは予告編であり、封印が解かれる度にこれから起こることが予告された。ここからは本編であるが、その最初に、聖徒の祈りに応える形で、ラッパが吹き鳴らされ神の裁きが開始されることに注目される。パウロはローマ書の中で、「復讐はわたしのもの、私が報復する(12:19)」と神の言葉を引用し、神の怒りに委ねることを語っている。そして、「悪に負けてはいけない、むしろ善をもって悪に打ち勝ちなさい」と勧めているが、その際に、善を行うなら、「彼の頭上に燃える炭火を積むことになる」と語っている。まさに、この燃える炭火が今や、神によって地に投げつけられた、と考えることができるのではないか。長らく応えられることのない祈りが、あることだろう。しかしそれは、燃える炭火を積み、やがて最後の報復という形になって応えられるのである。つまり、神の前に見過ごしにされる祈りというものはない。神はそれを金の鉢に蓄え続け(5:8)、祭壇の火で満たしてから、報復を成し遂げられるのである。祈りは、決して空しく立ち消えることはない。祈りは確実に積み重ねられるのである。目には見えないが、生きておられる神がいる以上、人の祈りには何らかの結果が生じるものだ。「なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ(箴 25:22)」ということば真実である。こうして7節からいよいよ、神の業が開始される。
7節、「血の混じった雹と火」は、出エジプトと関係する。黙示録を解釈する場合には、当時のユダヤ人が持っていた知識的な前提から見て行くことが大切だ。彼らの知識的な前提を知らないで黙示録を読むと、どうしてもおかしな、荒唐無稽なお話として理解し、解釈してしまいがちだ。普段の聖書通読の成果が問われるところで、ここで出エジプトを思い浮かべた人は、かなり聖書の読み方にセンスがある。ともあれ、この箇所は出エジプトの十の災害を思い起こさせる。第一のラッパに伴う災い、これは出エジプトの雹の災害に一致する(9:13-35)。第二は、ナイル川が血に変わり魚が死んだ災い(7:14-25)、第三は、同じことを別の角度から述べている。第四の災いは、エジプト全土が暗闇で覆われた災い(10:21-29)に一致する。第5の災いは、出エジプト10:12-15の災いに一致する。そして災いの程度は、6章8節では、地上の4分の1であったが、ここでは3分の1となり、だんだん強くなっていっている。
13節は、一種の挿入部。「災いが来る。災いが~」三回繰り返される。「一羽の鷲が中天を飛びながら」、「中天」というのは、天文用語では「子午線」つまり、天の頂きを意味する。すべてを見通せる所であり、誰もがその鷲を見ることができる位置。そこからわざわいが宣告されるという。神の警告はいつの時代にも明瞭になされている。「残りのラッパの音によって」と、残されている時はあるが、それはあと三人のみ使いがラッパを吹くだけの期間である。時は確実に縮まっていることは確かだろう。時代の流れをよく理解し、悟り、いよいよ神にお会いする準備をさせていただきたいものである。

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