詩篇130篇

130篇 深い淵から

おはようございます。深い淵と呼ぶべき、絶望的な状況に人は置かれるものでしょう。しかしそこで、諦めてしまったら終わりです。諦めず、恵み深く、あわれみ深い神に望みを抱くことをこの詩篇は教えます。国家的、個人的危機において祈りを促す詩篇です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

一読、最後の2節を除けば、個人的、私的な祈りのようである。この祈りは、伝統的には、七つの悔い改めの詩篇の第六番目のものとされている。なぜこのような祈りが、公的な「都上りの祈り」とされたのか。戦争直後、賀川豊彦が「一億総懺悔」という言い方をしたことがあった。捕囚期にあったイスラエルも同じで、この悔い改めの祈りは、国民的な自責の念をよく言い表すものとして用いられたのだろう。実際、ネヘミヤのイスラエルを代表する懺悔の祈りにもよく似ており(ネヘミヤ記1:4-11、9章)、個人的な懺悔の歌は、イスラエルを代表する公的な懺悔の祈りの歌として用いられたと考えられる。捕囚帰還後の作であるとされる。

戦勝国の論理で敗戦国の裁判が行われるなら、そこにどんな望みがあるだろうか。あるいは言い訳が許されず、もはや有罪が決めつけられたような裁判に引き出されるとしたら、そこに何の望があるだろう。だから1節、「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます」詩人は深い淵の中にある。深い淵は滅びの象徴である。抜け出せない絶望感の中では、ただひたすら声をあげ、神の哀れみを乞うだけである(1-2節)。そして「しかし、あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます」と、目に見えない神の赦し、神の哀れみに望みを抱く他はない(3-4節)。

2.主を待ち望むことの確かさ

大切なのは、その望みは決して裏切られることはない、ということだ。著者は、「夜回りが夜明けを待つのにまさって主を待つ」と語る。確かに夜は、終わらないように思えるかもしれないが、朝は確実に来る。その時はすでに定まっているのだ。同じように、主が来られるのも確実であり、天地創造の御業を成し、その初めに響き渡った「光よあれ」との主のみことばも確実に発せられる(5-6節)。

かつて戦争に負けた日本人は、連合軍によって寛大な措置を受けた。それは、主の恵みによるものであり、主によって贖われたに等しい。具体的には、神は、アメリカが日本によくしてくれるように配慮し、日本は、戦後復興、経済発展を考えて邁進すればよい、という神のあふれるばかりの恵の中に置かれた(7-8節)。まさに、神は深い淵にあった、日本人の声を聴き、彼らの不義には目を留められず、いな、目を留めてもその不義を赦し、不義から贖い出し、彼らの待ち望みに応えてくださった。日本人は、神の愛を経験しているのだ。

本来は、日本の奇跡的な経済発展が神の祝福の故であることを素直に認め、神の栄光を証すべきなのだろうが、今やその繁栄の中で、どれほどの深い淵から救い出されたのかも忘れ、ただ自分たちの我欲の中に生き、再び神の恵みから迷い出始めているのが昨今の状況なのだろう。一度国を失いながらも、再び、主の恵みによって国を再興したイスラエルに学びたいところではないか。日本の政治家も国民もまた、戦後日本を愛のうちに導き、祝され、今日の豊かさをお許しになった、まことの神に目を開かれて、神の前に悔い改めることだろう。そして、コロナ不安に象徴される今のがたがたの社会を、神の招きに従って新しい日本に建て直すことができる、と信じていくことである。物事のすべてを握り、すべてを進めておられる神に、一人ひとりが目を開かせていただくことだ。そして教会の役割は、その神の恵みを証しし、祈り続けることである。そのような意味で、教会にも悔い改めが必要とされるのかもしれない。教会が、神の恵みを世に告げ知らせる場となることを祈りとしよう。

詩篇129篇

129篇 苦難を積極的に受け止める

おはようございます。背景としては、バビロン捕囚、そして捕囚帰還におけるエルサレム再建の苦しみがあったのだと思われます。そのような中で、主の誠実さのゆえに、イスラエルが祝福されたことを思い起こしつつ、主への感謝と共に歌う歌と言えるでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

主語は、「私」と一人称である。しかしこの詩は公同礼拝用の歌とされているように、ここで述べられている苦しみは、どうやら個人的な経験ではない。それはむしろ「さあ、イスラエルは言え」と、詩人が呼びかけているように、「私」という一人称でイスラエル全体の経験を語っている。つまり述べられているのは、イスラエルの歴史的な出来事と考えてよい。

となれば「耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作った。」(3節)というのは、具体的にどういう経験なのだろう。恐らく、イスラエルがエジプトで奴隷にされた経験か、アッシリヤやバビロニヤにおいて捕囚された経験を語っているのではないかと推測される。実際、イザヤとほぼ時を同じくした捕囚期前の預言者のミカは、北イスラエルと南ユダの滅亡を預言し、「シオンは、~畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり~」ということばを残している(ミカ3:12)。

人の人生は、自分の意に反して、全く思わぬものとなっていくことがある。不条理なもので、それは全くどん詰まりの人生に、自分が生まれてきた意味を全く見いだせないことであったり、別の選択に気づいていさえすれば、もっと違った人生になっていただろうに、と思ったりするようなことでもあるだろう。イスラエルの民は、エジプトの奴隷やバビロン捕囚を経験したが、それは鞭打たれ背中にミミズ腫れができるほどの虐げにさらされることで、まさに「耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作る」暴力を経験することであった。

けれども、人生が不本意なままに終わることはない。不本意な横暴が許されたままでいることはない。2節「彼らは私に勝てなかった」とされる。要するに、イスラエルは捕囚のまま廃れ、失われてしまうことはなかった、ということである。そして、4節「主は、正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。」神は正義である。

2.伸びないうちに枯れる

後半は、聖書学者によっては、別の経験を語っているとされる。5節、「シオンを憎む者はみな、恥を受けて退け。」つまり、捕囚から解放された彼らは、別の敵、つまり「シオンを憎む者」に出くわすのである(エズラ4章、ネヘミヤ2:10~)。しかしながら6節、「彼らは伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ。」このイメージは、イザヤ書にも出てくる。イザヤは全く同じイメージを用いて、アッシリヤの王セナケリブに対する神の裁きを語っている(37:27)。となれば同じ経験と考えても差支えない。むしろイザヤとミカが同時代であるとすれば、その時代背景を反映した詩と考えてよいのだろう。

ともあれ、風によって種が運ばれ、屋根に草が生えることがある。誰の目にもよく目につくその草は、日が照ってくれば自然に枯れてしまう。だから7節「そのようなものを刈り取る者はつかまず、束ねる者も抱えることはない。」イスラエルの敵は、岩の上に落ちて育った種と同じく、一時的な成長で終わってしまうのだ(マルコ4:5)。8節「通りがかりの人も、「あなたがたに主の祝福があるように。主の名によって祝福あれ」とは言わない。」ルツ記2:4では、ボアズが刈り入れの人に挨拶を投げかけているが、まさにそのイメージだ。

大切なのは、人生には不本意で不条理に思われることは多い。しかし、神はそのような中で、私たちの歩みをまっすぐにしてくださる。そして、主は正しいお方であるから、悪しき者の横暴をそのままにされることはない。また悪しき者にいつまでも主の祝福を置かれることもない。主の誠実さに信頼しつつ、歩ませていただこう。

詩篇128篇

128篇 主の民の上に平和があるように

おはようございます。主を恐れる縦の関係がしっかりしていく時に、私たちの横の関係も豊かなものとなっていきます。それは、私たちの祝福を超えて、私たちの近隣の祝福となっていくものだからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈

この都上りの歌は、イスラエルの民の日常性を扱っている。捕囚の民として、帰還が許され、彼らが直面した苦難について、それを乗り越えた思いを歌ったのが、126篇であるとしたら、128篇は、その安住の喜びを歌ったものだ。町の再建が終わり、日常生活が落ち着き、主の祝福を感じながら歩む日々に、進んでいる、というわけだ。

2節、「あなたがその手で労した実りを食べること、それはあなたの幸いあなたへの恵み」帰還した捕囚の民は、凶作(ハガイ1:9-11)や搾取そして異邦の民による妨害(ネヘミヤ5章)のために、なかなかまともな労働の実を得ることのできない状態にあった。しかし、神のめぐみと守りによって、再建は達成され、労働の実を楽しみ味わう安住を得たのである。それはまさに幸いであり、恵みであった。

3節、「あなたの妻は家の奥でたわわに実るぶどうの木のようだ。あなたの子どもたちは、食卓を囲むときまるでオリーブの若木のようだ。」妻が家の奥にいるというのは、家事にいそしんでいる状態を言う。当時のユダヤでは、不妊は妻の恥であった(1サムエル1:6)。だから、豊かに実を結び、子に恵まれることは、神の祝福があることを端的に伝えている。確かに、家族が、食卓を囲んで潤った時を過ごすことほど幸せなことはない。

4節はまとめになる。このように、主を恐れて歩む人は、祝福を受ける、と。1節の「幸い」と4節の「祝福」と訳された言葉は、それぞれ異なっている。1節はアシュレー、4節はバラフである。アシュレーは、新約では山上の説教に出てくる「幸いなるかな」に相当し、単に祝福の状態にあることを言う。バラフは、主からの祝福の受け手として恵みを受け、その結果祝福の状態にあることを言う。「幸いなるかな、主を恐れる人は」という宣言に対して「主を恐れるなら、このように祝福される」と結ばれている。

2.主を恐れる幸い

しかしなぜ主を恐れることがこのような幸せになるのだろうか。詩人が語っているわけではないが、それは、やはり目に見えない主を恐れること自体に、俗に言う風通しのよさがあるからではないか。そこにはごまかしもないし、偽りもない。ただお互いを尊敬し合い、愛し合い、支え合う関係がある。神との縦の関係がしっかりしている時に、横の関係もすっきりしている。5節「主がシオンからあなたを祝福されるように。」ヘブル語ではバラフであるが、文法的に言えば受動態ではない。能動的な強調であり「あなたを大いに祝福する」である。しかも、継続・反復の意味がある。だから「主はシオンからあなたを繰り返し、力強く祝福する」の意味となる。「主は大いに祝福する。だから、見ていなさい。エルサレムの繁栄を、あなたの子らの子たちの繁栄を」となる。大切なのは、個人の繁栄が、エルサレムの繁栄につながっていくこと、つまり、キリスト者個人の繁栄は、教会全体の繁栄でもある。あなた、家族、そして教会という広がりを持ちたいものであろう。

「見よ」と訳された言葉はラアー、一般的には肉眼の目で見ることを意味するが、ここでは、あるべきものに注意を向けるように促している。クリスチャンの人生は、神のなさることに目を向けていくことに特徴がある。すべては天から、上から与えられるのであり、神がなさる業に与っていくことである。そういう意味ではこの詩篇は127篇の続きであり、神が備えてくださるものに注目し、素直に喜び受けて歩む大切さを語っている。

詩篇127篇

127篇 神に信頼する幸

おはようございます。朝の目覚めとともに思うことは何でしょう。一日の初めに、まず十分に休んで、体力を整える夜がある。朝は、その眠っている間に、神が一日の働きの準備をしてくださっていることを感謝する時です。そしてその日を始めるわけです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

この詩篇には、主題が二つあるが、その根拠は一つであるという。つまり、私たちが行うことの祝福、私たちの家族の祝福、それらはみな神が備えてくださるものだ、ということだ。人生の祝福の極意は神の哀れみに他ならない。

この詩を書いたソロモンは、伝道者の書を書いている。そこで詩人は、「空の空、すべては空」と人生の空しさを説いている。1節の「むなしい」の原語は、伝道者の書のそれとは異なるが、言っていることは、同じである。

どんな成功も、ただ成功しているだけ、建物の数を増やして、それを守っているだけ、ということがあるものだ。そして、人が死ぬ時には、それらの成果物を、一切この地上に残していかなければならない。彼はその成果物を自分のものとし続けることができない。何とも空しいことではないか。そして、しばしば、人生には、どんな努力も、空しくする不条理があったりするものだ。本来ならば、この先自分の成果物を存分に楽しむことができるはず、と思うところが、突如、その楽しみにピリオドを打たざるを得ない不幸がやってくる。人は自分の人生の先を予測することができない。それも実に空しい。

こうして、やはり人は、物事を建てあげ、それを維持するように計らってくださる神がいることを悟らなくてはならない。歴史の舞台に、人が一人で頑張っている、というのであるならば、やがてどこかでこれらがすべて空しいという現実にぶち当たってしまう。だが、こうしたことを許し、祝福してくださっている神がいる、これら成果物を与えてくださった愛の神のもとにやがて帰るのだという安心感があれば、すべてに意味を感じることができるはずである。

2.眠っている間に備えられる祝福

大切なことは、神に信頼し、神に安らぐ心を持つことだ。2節、「眠っている間に」は、神に委ねた姿勢を語るものである。かつてイエスは言われた。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:5)。私たちの人生が豊かに実を結ぶ秘訣は、第一にイエスに留まることである。常に、イエスのみことばに親しみ、イエスのみこころを行うことに心を傾けることである。神は私たちに、熱心さを期待されはしても、無駄な骨折りは望んでおられない。神は私たちに怠惰は期待されてはいないとしても、適度に休むことは望んでおられる。神は私たちが与えられた祝福を味わうように、願っておられる。

そしてさらに、家族も神の賜物である。「都上りの歌」とある以上、これは巡礼の旅において歌われた。イスラエルの民が巡礼の旅の途上で、この歌を口ずさみながら思ったことは、「矢筒で満たされた」自分たちの姿であったことだろう。イスラエルの民族の出発点であったアブラハムは、矢筒に一本の矢もなかった。そして、その矢が満たされる可能性もなく、人生は過ぎ去ろうとしていた。しかし、神の大いなる哀れみの故に、ただ契約に誠実であった神の故に、その矢筒に一本の矢が与えられ、それがやがて12本の矢となり、そして巡礼の旅を共にするイスラエルの民がいる。その矢の数は数限りない。神の約束された通りにアブラハムの子孫は偉大な国民となった。しかしこれもまた、「眠っている間に」起こったこと。神に信頼する中で、神が全て備えてくださったことである。神の祝福にもっと期待を持って歩ませていただこう。

詩篇124篇

124篇 主の御業を想起せよ

おはようございます。今日の詩篇は、もし、神がおられなかったら、と自分の過去を振り返る時を与えてくれます。あれもこれも神のなさるわざ、神の恵みがあればこそ、ここまで来ることができた、というものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

「もしも主が私たちの味方でなかったなら」人生にif(イフ:もし)はないのだ、と言われる。しかし、その「もし」をつかって、詩人は、神の守りがあった、救いがあったと語る。ダビデの初期の作、特にサウル王を殺めたペリシテ人から来た危機を背景としているとされる(2サムエル5:17以下)。

その時の危機的状況が四つの比喩で語られる。たとえば、人々が逆らって立ち上がった時に、私たちは生きたままのみこまれたであろう(2,3節)、とされる。この言い方は、例えば箴言では、罪人が罪のない者を食い物にしようとする様を描いて用いられる。その危機的状況は、死の世界に引きずり込まれることに等しいものであった(箴言1:12)。しかしそこから救われた、というのが大事な点である。

次に、彼らの怒りが燃え上がった時、大水に押し流され、流れは越えていった、という(3、4、5節)。大水の濁流も、詩篇に繰り返し出て来る比喩である(32:6、69:12、93:3、4)。いずれも絶望的で救いようのない状況、敵対する者の圧倒的な力強さを象徴している。ことに詩篇69篇では、バビロン捕囚を連想させ、時代のうねりの中で、手も足も出ない苦しさを語る象徴として用いられている。93篇も、大河を持つバビロンに捕虜として連れ去られ、失われようとしたイスラエルの危機を語っている。しかし神は、そのような状況から、水が破れ出るようにペリシテ人たちを打ち破り、ダビデを救い出された(2サムエル5:20)。

そして三つめに、6節「歯のえじき」。この比喩も良く使われる。たとえば、詩篇22:13-20、メシヤ詩篇ともされるこの詩篇では、窮地に立たされた詩人の状況が、また、79:7は、バビロンに滅ぼされ廃墟と化したエルサレムの状況が、語られている。いずれも「歯のえじき」になる所を助け出されたのである。最後に7節、「仕掛けられた罠」91:3 にも同様の表現が出てくるが、そこでは、出エジプトを導かれた神の業が想起される。

2.神の誠実さに燃やされていく

確かに、もし、主がイスラエルに敵対していたとしたら、イスラエルは根絶やしにされ、もはやこの地上には存在しない民族になっていたのかもしれない(4,5節)。しかし、神はアブラハムに対する契約を忘れることはなく、イスラエルの民を救われた(6,7節)。それは、偶然の救出ではなく、誠実な神による救出であった。目に見えない天地を造られた神の助けに、私たちは大いに期待を寄せることができる。

最後に1節、「さあ、イスラエルは言え」という会衆に対する呼びかけに注目しておこう。礼拝の交唱を思わせるこの一文は、まさに礼拝が、共に神を認め、共に神の御業に期待する時であることを教えられる。礼拝は、信仰を持ってささげられなくてはならない。一連の儀式をこなしているものではない。共に、天の神に注目し、その神がなさった御業を想起し、神に対する全き信仰を燃やしていく時である。単純な比喩であるが、その比喩に彼らはあれこれ連想し、神はあの時も私たちを救ってくださった、この時もそうだった、と、一つ一つ神の救いを確かめ、神の守りと救いに対する確信を高めていったのである。同じように、私たちも礼拝の中で自らの歴史に主がなしてくださった偉大な救いの業を想起し、主の介入を覚え、いよいよ主の確かさを覚えていく時を持つのだ。真の神の民として、信仰の経験を回想し、主を中心に皆の心を一つにし、いよいよ燃やされるところに、礼拝の祝福もある。