申命記13章

申命記13章 神から遠ざける誘惑に警戒せよ
<要約>
皆さんおはようございます。人は、目に見えない神よりも、やはり具体的な周囲の人々によって左右されやすいものでしょう。宗教的な指導者も様々で偽預言者というべき存在もあります。そして近親者も、さらに町の甘言巧みな人々も誘惑者となることがあります。そのような中で何が正しいかを識別し、神に対する信仰をしっかり貫く厳しさが必要とされるのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
3)神から遠ざける誘惑に警戒せよ(13:1-18)
申命記の12章以降は、律法であるが、これが愛されるべき主のことばとして受け止められるには、神の愛をまず経験していること、神との親しい交わりの中に入れられていることだろう。福音の光の中で律法を読む、とはそういうことだ。イエスの十字架にある罪の赦しをもって、神とのしっかりとした愛の関係が出来ていればこそ、慕うべき教えとなるが、そうでなければ、なんともそれは窮屈で、ほとんど意味不明の戒めですらある。
そういう意味で、聖書通読が続いていく秘訣は、イエス・キリストにあって新生し、神とのよき交わりが回復されていることにある。そこができていればこそ喜びと感謝を持って、読み進んでいけるところがある。
さて12章に続いて、主を愛することがテーマとなり、主から遠ざける、偶像、自己流の礼拝に警戒することが述べられた後、ここ13章では、偽預言者、友人・知人、世俗の指導者による誘惑に注意すべきことを語っている。
(1)偽預言者による誘惑(1-5節)
そこで第一に、偽預言者に警戒するように語る。律法の最も大事な部分は、「あなた方の神、主を、心を尽くし、精神を尽くして愛せよ」であるが、いつでも神を愛するよりも、神に愛される、神に祝福される、神が奴隷のように私たちに奉仕してくれることを望む、主客転倒しているのが人間の現実でもある。こうした私たちの弱さにつけこみ、他の神々に誘い込む偽預言者は、誰でも殺されなければならない、とかなり手厳しい。実際にそのように偽預言者が殺された例は、旧約聖書では1列王18:40、エリヤがバアルの預言者を殺したものだけである。だからこれは誇張法的な言い方であって、実行されるべきというわけではないのかもしれない。
彼らの誘惑はしるしにある。多くの人々は、宗教にしるしを求めるものだろう。しかし、聖書信仰において大切なことは、しるしよりも神を愛することである。しるしを伴なう教えには、よくよく注意し、霊的に識別されなければならないことである。
(2)友人、知人による誘惑(6-11節)
続いて、神から私たちを遠ざけようとする誘惑は、近親者から来ることもある。家族が私たちの誘惑者となることがある。6節、「あなたの愛妻」は、原文では「あなたのふところの妻」「あなたの無二の親友」は、「あなたの魂のようなあなたの友人(あなた自身のように愛している友人)」(1サムエル18:3参照)である。
ユダヤ人は家族をどの民族よりも大切にした。しかし、そんな大切な家族からさえも、神から私たちの魂を引き離す誘惑は生じうるのである。イエスが、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分のいのちを憎まなければ、ご自分の弟子にはなれない、と語ったのも、同じような警戒を示すべきことを語っている(ルカ14:26)。人は、それが明らかに敵のことばであれば警戒するだろうが、アダムがエバの語りかけに全く警戒心を抱かなかったように、近親者に語られた場合にはほとんど警戒しない。質の悪い誘惑というものがあるものだ。人情や愛情に富んだような美しい仮面をかぶって迫って来る誘惑がある。
(3)世俗的な者による誘惑(12-18節)
「よこしまな者たち」(13)とは、「悪人」という意味よりも「天の恵みに与ることのない人」つまり、神様を知ることも、恐れることもない人々を言い表すものである。この種の誘惑の場合、調べ、探り、よく問いただすことが求められている(13-14節)。つまり、それは、先の人情による誘惑ではなく、組織的な誘惑だからだ。今まで忠実に従ってきた神から目をそらさせていくもの、神との関係を遠ざけていくもの、それが社会の動きとなって迫って来ることがある。
こうして誘惑は、偽預言者(3-5節)、近親者(6-11節)、町の者たち(12-18節)から生じる。しかし、どのような関係であれ、私たちを神から引き離し、心を尽くし、精神を尽くして主を愛することを止めさせるようなことには警戒しなくてはならないし、それらを拒否しなくてはいけない。自身の信仰を守る厳しさをしっかりと持ちたいところだろう。「主に従って歩み、主を恐れ、主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがる」道を進ませていただくところに、私たちの祝福がある。

申命記12章

申命記12章 申命記法典:礼拝に関する規定
<要約>
皆さんおはようございます。本日から一般に申命記法典と呼ばれる、申命記の中でも最も根幹となる部分に入っていきます。まずその初めに、自己流ではなく、聖書流に、つまり神に教えられる生活が勧められて行きます。約束の地は、クリーンな世界ではなく、異教的な習慣の蔓延した世界でした。私たちも神にあって新生しながらも、異教的な環境の中で神の民として生きるように召されているのです。積極的に神のいのちに生きる歩みをさせていただきましょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.基本的なみ教えの適用(12:1-26:19)
1)礼拝についての諸規定(12:1-17:7)
 昨日、11章の終わりは、12章の序論となっていることを語ったが、ここには興味深い文学的なつながりがあるとされる。つまり、11:26-32は、①祝福と呪い(26-28節)、②ゲリジムとエバル(29-30節)、戒めに従うようにという命令(31-32節)となっているのだが、これは、続く12-28章に、①命令(12:1-26:16)、②ゲリジムとエバル(27:1-8,11-26)、③祝福と呪い(28:1-68)と逆順にキアスムス(交差配列法)という修辞的構造となっていることが指摘されている。ともあれ12章からは、一般に「申命記法典」と呼ばれる内容で、12-15章にわたって儀式律法を、16章以下は市民律法を扱っている。それは、5-11章で大まかに描かれた律法の精神の詳細な適用、という風に考えてよい。
そして12章は、礼拝に関する規定であるが、申命記法典全体の序論となっている部分である(1-28節)。
(1)異教の礼拝を取り除く(12:1-4) 
最初に、イスラエルの民は、所有する地において、異教的な礼拝の対象と場所を破壊するように命じられる。彼らは約束の地カナンに入ると、まず自分たちの信仰とは本質的に異なる多神教に直面しなくてはならなかった。山、丘、青木の下など、様々な偶像礼拝の場所が多くあった状況について、それらを取り去らねばならないと語る。というのもそれらは、後々イスラエルの民を宗教的に誘惑するものとなったからだ。イスラエルの民が礼拝し仕えるのは、ただエジプトから彼らを救い出した主のみであり、礼拝する方法も、主が命じる方法ですべきである、と。唯一まことの神との正しい関係こそ、新しい国家の歩みの基礎とされるのである。
 実際に、イスラエルの歴史を見ると、その命令は必ずしも徹底されなかったので、イスラエルには異教的な礼拝が繰り返し出現し、アサ(1列王15:11-14)、ヒゼキヤ(2列王18:3-4)、ヨシヤ(2列王23:4-25)による宗教改革が行われている。神の命令に対する不従順が、結局、彼らの信仰の歩みを妨げ、躓かせ、神を信じる等無意味で愚かしいとすら思わせる異教的な圧力に彼らを晒すことになったのである。そして、宗教的逸脱と回復が繰り返される歴史となった。神の民として、世俗化にのみ込まれてしまうのではなく、唯一まことの神との正しい関係を持ち続け、世に対して、生ける神を証する、光と輝く国家であることが求められている。
(2)主の定め(場所、物、方法)に従う礼拝(12:5-19)
5-7節は、どこで、どのように、主を礼拝すべきかを教えている。神を礼拝するためには、自分の正しいと見えることに従って(8)、勝手気ままな場所(13)で礼拝するのではなく、主が正しいと見られること(25)を行うことが求められている。神の方法に教えられ、それに従わなければならない。神の実在とその人格的存在を覚えるなら、やはり、神のみこころを差し置いて、自己流の礼拝をささげることはできない。自己流から聖書流に自分自身のあり方を変えていく、それが信仰の成長、成熟である。
 当時礼拝は、会見の天幕でなされていた。会見の天幕を中心に、部族は整然と配置され生活し、ささげものは必ず会見の天幕へと携えられた。また約束のカナンの地に入ってからは、異教の祭壇をそのまま流用することはなく、新しく神殿を設け、そこでささげものはささげられた。つまり選ばれた場所、神が指定された場所で礼拝は行われた。そのような意味では、私たちの礼拝も選ばれた場所、定められた教会ですべきものである。
 また、選ばれた礼拝の場所に携えて行かなければならないささげ物についても定められている。全焼のいけにえ、ほかのいけにえ、10分の1、奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、牛や羊の初子というように(6)。それらを主の選ばれた場所に携えて行くこと、そして家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張る(7、11-12)ように命じられている。つまり、主の前で食べ、手のわざを喜び楽しみなさいと言う。主の祝福を覚えて、家族で感謝せよという。聖徒の交わりは、神様を中心にした素晴らしく楽しく喜ばしい時を持っている。堅苦しい、真面目腐った、暗い、生き方でなく、明るく、健康的な力強い歩みがある。確かに礼拝もまた神を喜ぶ時で、単なる宗教儀式ではない。それは一週の歩みの中で主の祝福と安息を喜び楽しむ時なのである。
2)生活のわな(12:20-32)
次に異教的環境の中で、どのように日常の生活を進めるべきかが語られる。所有地に入り、安住するようになった時に、「彼らに倣って、罠に陥らないようにしなさい(30節)」と命じられている。しかし、後に彼らは、自分たちの息子、娘を火で焼き、モレク(レビ18:21、20:2、エレミヤ32:35)に、またバアルにささげる過ちを犯してしまった(エレミヤ19:5)。
イスラエルの民は、新しい地に入り、その新しい生活様式を一つ一つ教えられている。しかしその教えから離れてしまっている。決心をして信仰を持ち、新しい信仰の歩みをスタートさせたのなら、まず自分の良いと思うところではなく、聖書によく学んで教えられていくことが大切だ。そして聖書の教えに堅く立つことを絶えず心がけることだ。
 というのも、私たちにとって教会生活だけが全てなのではない。働くこと、企業の中での生活、子どもを養育すること、親戚や友人、そして近所づきあいをする生活、学生にとっては学生生活、と人の生活には様々な諸相があり、その生活が本当に力あるもの、意義あるもの、目的と生きがいを感じるものとなるのは、礼拝という、神との関係を正しくする行為があってこそ、である。そうでなく、神を軸にするのではなく、神を抜きにする生活に堕してしまえば、結局、これまでの異教的な古い生活習慣をそのまま引きずる生活か、気づいたらまた元のその古い生活習慣に逆戻りしているかのいずれかになってしまうだろう。神のいのちにあって新しく生まれたのであるから、新しいまことの神を礼拝し、その神の価値観に倣う新しい生活習慣を建て上げていくように心がけることだ。そこからぶれない歩みをさせていただこう。

申命記11章

申命記11章 神の御教えに生きる勧め
<要約>
皆さんおはようございます。本章は、モーセの第二の説教の締めくくりにあたる部分です。神は、何よりもまず神の御教えを愛することを語りかけていることに注目したいところです。それは、具体的に、神のことばを記憶する工夫と努力を要するものであり、神のことばに生きることの他なりません。神に近づく努力が何よりも求められているのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
(4)神の恵みによる祝福
①助けてくださる神(1-8節)
この時、イスラエルの民は、出エジプトの素晴らしい神の御業を見ながらも、まだ荒野にいて、安息の地の一歩手前で立ち止まっている状態であった。民数16:1-35のダタンとアビラムの出来事が取り上げられていることからすれば、どうやらモアブの野にいたのだろう。彼らは、約束された葡萄や穀物の収穫を得て、味わい楽しんでいたのではなく、ただ、ひたすらその安息の夢を抱いて、カナンに向かって出ていくのでもなく、荒野に留まるのでもない宙ぶらりんの状態にいたのである。それは、実に無為な時間であった。
イスラエルの民が置かれた、そのような状況は、私たちの教会設立の歩みの中にも容易に再現されうることで、私たちが将来完成できると約束されている事柄において、なかなか物事が進まず、またそのようになっていくにはあまりにも敵が強すぎるように思われ、さらに、ただただ無為な時が流れていくだけに感じられる、教会設立の初期の困難を全く知らない世代が起きてくることもある。
そこで神は言う。「あなたがたの神、主の訓練を、その偉大さを…」子どもたちは知らないが、あなたがたは見ている、と。あなたがたは、誰なのだろうか?具体的に考えてみれば、それは、38歳以上の者である。いわゆる40代以上の者であり、子どもたちというのは、荒野で生まれ育った、38歳以下の者たちである。
神は、壮年層に向かって「あなたがたは、私が、今日あなたに命じるすべての命令を守りなさい。それは、あなたがたが強くなり、あなたがたが渡って行って所有しようとしている地を所有するため、また、主があなたがたの父祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地で、すなわち、乳と密の流れる地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」(8、9節)と語りかけられる。彼らがエジプトを出てきた時は、まだ子どもの時であった、しかし子どもながらに、神の素晴らしいい御業と神の恐るべき裁きを目撃してきた世代である。そしてその事実を知らない子どもたちを育てている世代である。そのような世代に向かって、神は、ご自分を愛し、心を尽くして、いのちを尽くして使えよ、と命じるのである。そして、神のみ教えに従っていくならば、あなたがたは強くなると、神は約束される。そして所有しようとしている地を所有することができるという。 
②神、主を愛し、仕える(9-25節)
イスラエルが出て来たエジプトの地と、これから入って行って所有しようとしている約束の地とが対比されている。「あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。 しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。」(10,11節)「自分の力で」の直訳は、「自分の脚で」である。エジプトの地は、降雨量は少ないが、ナイル川の水によって灌漑され、運河や用水路によって畑のそばまで届くようになっていた。しかし彼らは、その水を畑に組み上げるため、足で水車を回していたようである。自分の力で水をやらなければならなかった、そのような土地から天の雨でただ潤っている土地へとわたしたちは導かれるのだと言う。神の恵みは、必ず私たちの努力に対する報いであるかのように考えているところがある。しかし、そうではない。ある意味で、私たちが獲得のための努力をせずとも、祝福を得るような言い方である。確かに、神の恵みというのはそういうものだろう。私たちの努力とは別の所で色々と実を結んでいくことがある。もちろん、全く何もしなくてもよい、ということではない。ただ何をするにしてもまず、「神、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くして仕えるという命令に、確かに聞き従う」(13節)こと、神の道からそれないことにこそ意を注ぐこと(16節)、そして「家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい」(19節)という部分を大事にして、なすべきことをなす、ということだろう。
③祝福とのろい、決断と選択への召し(26-32節)
大切なのは、神のみおしえを守って生きるという一点にいつも集中することだ。淡々とみ教えにしっかりと従っていくことである。それは、18-20節に教えられているように具体的な努力である。聖書日課でも、祈りでも、教会出席でも献金でも、目に見える形でカレンダーに記しを付けたり、日課表をペンで汚していくことが案外と大切なことではないか。
ゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを、この儀式については、27:11-26に詳しい、そしてこれが実際にどのように行われたのかは、ヨシュア記8:30-35に記録されている。なお、ゲリジム山は、イスラエルの民にとっては、シェケムの聖所の右側にあり、エバル山はシェケムの聖所の左側にあった。東を向いて右は南側、左は北側。右は優位な地、祝福と考え、左(北方)はその反対と考えたのだろう。しかしここでは、右か左か、祝福かのろいかの二者択一を求めている。31-32節は、第二の説教の序論的な部分の締めくくりであり、明日から読んでいく、第三の説教(12-26章)の中心部分を語るものである。  
教会生活を通し、聖書を通し、祈りを通し、神は、私たちの心に語り掛けてくださる。しかし、それを受けるか拒むかは、私たちの自主的な決断による。神は何とかして祝福を与え、永遠の喜びに生かそうとして心を配ってくださるが、強制はされない。祝福を選ぶ歩みを、そして神の御教えに生きる具体的な歩みを大事にしたいものである。

申命記10章

申命記10章 十戒の再発行と心の割礼の勧め
<要約>
皆さんおはようございます。モーセの堪忍袋の緒は切れても、神のそれが切れることはない。神はモーセが叩き壊した十のことばの板を作り直されて、再度、イスラエルの民に再生のチャンスを与えます。そして以下に生きるべきかを語ると同時に、神にすがりなさい、と語るのです。主にすがりましょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
(3)十戒の再発行
①契約の更新(1-11節)
モーセの回想が続く。エジプト脱出後、モーセがシナイ山に登っている間、イスラエルの民は、金の子牛を崇拝する大きな罪を犯した。神に与えられた十戒の板は、モーセの怒りによって粉々に砕かれ失われてしまったが、神はこれをもう一度書き直してイスラエルの民に与えてくださった、と回想する。
イスラエルは神を裏切り続けてきた。神と人の仲介者であったモーセには、我慢のならないことであった。しかし、神は忍耐強く彼らを赦された。彼らはうなじの固い、強情な民であったし、モーセが捨てたものを、どうして神は去られなかったのか。神はそんなお人よしなのか。そうではなく、神はモーセに優ってイスラエルを愛し、契約に忠実であろうとされたのである。いかに民が裏切ろうとも、神は彼らの先祖たちと結ばれた契約を破棄することをせず、忠実に守り続けてこられたのである。この神の誠実さとあわれみなくして私たちに希望はない。私たちは迷いやすく、逸脱しやすい。しかし、神が永遠に変わらぬ愛を持って、私たちに接し、ご自分の約束を守り続けてくださるからこそ(今日には聖餐の契約によって)、私たちは、神の祝福の中に歩み続けることができる。
6節の挿入的記述は、いささか混乱するところであるが、基本的にイスラエルの民の旅程と、その間に起こったことが記されている。それは、急に話題を変えたようでもあるが、「主の契約の箱」に関連して、この箱を運ぶ任務を持っていたレビ部族について述べるための布石となっている箇所である。ただ、混乱するのは、地名の表記であり、民数記33:31-33といささか違う点があるところだろう。「ベエロテ・ベネ・ヤアカンからモセラに旅立った」(6節)とあるが、民数記33:30-31では、「モセロテ(モセラ)から旅立ってベネ・ヤアカンに宿営し」た、と順序が逆になっている。また、「アロンはそこ(モセラ)で死に、そこに葬られた」とあるが、民数記20:28と33:38では、ホル山(の頂)で死んだとされている。モセラを葬列の出発地とし、ホル山付近を埋葬した地と考えることもできるが、旅程についてはいくつかの説があり、正確なところはわかっていない。
ともあれ、旅程(6-7節)とともに、レビ族の三つの任務が語られ①主の契約の箱を運び、②主の前に立って仕え、③御名によって祝福する(8-9節)、そして、彼らが民の先頭に立って進むことが勧められる(10-11節)。じっと我慢の子ではないが、少々困難があっても、与えられている時を大切にし、コツコツと物事を継続していく忍耐強さを現代は必要としている。何か邪魔や不都合が起こると中断し、やめてしまうのではなく、コツコツ祈りながら課題と取り組み、生活を進めていくことが求められている。そのように先頭を走る者があってこそ、何事も、進んで行くものなのだ。モーセは、「占領することができる」と主の約束を繰り返した。
②主が求めておられること:心の割礼(12-22節)
12節からは献身の招きとなっている。これは、11章の32節まで続いているが、5章から始まる神の御教えの総括、および申命記の中心主題の総括であるともされている。それは、神が私たちに求めておられること、つまり、主を畏れ、主の道に歩み、心を尽くし、精神を尽くして主を愛し、主に仕えることを教えるもので、以降、申命記の中で、繰り返し命じられている(4:29、11:13、13:3、26:16、30:2、6、10)。 
しっかりと心に留めたいところだろう。というのも、私たちは、確かに「うなじの固い民」であって、私たちの心はいつでも、神よりも、神でないものを求め、霊性よりも世俗性に傾きやすいからだ。悪に走る深い罪の衝動性は否定することのできないものである。私たちは、本当の幸せのために与えられている主の命令を束縛と感じてしまうところがある。実際私たちが、何か信仰や教会のことで束縛を感じているのは、神に対して心を閉ざしている時だ。自分の内に罪を赦し、抗しきれない悪の誘いの中で、神に背を向けている時である。向きを変えればよいものの、私たちにはそれができない。そこで私たちは自分ではなく、他人を責め、教会を責めてしまうこともある。問題は、私たち自身にある。自分のこころの深みの問題にこそ気付かなくてはならない。身体ではない、心の包皮こそ切り捨てなくてはならない(16節)。そういう現実をわかって、そういう現実から、救われることを願えということだろう。本当に信仰者として生きることは、戦いである。自らの罪性をはっきり見据えて、自らの罪と戦っていく、他人の罪と戦うのではなく、自らの罪と向かい合って自らの罪に勝利していくのである。
17節以降は、そのように心の割礼を施した者の生き方の姿勢を語る。神がえこひいきをせず、賄賂を取らず、社会的弱者を守り、愛されているように、異教の民、世俗の社会で、神の民として実生活をとおし、証を立てることを求めている。つまり心の割礼によって実を生み出す歩みをするように語っているのである。
しかしそれは、自分の努力ではない。神は命じられて、後は自分で一人で立っていけと言っているのではない。20節、「主にすがり」とある。私たちは無力さの中にあるからこそ、神を信じたのである。だから主にすがり続けて、主の恵みの業として、私たちの人生に主の業が起こってくることを期待しなければならないのである。だから一方で、神の戒めに生きることは、負うべき重荷ではなく、私たちの幸せのために与えられた神の恵みである。私たちは神に命じられるが、神の助けによって勝利すればよいからだ。自らの罪とにらめっこしてはっけよい残ったと勝負するのではなく(それでは、ますます罪に囚われ、打ちのめされるだけである)、神を見上げて、神にすがり、神の格別なるあわれみによって私たちの内に主の業が起こることを期待し続け、ただ淡々と主に仕えていくだけでよいのだ。70人でエジプトへ下った私たちが、「空の星のように多くなる」神の恵みの業が着実に日々築かれていることを信頼し続けることである。時が来れば、それは誰の目にも明らかになるのである。本当に必要とされているのは、心の割礼、つまり神に対する心の方向転換、神への深い信頼と献身である。それは、私たちを変え、私たちを良きに建てあげていくのである。

申命記9章

申命記 9章 イスラエルの背きの罪
<要約>
皆さんおはようございます。イスラエルの背きの罪と、イスラエルが滅びないために、イスラエルの民のために傷みながら、知恵をもってとりなしたモーセの心の内が明かされます。モーセは偉大な指導者でしたが、実際には、イスラエルを愛する親というべき存在でした。彼は知恵ある交渉人、民の利益を図る者だったのです。そこに、私たちの成長の目標も示されていると言えるでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
5.イスラエルの背きの罪とモーセのとりなし(9:1-10:11)
1)イスラエルの義の結果ではなく、主の意志の結果である征服(1-6節)
イスラエルの民がカナンの地を所有できるのは、イスラエルの民たちが正しいからではなく、カナンを占領していた諸民族、たとえばアナク人が悪いためであった。2節、敵対者アナク人の強さが、大げさに描かれている。彼らの道徳的堕落のひどさは、レビ記18:2-23によっても伺い知ることができる。だから主ご自身が「焼き尽くす火としてイスラエルの前を進み彼らを根絶やしにされる」のである(3-5節)。
そしてこのような祝福を与えられたイスラエルの民も、アナク人と五十歩百歩であった。6節、「うなじ」は、首の後ろ、襟首の部分を指す言葉である。イザヤ48:4では、「首筋」と訳されている。「うなじが固い」とは強情なことで、頑固なことを表現している。くびきを着けられることを拒み、首を立て、うなじを固くして、抵抗する牛のしぐさから来ていて、神への不従順を表現している。確かに彼らは、出エジプトからここに至るまで、主に逆らい通しであったのであり(7節)、こうして主が彼らを祝福されたのは、彼らに対する神の愛と先祖たちに対する誓いのためなのである(5節)。
カナン征服を実現させたのは、主ご自身であり、イスラエルではない。イスラエルは何か自分たちに優れたものがあったから、この戦いに勝ったと言うことはできない。
2)イスラエルのかたくなさ(9:7-24)
7節以降、神に逆らい通しの具体例が過去を振り返る形で描かれている。主要な事件は、金の子牛の出来事(8-21節)、その他タブエラ(民数11:1-3)、マサ(6:16)、出エジプト(17:2-7)、キブロテ・ハタアワ(民数記11:4-34)、カデシュ・バルネア(民数13:25-14:12)での事件(22-23節)で、簡潔に語られている。先の5:15では、神が力強い御手をもって自分たちをエジプトから救い出してくださった恵みの事実を覚えているように命じられていたが、ここでは、荒野において自分たちが、その神に逆らい通しであった事実をも覚えているように求められている。それは、このように不従順な自分たちを、なお生かして下っている神が、今自分たちに何を求めておられるかを、神のみおしえによって、彼らが知るようになるためである(10:12,13)。
また回顧の中で、モーセのとりなし(18-20節、25-29節)はイスラエルの反抗(7-17節、21-24節)と対照的に描かれている。実際申命記においては、モーセの仲保者としての役割が強く意識され、強調されている。モーセのアロンのためのとりなしも、申命記独自のもので、出エジプト記、民数記には記録されていない。しかしこれらの記事によって強調されるのは、イスラエルに対する主の愛と憐れみである。
3)モーセによるとりなしの祈りのことば(25-29節)
モーセの仲介者としての労が語られる。モーセのとりなしと神の忍耐がなければ、イスラエルはホレブで滅びていただろう。悲しいことにイスラエルは強情であった。彼らが存続するためには、神の継続的な忍耐とモーセの繰り返されるとりなしを必要とした。
しかしモーセが仲介者となり、とりなし手となることは、実際には、イスラエルの罪のゆえに苦しみ、痛み、知恵ある交渉人となることに他ならなかった。
彼はとりなしのために、常に、先祖アブラハム、イサク、ヤコブにお誓になった約束を取り上げた。神は約束するが、口先だけと言われることのないためである。確かに約束の地にイスラエルの民を連れていくと言いながら、その目的を完遂させないならば、人々は神の力に限界があると考えて、神を恐れなくなるだろう。また呪いと祝福という契約の賞罰も侮られてしまうことだろう。こうして、とりなし手としてのモーセの役割に注目される。モーセは、イスラエルのために多岐にわたり、偉大な働きをしたが、何よりもとりなし手としての働きに卓越していた。実際、モーセの自己を無にしたとりなしと、徹底して神の真実に訴え、神の約束の履行を願うその姿に、神のあわれみと忍耐も注がれたのである。モーセのように、とりなし手となる働き人が、今の時代であればこそ必要とされる。