ヨハネの黙示録10章

再び視線は天に向けられ、そこで起こっていることが語られる。一種の挿入部である。特に重要な第七の災いを際立たせ、クライマックスに向かって緊張感を高めている箇所である。そこでヨハネが語っていることは、教会にはなすべき務めがあり、耐えるべき苦難があるということだ。
1節、「もう一人の強い御使い」は5章2節を連想させる。この御使いは、「永遠に生きる方をさして」誓う(6節)。彼の足は、一方は海に、他方は地に下ろされている。それは、全世界を支配下にした、つまり、地と海のすべてにかかわるメッセージを持っていることを意味する。 前の御使いが大きな声で叫んだように、この御使いも叫ぶ。その叫び声に「七つの雷」が続くが、それは、雷のような「主の声」(詩篇29篇)を示しているのだろう。実際、七つの雷は、鳴っただけではなく、意味のあることを語っている(4節)。しかし、それを書き留めることは許されていない。封じて、書き記すなとされる。旧約のダニエルが、一定期間メッセージを封じられたことを思い起こさせるところである(ダニエル書12:4)。
「もはや時が延ばされることはない」共同訳では、「もはや時がない」となっている。この時はギリシア語でクロノス、経過する時間としての時。もはやこれ以上、時間、クロノスは存在しない、つまり終わりが来たということ。神の忍耐はついに限度に達した。1-6番目のラッパを通して悔い改める機会は十分に与えられた。もはやこれ以上の延期はない。6章10節の「いつまで(6:10)」という聖徒たちの叫びは、黙示録の中心となる箇所であるが、その問いに応えて、神はもはや時が延ばされることはない、時が来た、という。
 その時、神の奥義は成就する(7節)。奥義は、ギリシア語でムステリオン、いわゆるミステリー、隠された秘儀を意味する。それは、あらゆる国の人々に伝えられる福音の奥義を意味する。それは代々に渡って長い間隠されていたが、今や、イエスによってすべての国の人々に知らされたものである。しかし、一般の奥義理解は異なる。それはごく限られた人しか達することのできない知識で、当時のグノーシス主義という異端はそのように考えて、他の人たちが知らない特別な知識を得たと主張するところがあった。だが聖書の奥義は秘儀ではあるがもはや秘められていない。また、パウロによれば、奥義は単に福音、つまりキリストにある罪の赦しと救いを語るのみならず、異邦人とユダヤ人が一つとされること(エペソ3:1-5)の二面性を有している。それは、7章9節で述べられたあらゆる民族、国語、部族の者がキリストにあって一つにされる、教会の完成について語っている。そのような天にある祝福の時が、もはや延期されることはないというのであるから、これは、慰めと喜びの知らせでもある。
 9節、「取って食べよ」という命令形は、昔の文語訳では「食い尽くせ」つまり完全に消化して自分のものとせよ、という意味である。「腹には苦いが口には甘い」というのは、エゼキエル書の表現(3:1-3)で、エレミヤも同じ経験をしている。神のことばを食べるとそれは楽しみとなり喜びとなった(エレミヤ15:16)。しかし、黙示録の方では、単に甘いだけではなく、苦さもある。それは、悔い改めない不信の世に対する神の怒りと裁きのメッセージを持っているからであろう。つまりそのメッセージを受け入れる者にとっては救いを約束する福音のことばで、甘い(詩篇19:9-10)が、拒否する人には、厳しい罪の告発となり、災いを告げるものだから苦いものとなる(2コリント4:1)。
 ただし、これは宣教者ヨハネのお腹の中で苦くなっている。となれば、神のことばの真の説教者は、罪人への告発を忠実に告げるが、喜んで語るのではない。悲しみの中で語るということだ(エレミヤ9章)。心が神の愛に満たされるほど、「わざわい」を告げることは苦みとなる。福音を語るのはそういう面がある。自分にとってよいからといって、伝える相手も喜んで受け入れてくれるとは限らない。それは、本当に残念で、悲しく、苦い経験である。
 しかし聖書は語る「もはや時が延ばされることはない」時がいくらでもあると思えば、時を無駄にする。生き方がいい加減になってくる。それが人間でもある。命にも限りがある、与えられている時間にも限りがある。だからこそ、苦さに耐えて敢えて語ることも必要になる。実際、神のことばに望みを抱くことができる人々はいるものだ。語る機会を恐れないようにしよう。

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