創世記11章

 諸氏族が増え広がって町を建設することは神のみこころにかなうものであった。しかし、その本質が「肉」にある人間のすることは、再び神の御心にかなわぬ問題を引き起こしていく。つまりカインのそれが殺人であり、ノアの時代の人々のそれが道徳的堕落であるとすれば、バベルの時代の人々のそれは高ぶりにあった。
この時代、塔の建設はそれほど珍しくはなく、バベルの塔も、メソポタミヤに見出されるジグラットの一つであった。実際、メソポタミヤ一帯には同じようなジグラットが30基以上も発掘されている。巨大な塔の建設は、ニムロデ(10:8-2)によって着手されたと考えられ、アッカド王シャル・カリ・シャルリ(BC2250年)に再建され、幾度か戦争により中断、放棄されながらも新バビロニヤのネブカデネザル二世(BC605-562年在位)の時についに完成したと碑文に記録されている。7層からなる高さ百メートルほどの巨大な塔で最上階には月神ナンナルを祭る神殿が設けられていた。礼拝者は、この塔に上ることで神の近くにあることを覚えたが、いつしか当初の意味は忘れ去られ、高くそびえる荘厳な塔に、人間は自分たちの力を誇るようになり、神を否定し、驕り高ぶるようになった。彼らは「名を上げよう」と掛け声を挙げた。そして「全地に散らされるといけないから」は(4節)神に反逆する意思を明らかにしているが、実際には、彼らの不安を明らかにしている。皆で背くなら怖いものなし、というのは、上辺の虚勢なのである。罪には個人的な罪のみならず社会的な罪がある。その横暴さと破壊性は、日本人も太平洋戦争の時に経験している。人間の一致は必ずしも善とは限らないのである。しかし神が与えられる上からの一致と平和は、逆である。黙示録に描かれた聖なる都は、天から下ってきて、諸国民を一つにするものであり、ちょうどそれに対比される物語となっていることに注意しよう。
ともあれ神は、人間が優れた能力を自分たちの欲望の赴くままに用いて、とめどなく罪深さを蔓延させていく様を懸念し(6節)、裁きの手を下された(7節)。神は、私たちの生活のただ中に降りてこられ、正しく裁かれるお方である。人々は全地に散らされた。ただ神のさばきには常に恵みも加えられている。E・ザウアーが言うように、バベルの事件を通して、ことばや民族の壁に拘り散り散りに生きるようになった人類が再び一つにされるためには、新たなことば、つまりキリスト(エペソ1:10)が絶対不可欠であることが明らかになったからである。つまり彼が言語的に通じなくなったというのは翻訳機レベルの問題ではなく、心が通じ合えなくなったことを言っている。神の和解のことば、遜りのことばに結集するのでなければ、人類が再び一つになることはないだろう。だからこそ、新約におけるペンテコステの出来事は、この物語の本質的な解決を語っているのである。神の聖霊が、私たちの魂を癒し、キリストの下に遜ることを実現する時に、違う言葉を話す者同士のみならず、同じ言葉を話す者同士の心が通じるようになるのである。
 「大洪水の二年後」セムの歴史が書かれている。全体的に5章の系図の書き方とよく似ている。セツの系図がアダムからノアまで10代であると同様、セムの系図もセムからアブラハムまで10代とそろっている。しかし、どう考えても、10代以上の時間が流れている。ここも、すべての人物をリストアップしたというよりも、代表的な人物を選んでいると考えられる。セツの系図が10代、セムの系図が10代、つまりは記憶しやすさを狙った、あるいはユダヤ人の完全数10に合わせた、ということなのだろう。また先のセツの系図に比べて、こちらの系図では、父祖たちの年齢が次第に短くなっていく。私たちが常識的に理解できる範囲まで年齢が縮められていることは、ノアの時代を期した一つの転換が、実行に移されたことを示している(6:3)。
 27節からはテラの歴史である。いよいよ、聖書の本題に入っていくわけであるが、大切なことは、アブラハムの家族が、神の選びの民とされていくにあたり、アブラハムの家族が、ノアとはまた違った存在であったことであろう。ノアはまったき人であり、神と共に歩んだ人であったが、アブラハムの父テラは、ヨシュア記24:2で、「ほかの神々に仕えていた」とされている。いわゆる偶像崇拝者である。また「カルデヤ人のウル」は、シュメール文化の中心であり、BC3000年末期から2000年初めにかけて繁栄を極めていた。実際にカルデヤ人がウルに進出するのは、2000年末期であったとされるが、この時代にすでに、カルデヤ人はウルと結び付けられて考えられていた。ともあれ、アブラハムは、大都会に埋もれた偶像崇拝者の一家族に生まれた人物であり、そこから全てが始まっている。
アブラハムは神の大いなる祝福を受ける象徴的存在となるわけであるが、それは、アブラハムが最初から神の前に完全な者、神の好意を受ける者であったというよりは、神の憐れみにより、恵みによって選ばれ、恵みによって導き引き出されたことによる。彼は大都会に埋もれた偶像崇拝者の子であった。しかし神は、彼に上からのビジョンを与え、主のしもべとして導きだされた。テラが移住したのとは別に、アブラハムの移住には、神の召しと、自分を砂の中から見出した神に対する信頼があった。人間の志には、挫折もあり、混乱もあることだろう。しかし、神が与えられた志に立つ信仰は、大いなる祝福へと私たちを導くのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です