ヨブ記35章

ヨブ記35章 正しい心で神を待ち望む

<要約>

おはようございます。神の沈黙をどう考えるか。しかし、マラキ以降、400年神が沈黙された時代を覚える必要があるでしょう。やがて神は言葉として現れた、つまり、それは神が沈黙を破られたことであると語るのがヨハネの福音書です。沈黙は何もないということではなく、沈黙の陰で動いている部分があると理解すべきでしょう。大切なのは、神の時を正しい心で待つこと、そんなことをエリフの弁論に教えられるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.天に目を向けよ(35:1-8)

エリフは言う。ヨブよ、あなたは、自分を正義の勇士だとでも思うのか。自分が神よりも正しいというのか(2節)。というのもヨブよ、あなたはこう言う。3節「あなたがこう言っているからだ。「何があなたの役に立つのでしょうか。私が罪から離れると、どんな利益があるのでしょうか」ヘブル語の流れに沿って直訳すれば、あなたにとって何の役に立ち、私にとっては何の利益があるのか。私が罪を犯したからといって」となるだろう。言いたいことは、「私が過ちを犯す、犯さないが、果たして神に何の意味があろうか」である。エリフは言う。その通りだ、と。そして、大事な点でもあるのだが、エリフは、ヨブが、弱い者の味方になって、拡声器のように同じ境遇にある者の代弁者となっていることへの警告を発している。4節「私はあなたにことばを返そう。あなたとともにいる友人たちにも」つまり、ヨブよ、そしてヨブの類の人々よ、自分や社会の暗部ばかり目を向けることは止めて神を見上げよ。天を仰げと。地上に雨が降ろうが、雲の上は、常に晴れている。地上のことと相いれない天上の超越した世界がある。確かに、神は超絶した方で、人間がどんなに罪を犯そうと、いかに正しくあろうと、神には何の関係もない、神がそれでどうなる、というわけでもないのだ(5-7節)。この神の至高性を理解することはなかなか難しい。私たちはわかったつもりになっているだけで、その実、神を人間の世界に引きずりおろしていることが多いのだ。

ところでエリフは、8節「あなたの悪は、ただあなたのような人間に、あなたの正しさは、人の子に関わるだけだ。」と語り、計らずも十字架の贖いの思想を示唆している。つまり、人間に正しさが認められるとしたら、それは、人の子とのかかわりにおいて、と言っているのであり、「身代金を得た(33:24)」に続いて、ここでも預言的にイエスの贖いを語っている。大切なのは、私たちが神との交わりを得るとしたら、ただイエスの贖いの故であり、私たちの義そのものが神の目に留まって愛でられるなどありえないほどに、卑しい者であることをわからなくてはならないのである。

2.神に近付く正しい態度を持て(8:9-16)

だから、人間は神に近付くにおいて正しい態度を学ばなくてはならない。それはヨブも同じであった。後半は、祈りが答えられない理由について端的に触れる。「人々は、多くのしいたげのために泣き叫び、力ある者の腕のために助けを叫び求める」(9節)。力ある者が、何食わぬ顔で法と哀れみを捨て去り、自分都合で物事を運び、私腹を肥やすことはよくあることだ。そうした不正は社会に蔓延している。そこで踏み躙られた者は、助けを求め、泣き叫ぶ。しかしそれはただ、獣のように叫ぶだけである。そこで理性をもって、静かに、神はあわれみに富み、眠っている間に全てを供え導いてくださるお方であるし、新しい力を与えてくださるお方である(10節)。また、最も小さな人間にも、獣をはるかに上回る知恵を授けてくださるお方である。そのように創造主の温かな心を信頼し感謝をもって、崇敬しつつ近付くものはいない(11節)。確かに、追い詰められた中で、もはや理性も働かず、ただ愚かさをさらけ出し、神に食らいつくように祈ることもあるだろう。しかし、そうであってはならない。人を思うままに抑圧する悪しき者の祈りを神は聞かれることはないが(13節)、ヨブのように、ただ自分に重きを置いて、自己主張的に神に助けを求める者たちにも、神は心を留めようとはしないだろう(14節)。

そして理解すべきである。神の沈黙は静止ではない。そこには動きがある。神は、私たちの叫びを聞き漏らすような方ではない。人間というものは、とりあえず片が付いた、として物事を終わらせて記憶から消し去ろうとするものである。壊れたものは、もう戻せないのだから、と物を捨てるように切り捨てていくことが多い。だが神はそうではない。片が付いた、と思われるような状況になっても、神の関わりは続いていく。人間的に言えば、神は不器用なお方なのだ。神は至高なるお方であるが、人間の救いのために、手を汚すお方であり、実際に十字架のイエスをお遣わしになったお方である。だから私たちの小さなうめきを決して見過ごすようなお方ではない。大切なのは、そのようなお方として神を見、神に謙遜な心をもって近付きお願いすることなのである。そのような意味で、イエスのゲッセマネでの祈りは、神の御心を優先する模範であったことを思い起こすべきだろう。イエスはヨブのようにまず自分に重きを置いて、荒んで祈ることはなかった。

「訴えは神の前にある。あなたは神を待て」(14節)。これがすべてである。神を神として畏れ、神が私たちの父として心配しておられることへの信頼を大事にし、神の時を待つ、そしてレビ記に教えられるように、正しい態度をもって、神に静かに近づくことである。私たちが学ばなくてはならないのはそのことである。私たちがここで学ばなければ、何度も同じところを通らされることだろう。その度に、神は聞いてくださらない、というのではなく、「訴えは神の前にある」という経験を得なくてはならないのである。ヨブよあなたはその点において弁えがなかったのではないか(16節)。神の時を待つことにくたびれ果てることがあっても、自分が特別であるとは思わず、神の前に謙って、待つことを学ばせていただこう。

ヨブ記34章

ヨブ記34章

<要約>

おはようございます。34章は、いくつか翻訳上の難しさのあるところです。わかりにくいところも多々あります。しかし、これを読み味わうながら、神の深い愛への信頼を掻き立てられる部分でもあることでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ヨブの言い分は、不本意な結論をもたらす(34:1-9)

エリフは、ヨブの不満を二つに要約する。一つは、「わたしは正しい。神が私の正義を取り去った」(5節)。つまり、私は罪を犯したこともないのに、神によって不当に苦しめられているという。そして二つめに「神と親しんでも、それは人の役に立たない」(9節)。神と友になっても何もよいことはない、「神に祈ってどんな利益があるのか」(21:15)というわけである。エリフは、第一の不満に対してはこの34章において、第二の不満に対しては35章において、さらに詳しく答えていく。

まず、ヨブは、自分に対する神の取り扱いが正しくない、不正であると不満をもらした。しかしそれは、神に対して不当な結論をもたらすことになる、神の義を嘲る悪者どもと同じ言い方になるのだ、と警告する。ヨブの苦悩は、その通りかもしれないが、そのことを主張し続けることは、ヨブにとっても不本意な結論を引き出すことになる。

2.神に不正はない(34:10-22)

というのも神は公正であり、神に不正は絶対にないからである(10-12節)。神は創造者であり支配者である。神は無から有をお造りになる全能者である。その神は、ご自身がお造りになった宇宙の秩序を正しく維持されるお方である。神は、この地や世界を誰かに委ねられたわけではない。自らが最終決定者である(13節)。だからもし神が「思いを定め」この地を終わらせようとするならば、「すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る」だろう(15節)。

エリフの最終決定者に対する信頼と崇敬を垣間見るところである。神は人間ではなく、最終的な権威を持つ正しい支配者であり、権力者である、と確信する。しかも、エリフは神の愛を見ている。神にえこひいきはない(19節)。というのも高貴な者も、貧しい者も皆、神の御手による、神は万人の父であるという。だから、彼らに不正があれば、神がその者を、人手によらず、何もできない夜中の内に取り去るのである(20節)。「神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ている」(21節)。神に隠されるものはない(22節)。

3.神の裁きに間違いはない(34:23-30)

神は、裁判を必要としない(23節)。取り調べの必要もない(24節)。とういのも神は全てを、御存知だからだ。長い審理にかける必要もなく、迅速に判決を下し、悪者どもを夜の夜中に突如滅ぼされるのである(25節)。神は悪者の悪を明らかにし、これを隠されず、ご自身が正義であることを誰の目にも明らかにされる(26節)。弱い者の叫びを聞き洩らさず、苦しむ者を見過ごされることはない(28節)。だからこう心得るべきである。もし、神が黙っておられ、何かが不当に行われているように思われるならば、その時は、神が成り行きを見守っておられるのだ、と考えるべきなのだろう。神はご自分の時を心得ている。神のなさることは人間の理解を超えている。神が沈黙される時は、その沈黙に漂い、神がなさろうとされることを最後まで見守ることだ。神を信頼し、神を咎めるようなことがあってはならない。エステル記のハマンの例がそうであるように、ハマンの悪に苦しめられる人々が、その希望を失いかけても、ハマンの罠は決して完成することはなかった。神を敬わないハマンが、支配者になることも、ユダヤ人やモルデカイを罠にかけてこれを滅ぼしつくすこともできなかったように(30節)。神は一つの国民としてだけではなく、また一人の人を見ておられる。神は一人一人の魂に責任のある創造者であり、父なのであって、神の善意は、決して狂うことはないと心得るべきである(29節)。

4.下手なことを言わないように(34:31-37)

神は、私たちにはわからない理由で物事を遅らせることがある。死に瀕し、緊急を要するラザロの下への訪問が四日後であったように。私たちにはわからない理由がある。そしてたとえば、ある悪人が、懲らしめを受けた、自分はなんという人生を歩んできたのか。もう悪いことはしないし、神の再教育によって新しい道を歩みたい、と願ったのなら(32節)、それでもあなたは、そんなのはダメだ。黒は黒、白は白、きっちりと裁くべきだと主張し、神もそうだ、あなたを苦しめたのだからそうしよう、と言うだろうか(33節)。神は罪の告白と悔い改めを喜ぶのに、あなたは、白黒をはっきりさせて報復することを求めるのか。それがあなたの考えかもしれないが、私は違う。あなたの考えを言ってみてはどうか(33節)とエリフは言う。良識のある人たちは、私のことばに賛同するだろう(34節)。というのも、これまで、三人の友は、あなたが何か罪を犯したと言うことを前提にあなたに悔い改めを求めてきたが、私は違う。私は、それが確かであるかどうかはわからない。しかしあなたの弁明に正しさがない、と言おう。あなたの言うことは、結果神を不当呼ばわりする者たちと同じものである。神に対して実に不適切なことを言っていること、この罪は明らかだろう。だから「ヨブが最後まで試されるように」(36節)その高慢が取り去られて、ヨブが謙るまで、徹底的に神に試みられるように、という。

ヨブには、確かに、不当な人生はなかったかもしれない。しかし、神の前に多くを語りすぎることで、結果神の善である確信を投げ打ち、神に不当な汚名を着せてしまった事実は明らかになったのである。イエスは、十字架上で多くを語らなかった。イエスが黙して語らなかったところに、またご自分の置かれた状況と使命を意識し「完了した」、と語るところに、イエスの人格の完璧さがある。イエスに倣うということは、そのような部分なのであろう。神のしもべとして、いつでも静かに、物事の先行きを見守り、神のなさることを、感謝を持って受け止めていく、これが私たちの進むべき道である。つまり、神を神として認めていく、そのお方は私たちの一人一人の歩みに目をとめ、私たちに責任を取られる最終的な権威者として認めていく、ことが大切なのだ。

 

ヨブ記33章

33章 仲介者による救い

<要約>

おはようございます。エリフの弁論の中に仲介者の思想が出てきます。初めてヨブの、一番言いたかったところに触れる存在が現れた、というべきでしょう。しかし、三人の友の議論があればこそ、このエリフの議論も輝くのです。物事はそんなに単純ではない。複雑さの中に、シンプルな結論が煌めくのであって、単純に言い切らない深さを持って行きたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.私はヨブと対等に語りたい(33:1-7)

エリフの語る内容は、三人の友が語るものとあまり変わらない。しかし、立脚点は明らかに異なる。神は人よりも偉大である。これは同じ。しかし、エリフは言う。ヨブよ、どうかあなたの心を開いて耳を傾けて欲しい(1節)私は言うべきことを率直に語ろう(2,3節)。あなたも言いたいことがあれば遠慮なく言って欲しい(5節)。私たちは神の目に対等なのだから。私もあなたも神に造られた者だ(6節)。だから飾らずに、力むこともなく、自然体で語ろう(7節)。

エリフは明らかに、三人の友と違って、上から目線ではなく、ヨブと同じ目線で、いやヨブの側に立って、神を謙虚に仰ぐ仲間としてヨブに語り掛けている。ヨブの心が捕えられていくのは、まさにエリフのそのような謙虚さの故であったのだろう。

2.ヨブよあなたは間違っている(33:8-13)

エリフは言う。確かにあなたが言ったことは、「神に自分が咎められるいわれはない」(8-9節)、「神は重箱の隅をつつくかのように、私の行動に目を光らせ、一つ一つ責任を取らせようとなさる。神は私の敵となった」(10-11節)ということだ。しかし、そんなことを言うあなたは間違っている。今のあなたには、偉大な神を恐れる心が失われているのではないか(12節)。なぜ神と言い争うとするのか。私とあなたは対等であるが、神とあなたは対等ではない。私たちは、土塊であって、神の意思を受け入れるのみだ(13節)。

3.ヨブよ神は確かに語り掛けている(33:14-22)

それにしてもヨブよ、神は様々な方法で語られているが、人はそれに気づかないでいることがあるものではないか(14節)。神は、夜の夢と幻の中で語る(15節)。ベテルでヤコブが経験したことは、まさにそういうことではないか(創世記28:10-15)。神はそれによって、人の歩みを正し(17節)、且つ、前途に希望を失った者に光を与えるではないか(18節)。

また神は、病気と痛みの中で語ることもあるだろう(19節)。神の御手によって、食欲が衰え、以前は美味しく食べていたものも喉を通らなくなり(20節)、すっかり肉が削げ落ちて痩せこけ、骨と皮だけになり(21節)、もう棺桶の中に横たわっているも同じ、ような状況に置かれて語られることもあるだろう(22節)。

4.神は仲介者によりあなたを回復される(33:23-28)

ただ、そのような試練において必要なのは、あなたが言う通り、仲介者だろう(23節)。あなたを懲らしめる神にとりなす仲介者が必要なのだ。そうすれば、神は「もうそこまで、もうよい。あなたの償いは、既に十分なされたのだ」と言ってくださるだろう。あなたは、解放された、もう自由だ、と。そして、神はあなたを回復させてくださるのだ(25節)。彼の祈りは、再び確信をもって祈られ、打てば響くように、神が自分に応えてくださることを感じるだろう(26節)。そして、彼は素直に告白するのだ。「私は本当に罪人そのもので、神ではない自分を正しいとしたにもかかわらず、その当然の報いとしての神の怒りを受けず、(27節)むしろ、神のあわれみにより、命を守られたのだ」(28節)、と。彼は心から感謝するのである。

ヨブの語った言葉を注意深くフォローしながら、ヨブの側に立って語り続けるエリフの姿がある。そしてエリフの言葉の中にメシヤ思想の進展がある。ヨブ記は、意味不明に思える災いや苦難について、神のみこころがあることを教えてくれている様に思うが、それは表面的な筋書きのことに過ぎない。それ以上の内容を持っている。それは、メシヤの存在をはっきりと語り、メシヤの苦しみを語り、メシヤを神と人の仲介者として、またそのつながりの確かさを保証するものとして語ることにある。ヨブの口を通して、仲介者、証人、という言い方でそれは語られてきたのであるが、エリフも、「一人の仲介者」(23節)と語っている。「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た」(24節)。これはまさに、イエスが十字架上でしてくださることを物語っている。既に、ヨブは、14:14において、「人は死ぬと、また生きるでしょうか。私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで」と語っている。ヨブの願う通りに、ヨブの代わりがやってきたのである。身代金は、人質が死を免れるために支払われる代金であり(22節)、神の怒りに対するなだめである。大切なのは、神が罪に責められる罪人のために身代金の支払いを認められたことであり、救い出されたことである。苦難は確かに、人を懲らしめ、訓練の時を与え、人に高ぶりを捨てさせ、知恵と悟りを与える。しかし、真に人を救い、回復に向かわせるのは、神が恵みによって備えてくださる身代金による。いな、十字架の犠牲を厭わなかった仲介者イエスが私たちの永遠の友となってくださることにある。

4.ヨブよ言いたいことがあれば遠慮なく言え(29-33節)

ともあれ、こんなことが、神のみこころのままに、人の生涯には起こりうるのだ。しかも、二度も、三度も(29節)、耐え難いことかもしれないが、神は、必ず、その魂を滅びの淵から連れ戻して、その命を回復される(30節)。ヨブよ、あなたもそういうことはわかっているのではないか。いな、まず私に語らせてくれ、もちろん、あなたに言いたいことがあればいくらでも聞こう。私は言葉の争いなどしようとは思っていない。あなたの言うことが筋の通ったことであれば、私はそれを受け入れよう(32節)。しかし、私の言うことに、頷くことがあるのなら、さらに語らせてくれ。あなたには学ぶ時、教えを受ける時ではないか(33節)。

翻訳上の訳語の是非はあるとしても、エリフの語り口は、実に、さわやかに私には聞こえてくる。彼は徹底して、ヨブのことばをフォローしながら、自分の論を進めている。ヨブが一番求めたとりなし手、仲介者に触れたのも、エリフのみである。

確かに、神が私たちに敵対したように思われる時に、その神の権威のもとにある、私たちにとっては、仲介者不在の状況は酷であろう。キリストがおられることの恵みが、いよいよ明らかになるところだろう。今日も主キリストの恵みに感謝しつつ、キリストにあって、喜びの人生を歩ませていただくこととしよう。

ヨブ記32章

32章 知恵を与える神

<要約>

おはようございます。エリフが登場します。それまで一体どこにいたのか、と思う存在ですが、彼は若輩で、年配の人達に遠慮して語らなかったと言います。彼の言い方は直截ですが、それだけに、響くものがあります。カギとなることばは、「全能者の息が人に悟りを与える」でしょう。全ての解決は上から与えられるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.説得できなかった友人たちに代わって語ろう(1-17節)

エリフが登場する。いったいこの人物は何物なのだろうか?ラム族のブズ人、バラクエルの子という。「ブズ」は,アブラハムの兄弟ナホルの子の名に見られ(創22:21)、その兄弟の名がウツ、つまりヨブの出身地名であるから、エリフはヨブと同郷の人という説がある。ともあれ、何の説明もなく突如現れる。彼はこれまで三回繰り返されたヨブと三人の友人との議論には少しも口をはさまなかった。それは、自分が若輩だからだ、という理由で、今はここに至り、友人たちの言葉に説得力がなく、押さえきれなくなって口を開いた、と言う(6節)。エリフは、遠慮して、とは言うが、実際には直截である。年齢が高いからといって、必ずしも知恵があるわけでもない、と(9節)。実際あなたがたは、ヨブがこれほど、潔白を朗々と述べていても、誰一人、それに対してきちんと反論できていない。ただ自分の言い分を聞こうとしないことに怒りを燃やしているだけだ(12節)。その上、隠された大きな罪があるのだろう、だから最高裁判官である神が彼の訴えを退け、彼を法廷から追い出し、彼にこんな運命を背負わせた、と匂わせるが、あなたがたは、それを証明できないでいるのだ(13節)。

エリフは、「ヨブが神よりもむしろ自分自身を義とした」こと、また、三人の友が「ヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかった」ことを指摘する。そして、年長者に必ずしも知恵があるのではなく、知恵は神の霊とともにあることを指摘する。

ヨブが神よりもむしろ自分自身を義とした、ということその主張自体は、ビルダデと何ら変わらない。しかしヨブの誤った神への非難を正していくところに、エリフ登場の意義がある。実際エリフは、先の年長者たちのように因果応報の論理で、ヨブの苦境を説明するわけではない。むしろ、神の訓練としての目的があること、その神の目的の前にヨブが霊的な高慢の罪を犯している事実を指摘し、ヨブが神に出会うことを助けていくのである。

大切なことは、エリフが、物事を解決する力が人間の知恵ではなく、神の知恵にあること、「全能者の息」つまり上から与えられるものであることを指摘していることだろう。真に物事を解決する知恵は、私たちの思考の結果ではなく、祈りの結果である。無理難題に直面して、議論を繰り返すことよりも、額をつき合わせて祈る方が、優れている。ヤコブが勧めているように(ヤコブ1:5)、神が物事を見通す光を与えてくださるように、祈り願うことが、あらゆる難題の解決の近道であることを私たちは心得なくてはならない。

エリフは、三人の友を責めている。12節、ヨブに言い負かされたというよりも、ヨブの高慢の罪をヨブ自身に認めさせられなかったことを問題にしている。三人の友は、もはやヨブの問題は、神の裁きに任せるほかはないと突き放してしまった。しかし、それは知恵ある解決ではない、という(13節)。ここに、あくまでも天来の知恵に拘る、エリフの真の信仰と、ヨブに対する人間的な愛情の深さがあると見てもよい。彼は言う。これまで、ヨブは私に何も語っていないのだから、私はもっと違った観点から語ってみることにしよう。彼らはもう、呆れて何も言おうとしないが、私は、これ以上ここで黙っておらず、自分の言い分を述べることとしよう、と。

2.私の心は言いたくて沸き立っている

エリフの心は、沸き立っていた。彼は、話すべきことがある。彼はだれにもえいこひいきもせず、へつらいもせず、直截に、神から授かった言葉を語ろうとする。

頑なな心の前に、物事を断念してしまいやすい私たちがいる。しかし、それは、自分を罪無しとする、ヨブ以上に、私たちの側に神の解決に対する不信仰さがあることを明らかにしている。神がおられると信じているならば、そんなに簡単に物事を諦めてはいけない。真に神の業を期待するなら、神が知恵と言葉を与えてくださり、私たちの口も歩みも導いてくださる、ことをどこまでも信じなくてはいけない。私たちの知恵には限界がある。しかし、神がその時々に与えてくださる上からの新しい知恵には、無限の可能性がある。神はその知恵を惜しみなく与えてくださると謙虚になり、信頼して、いつでも難題に立ち向かう心が必要である。今日も主に知恵を願い求めよう。

ヨブ記31章

31章 神ありて今の自分

<要約>

おはようございます。ヨブの最後のことばになります。ヨブは、古代の慣習に従ったのでしょう。自らの潔白を、「もし~」と言う、自己呪詛的なことばで主張します。しかしそれが、大事なことでもありました。というのも、ヨブの苦難は、ヨブのいかなる行為とも関係はなかった、というのは確かだからです。正しき者が苦難を受ける、それはまさにキリストの型というべきでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神は私の歩みの全てをカウントされておられる(1-4節)

ヨブの弁論がこの章で終わる。過去を懐かしみ、今の不幸を嘆いてきたヨブであるが、気を取り直したようにヨブは頑固に自分の身の潔白を主張している。しかも、1節、「私は自分の目と契約を結んだ。どうしておとめに目を留められるだろうか」とあるように、ヨブは、外面的な行為のみならず、心の動機にまでさかのぼって身の潔白を主張し始めているのである。そして神は、悪しき者の行いに報いられるが、私の場合は、神は、私の歩みをことごとく見定め、数えておられて、それでも、そのまなざしに耐えられる歩みであった、と言わんばかりである(4節)。

2.私は潔白だ(7-40節)

5節からは、「もし」を冒頭にする十種類の罪を問題とし、それぞれについて潔白が主張される。それは、古代イスラエルの一つの慣習に倣ったものなのかもしれない。というのも、サムエルも、王が立てられて、自らの引退に際して、潔白の誓いをしている。ヨブは自分の言葉をまとめるにあたり、友人たちが推測した不正な行為の告発に対して、自らの潔白を、イスラエルの完全数である10の誓いをもって、打ち消しているのである。ヨブは言う。私は偽らなかった(5-6節)、不正を働かなかった(7-8節)、心に情欲を抱いて女性を見たり、他人の妻を誘惑したことはなかった(9-12節)、奴隷たちの権利を踏みにじったことはなかった(13-14節)、弱者に対しては正しく親切であった(16-23節)、金も、天体も偶像として拝むことはなかった(24-28節)、人の不幸を喜んだことはない(29-31)、旅人に配慮を欠いたことはなかった(32節)、罪を告白せず、覆い隠すことなどなかった(33-34節)、小作人は正当に扱い、搾取したことはなかった(38-40節)と。自分の人生にそんなことがあったら、しかるべき罰を受けてもよいのだ、私は潔白だ、というわけである。彼は、実に全き義しさの中に生きたのである。それが彼の誇りでもあったし、彼のより所でもあった。

メシヤ預言的な観点から、これを読んでいくならば、ここでは、罪を犯したことのない完全ないけにである神の小羊イエスが、いかに聖い生涯を歩んだのかを考えさせられるところではないだろうか。その生涯の聖さがあればこそ、神の業も現され、十字架の贖いも完成しえたのである。

神の業をもたらすものは、やはりその生涯の聖さ以外の何物でもない。神の業が現されることを願うのならば、また十字架の業が成し遂げられることを願うのならば、まさに、「私のあゆみをことごとく数えられる」(4節)神の前に歩む一日一日が必要なのである。

だが、全き完全さを目指しながらも、完全にはなりえない私たちの現実がある。私たちの完全さは、神の赦しと支えがあればこそであって、ヨブが語るように、誰一人自らが完全でありうることはない。ニコデモが、新しく生まれなければ、とイエスに教えられたように、私たちの完全さは、自分の不完全さを理解することが初めであって、そこにキリストの十字架の救いを抱いてこそ、ありうることなのである。神の助けとあわれみに感謝し、神の与えられる義をこそよしとして生きていくところに人間の正しさがある。自分の業にふんぞり返ることなく、神の業に期待し、信頼して生きていく。人間はどうしても自分を肥大化させてしまうものだ。神の前に小さなものである自分自身を正しく見つめ、神あっての自分であることを意識した歩みを心がけたいところである。