マタイの福音書6章

先の5章は、律法学者に優る義、この6章はパリサイ人に優る義がテーマである。そこでまずパリサイ人のいかにも宗教的な施し(2-4節)、祈り(5-15節)、断食(16-18節)が例として取り上げられる。施しは、対人であり、祈りは対神、そして断食は対自に関する敬虔さが最もよく示される例であり、キリストの弟子がどうあるべきかが語られる。
 基本的にキリスト者は光である(5:14)。光は隠そうと思っても隠すことはできない。自然にその評判は広まっていく。ただキリスト者として生きることによって知られるようになるのと知られようとして自己宣伝するのとでは大違いである。動機の違いは、報いの違いとなる。前者は、狙ったもの、人々の称賛を手にするが、後者は、天におられる父の報いを手にする。だからイエスは、弟子たちに惜しみなく施すことを期待されたが、パリサイ人のように見せびらかしで、しかも損得勘定の取引としてそれをして欲しいとは思われなかった。するのなら、自然に、当たり前にして欲しいという。神がコルネリオの施しを覚えておられたように、それを覚え、報われるというわけだ。
同様に祈りについても、人にではなく、神にのみ向かう真の心の訴えとするように教えている。当時のユダヤ人は、通常朝9時、昼0時、夕方3時にエルサレムの神殿に向かって祈る習慣があるとされたから、その時刻に人前で敬虔そうに祈る姿を指し、そうではなくということだ。また、施しが主に覚えられているように、祈りも主に覚えられる。それは確信してよい、ということだ(7、8節)。そして、神に向かう祈りが、本当に神との実質的な時となっているなら、それは心を豊かにし、必ずしや私たちの具体的な生活に力をもたらすに違いないのである。その具体例が赦しということになるのだろう(14、15節)。
さてイエスは具体的に祈りの例を教えられる(9-13節)。主の祈りは、弟子に与えられた祈りである。ルカの主の祈りに比べて、マタイのそれは礼典用に整えられたもので、言葉数も多くなっている、と考えられているが、大事な点は、三つである。一つは、イエスがご自分と父の親しい交わりに私たちを招き、私たちにご自分と同じように神を父と呼ぶことを許されたこと。神の栄光を仰ぎつつ、人が自らの心身の必要を祈るように教えておられることである。新改訳2017は、後代に加えられた頌栄を本文から脚注に移しているが、マタイは、12節の赦しのテーマを増幅させている(14-15節)。それは、キリストの弟子として、神のみこころである御国の実現を願うならば、赦しこそ、神と一つ心とする象徴である、という理解なのだろう。
当時のユダヤ人は、年に一度贖罪日の断食のほか、規則を決めて、四月の断食、五月の断食、十月の断食、エステルの断食などを行い、パリサイ人はさらに毎月曜日と木曜日の断食を加えていた。しかしこうした時を敬虔に守れば、それでよしとされるわけではない。やはり信仰は、神との隠れた関係が本質なのであり、神がご存知です、という部分にいかに生きるかなのである。
後半は、所有について。ここから、キリストの弟子の特徴が語られると言ってよい。つまり、律法学者にしてもパリサイ人にしても、彼らの義は宗教的な熱心さを示すものであったかもしれないが、日常生活における信仰の実践ではなかった。彼らに優る義は、何よりも、信仰が生活そのものに反映されることにある。そういう意味では、何を宝としているのかが、やはり明らかにされる生き方をしていることである。地上の富を宝としているのか、それとも、永遠の神を宝として生きているのか、結局は、何に焦点を置いてその人が生きているかが、問題となる。「からだのあかりは目である」(22節)、と言うが、確かに、目のおかげで体は適切に動かすことができる。ヨハネは、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」という言い方をし、「世と世の欲は滅び去る」(1ヨハネ2:16、17)と語ったが、確かに目が眩んだがゆえに、事業を失敗させ、家庭も潰してしまったことはよく聞くことである。私たちに必要なのは、真に価値あるもの、神のみこころを識別する健全な目であろう。そして、必要なものは、神がすべて備えてくださるのだから、神が与えてくださるもので感謝しつつ、日々を歩む信仰と生活を結び付けた態度である。日々の生活の中でいつでも神の国と義(神の支配)を第一にしていく、第一にすべきものを第一にして生きていくことである。信仰は、宗教的と言われる儀式を守る以上のことである。それはまさに生活実践そのものである。日々、神と共に生きることにある。そこから自然に祈りも断食も、施しも生じる。神とのよき交わりこそ、大事にする歩みをさせていただこう。