創世記36章

 早朝に祈ることは、牧師の務めであろうと思う。やはり御霊によって祈り、御霊の働きが、主にある兄弟姉妹それぞれの生活の中になされていくようにと、とりなすことは、最も重要な務めである。牧師としてなせることは、それほど多くはない。しかし、祈りとみことばのために召されたのは、この一時を守る、この一時にかけていく、ことに他ならない。朝ごと夕ごとに、祈りの火を絶やすことなく祈り続ける。御霊の働きを求め続ける。そのようにして牧師とともに祈る群れが起こされたならば、それによって教会が建て上げられたと確信してよい。教会堂を建てても、教会が建て上がっていない教会ではいけないだろう。
 さて35章は、エサウの歴史となっている。ちょうどアブラハムとイサクの歴史の間にイシュマエルの歴史が簡単に綴られた(25:12-18)のと同じで、ヤコブの歴史を継ぎ足す前に、エサウの歴史を概述している。そして、6-8節は、エサウがセイルの産地に住むようになった決定的な要因を記している。ただ、ざっと読んでみると、どうも感動を得ない名前の羅列になっている。2節ヒビ人と語られたツィブオンが、20節ではホリ人とされているのも気になる。同一人物の書き間違いなのか、それとも別人なのか、よくわかっていない。24節「温泉を見つけた」とある。この行為が特記される意味がよく理解できない。実際にはヘブル語原語の意味は不明で、ラテン語訳に従って訳されたという。あるいは、シュパイザーが言うように、シリヤ語訳に従って、「水」と訳し、荒野で泉を発見したという意味にとるのが妥当なのかもしれない。ともあれ、大切なのは、エサウからも、様々な人々が生まれ、地に増え広がり、生活を営んだあれこれがあることを理解することなのだろう。そしてこれらの人々も神には覚えられた人々である、ということである。
 そういう意味では、エサウは、神の祝福から洩れたとはいうものの、実際には、36章に書き連ねられているように地に満ち、増え広がっており、世俗的な意味では大いに神に祝されたと理解することができる。だから、エサウが受け損なった祝福というのは、アブラハムが12:1-3で託された、散らされた民を一つに集めるという祝福であって、神は、ヤコブを選んだから、もはやエサウを、無一文に滅びるままにされたわけではない。また興味深いことに、エサウの名は、この後、エレミヤ、オバデヤ、マラキなどの各書に繰り返し出てきている。それは、エサウの子孫が、ヤコブの歴史の流れの中で明らかにされていく神の救いの祝福に与ることが勧められるためである。つまり、エサウの子孫もまた神に覚えられ、忘れ去られていることはない。神は全世界の救い主である。
 31節、「イスラエルの子らを王が治める以前」とある。普通に読めば、これはどうも、イスラエルが王制になった時代、つまりサウルが王として立てられた後に書かれたのではないかと思わせるふしがある。実際1歴代誌1:43-54にも同じリストがある。となれば、歴代誌の著者、あるいは後の時代の人が、この部分に手を加えたことも考えられる。しかし、この書を書いたと言われるモーセが、まだ王制となっていないイスラエルを覚えながら、すでに先に王制となったエサウの子孫を綴り、ヤコブの子孫もまたこのように記録されることを確信しながら書いた、ということもあるだろう。
ともあれ、エサウの系図の特徴は、人が死ぬと代わりの人が継ぐ歴史である。どんなに優れた人物にも「代わり」が起こる。世俗的な祝福は、豊かに富んでもこれを「代わり」に継いで行く祝福である。しかし、神の祝福は、散らされた者を一つとする役割を担う祝福である。それは物の豊かさではなく、魂を豊かにする祝福である。アブラハム、イサク、ヤコブの子孫は、この世の富を受け継ぐ者たちではなく、主イエスにある和解と平和を伝える祝福を受け継ぐ者たちである。ここを勘違いせずに、信仰を深めて行く者とさせていただこう。

“創世記36章” への2件の返信

  1. 変わらずに受け渡され、引き継いでいく聖書の歴史が、今日に生きている聖書なのですね。教会、という意味の重みを感じます。神様が真ん中に居てくださって、私たちはその信仰を中継していく道具になれれば良いのですね。良き牧者に感謝、

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