創世記33章

ヤコブは祝福の約束を胸に、今や先頭に立ってエサウと会う覚悟を決めた。しかし、エサウに会うことがいかにストレスであったかは、贈り物が先に進み、そして家族が続く演出によく現わされている。ヤコブは、エサウを恐れ、エサウの出方を気にせずにはいられなかったのである。ヤコブはエサウに会うまで七回も地に伏しておじぎをした。当時これは、従の礼を尽くす行為とされた。
しかしエサウの態度は、ヤコブの予想を超えて穏やかであり、愛情深い歓迎となった(4節)。そこに祝福を約束された確かなる神の働きがあったと見るべきなのだろう。神は、真実である。ヤコブはエサウに贈り物を与え、「私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています」(10節)と語る。それは、一種へつらいのことばとも思えるが、予想だにしなかった兄エサウの変化、完全な和解に、ペヌエルで「顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という経験を想起させたためなのかもしれない。エサウの態度に、神の恵み深い姿が重ねられたのである。兄エサウは、ヤコブの贈り物を受けた(11節)。こうして和解は成立した。
神は、私たちの思いを超えた結果をもたらすお方である。主は、私たちが眠っている間にすべてを備え、導かれるお方である。神は怠惰な守り手ではない。私たちは究極的な問題の解決として、神の業に期待することを学ばなくてはならない。
エサウはさらにヤコブに対して親切であった。エサウは、善意のしるしとして、ヤコブの集団と同行する意志を示している。しかし、ヤコブは自分の群れがエサウと共に旅をするにはあまりにも弱いと、一緒に行動することを辞退している。それは、ラバンのもとで幾度も気まぐれに報酬を変えられ、悩み苦労してきたヤコブが、これからの関係に慎重を期そうとしたためなのかもしれない。あるいは、ヤコブの群れが長旅でかなり疲れており、エサウの群れのペースに合わせるのは無理である、と単純に言葉通りの判断が働いただけなのかもしれない。いずれであるのか、二人の和解は完全であったと見るならば、後者で理解すべきところであろう。ただ、その後、エサウは南のセイルへ帰っていったが(33:16)、ヤコブは、その後を追わなかった。むしろ、彼はスコテに移り、さらに、セイルとは、ヨルダン川を挟んで対岸に位置するシェケムへ移動し、そこで土地を買い取っている。二人はお互いに、祖父や、父の代に起こっていた衝突の火種をあらかじめ回避したのかもしれない(13:8、26:16)。あるいは、ヤコブが、かつて夢で現れた神のお告げに従って、よりベテルに近づこうとしたのかもしれない。ただそれにしても中途半端な行動であったことは、否めない。
ともあれ、ヤコブは神の約束どおり無事、カナンの地へ戻った。ヤコブは、ハモルの子らから土地を買う。それは、自分が約束の地へ戻って来たことの確認のためである。そして、ヤコブは祭壇を築き、「エル・エロへ・イスラエル」と名付けた。それは、「神はイスラエルの神」であるという意味である。ヤコブが自らの神観を明確にした瞬間である。
いつでも神は私たちの思いを超えた事をなさるお方である。神は私たちが考える可能性の範囲内で動くようなお方ではない。神は私たちの思考をはるかに超えて、恵みを豊かに施してくださるお方である。私たちには、神にゆだねなくてはならないことが多々あるが、ゆだねられない現実の厳しさに揺れるものだろう。しかし、そういう中で敢えて神にゆだね、完全に自分をささげきって歩むことを、私たちは学ばなくてはならない。
神の約束は、どこまでも徹底して信じるべきであるし、神に従う時は徹底して従うべきである。神は私たちを守る方、祝福される方である。神が私たちの視野を押し広げ、神の絶対的支配を確かに確信させてくださるように。今日も、あらゆる人間関係に神のご配慮があり最善があることを信じて歩ませていただこう。

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