創世記21章

 アブラハムの物語は、二度同じことが繰り返される。たとえば、妻サラが召し抱えられた問題がそうであり、イシュマエルを巡る問題もそうである。ハガルは二度追い出されているが、その問題に向かい合うアブラハムの人間性や信仰に進展が見られる。人はいつまでも同じであることはない。必ず信仰的に成長し、神との関係に深まりを見せていくものだ。神の可能性にかけて生きることは、私たちの人間的な限界を超えていくことに他ならない。
 さて、サラは約束のとおりにみごもり、男の子を産んだ。アブラハムは、その子をイサクと名付けた。それは、神の命令であり(17:19)、神に対する不信仰への戒めであり(18:12-15)、サラ自身の喜びの表現であった(21:6)。新改訳の第三版の訳し方は、何か嘲笑的なニュアンスを感じさせるが、そのような意味はない。本来2017訳のように「神は笑わせてくださった」(神は私に笑いを下さいました)と取るべきで、神にとって不可能なことはないことを確認している。
 9節、イサクは乳離れした。三歳ぐらいであったとされる。そんなイサクをイシュマエルがからかった。既にイシュマエルは14歳ほどで、自分が軽んじられている状況に、反感を持ったのだろう。サラは感情的に応じ(10節)、アブラハムは悩んだ。そんなアブラハムに神は悩んではならない、サラの理不尽なことばを受け入れるように、という。神は人間の弱さや過ちをも用いてご自身のご計画を進められる。神は最善をなさるお方である。
 ハガルとイシュマエルは追い出され、自暴自棄になったが、神は、そんな親子を見守っておられた。人間の社会では、そのまま見捨てられて終わり、ということはあるものだが、神がそうされることはない。神はアブラハムにもハガルにも積極的に介入された。神の恵みとあわれみは豊かである。そしてその資源も無尽蔵である。神は、イシュマエルにも、アブラハム同様に祝福を注ぐことを約束される(18節)。大いなる国民の内容は、イサクとは異なるとする見解は多い。しかし、同じと考えてよいだろう。というのも、最終的な終末史的なビジョンからすれば、皆がキリストにあって一つとされるのが、聖書の中心的な思想の流れだからである。大いなる国民という言い方が物質的なものなのか、質的なものなのかといえば、双方であって、そうであるなら結果的には同じと考えてもよい。
 ともあれ、さらに注目すべきことは、神が聞かれたのは、ハガルの泣き声ではなく、少年の声である。ハガルは声をあげて泣いたが、少年は、この時一本の灌木の下に投げ出されていた。母は自分の人生と子の不憫を思って嘆いたが、少年は、力尽きて倒れ伏していた。そんな少年がどんな声を発したのだろうか。小さな悲しみのつぶやきであったかもしれない。あるいは心の呪いであったかもしれない。いずれにせよ、神は最も弱められた者の声を見過ごされることはない。絶望してはならない、というのは、こういうことである。神に目を開いていただく、生きるべき道筋をしめしていただくことが大切である。
「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる」(22節)アブラハムの生きざまを見て、アビメレクが語った。クリスチャンの人生は、本来そういうものであるはずだ。私たちの生きざまを見て、人々がそこに、「神はあなたとともにおられる」と思わざるを得ない歩みがある。一目置く理由が、神の存在である。アビメレクは、そのために、アブラハムと契約を交わそうとする。不思議なことに、アビメレクとアブラハムの立場が逆転している。アビメレクはかつて、アブラハムの妻を召し入れる権力を行使することができた。しかしここでアビメレクは、アブラハムの抗議を受け入れ、自分の身を守ろうとしている。 神がともにおられることは、いつしかこのような逆転が起こることを意味している。
ベエルは「井戸」を、シェバは数字の「七」を意味する。イスラエルでは完全数と考えられた数字である。また、その派生語であるシャーバは、「誓」を意味する。だからベエル・シェバは、井戸における誓いは完全であることを意味し、アブラハムの井戸であることがしっかり認められた、ことになる。33節、植樹は、契約のもう一つのあかしである。アブラハムは、ここで「永遠の神、主の御名によって祈った」という。アブラハムの神観が大きく変えられたところである。全能の神という点的な捉え方が、永遠の神という線的な捉え方になっていく。全能の神がここまで私を導いてくださった。その神は、常にいまし、これからも私を導く永遠の神であるという信仰である。
 神は最善をなすというのは、今の今に関するだけのことではない。神と共に歩むこれから先すべてにおいてである。

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