1歴代誌23章

23章 礼拝の再興

<要約>

おはようございます。礼拝の再興、これは、モーセの時代、ダビデの時代、そして捕囚帰還後の時代においても重要なテーマとなりました。おそらく今日の日本においても同じでしょう。礼拝が神に向かい、神の栄光を現す場となるように、そのために一切の奉仕や活動が秩序づけられていくことを願うところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.第二のモーセダビデ

21章からは、ダビデによる神殿建設がテーマとなっていた。21章のダビデの罪と神のあわれみをとおして、神殿がどういう場であるか、を教えられる。それはソロモンの神殿奉献の祈りによって(2歴代誌6章)さらに明快に語られることになる。また、昨日22章で教えられたように神殿は、主の栄光の満ちる場であるが、主が建てあげてくださるものであり、私たちはこの主の誠実さに対して一致と協力によって応えなくてはならない。

続く23章から27章までの5つの章は、どのように応えるか、神殿に仕える者たちと支える者たちを数え上げ、彼らの役割を説明することで例示していくのである。だから捕囚帰還後の民は、これらの箇所を読みながら、互いの役割をよく理解し合って、神殿建築および礼拝の創設に向かって整えられたと言える。

そこで23章は、神殿に仕える者たちとして特にレビ族に注目している。それは、一つにはダビデを第二のモーセと見なしているためである。モーセは、イスラエルの民をエジプトから導き、荒野にて最初の礼拝を組織した。ダビデも、カナンの地を平定した後、そこに恒久的な礼拝を確立しようとした。ある意味で、荒野の時代は、ダビデによって本当の意味で終わりを遂げたのである。実際ダビデは、レビ人に祭司を助け、神殿の活動に関連する任務を与えてこう語っている。「イスラエルの神、主は、御民に安息を与え、とこしえまでもエルサレムに住まわれる。レビ人も、幕屋を運んだり、奉仕に用いるすべての器具を運んだりする必要はない」(26節)と、幕屋時代から脱したレビ人に、ダビデは、これまでの神の宮での奉仕のわざに加えて、賛美の任務、門衛、つかさとさばきつかさ、と新しい役割を与えている。こうして著者はダビデの言葉を引用しながら、捕囚帰還後の民に、新しい神殿建設とそこでの礼拝のビジョンを与えようとしたのだ。

だからこのレビ人のリストも、どうやら複数のリストを再構成した意図的な編集となっている。実際、ここでは詳しくは述べるつもりはないが、出エジプト6:17-25、民数3:17-37、1歴代6:16-30の同じようなリストと比べてみると、レビの三人の息子から始まり、その後に孫の名があげられるが、三代目になると、内容は幾分違っている。またその名前はどうやら、時代が違うものも混じっているのではないか、とも言われている。つまりそれは、必ずしもイスラエルの歴史を正確に記録したものではなく、むしろ、過去のレビ人の在り方を現在の神殿礼拝再生のために取り上げ、神殿礼拝に仕える者の参考とするためであった、というわけである。ダビデは、神殿の働き人を組織し、秩序化しようとしているが、それは、パウロが混乱していたコリントの教会に「すべてのことを適切に、秩序をもって行う」(1コリント14:40)ことを教えたのと同じことなのである。

2.神殿礼拝のリーダーシップ、レビ人

また、著者が、そのような秩序だった礼拝を実現するためにレビ人に注目させるのは、この歴代誌が書かれた時代、レビ人がある意味で軽んじられ、無視される状況にあったからだ。それは、ネヘミヤ記13章に詳しい(10-11節)。神殿を牛耳っていたのは、その土地に古くからいたトビヤという有力者であり、彼は神殿建設を妨害し、リーダーのネヘミヤを悩ませただけではなく、彼と個人的に親しい祭司たちが、彼を優遇することで、本来神殿の主役であるべきレビ人がないがしろにされていたのである。レビ人は、支給を受けられず、その働きに専心することができない状態にあった。

教会にも教会が守るべき秩序がある。新しい組織が再編されても、教会の古くからの秩序がそれを邪魔することがある。しかし教会は誰のものでもない。主のものであり、主が立ててくださった新しい秩序のもと、次のステップに進む、皆の信仰と従順がなければ、教会の発展はない。また組織的な秩序を語ると、しばしば、権威体制を強めるとか、管理的支配的になると敬遠されたり批判されたりすることがある。しかし、私たちの主は、礼拝のために、祭司とレビ人という秩序を定めてくださったのである。それは彼らが崇められるためではなく、彼らを通して神の栄光が一層世に深く、広く証されるためである。礼拝においては、礼拝のために神が定めてくださった秩序があり、その秩序に沿って礼拝がささげられる必要がある。

著者は、こうしたレビ人が見直され、礼拝再建において主要な役割を演じる期待を寄せていた。著者は記録する。その数、レビ族38,000人の内、主の宮の仕事を指揮する者が24,000人、つかさとさばきつかさは6,000、門衛が4,000、賛美する者が4,000と大変な数である。しかし数的なバランスも悪い。指揮者、監督が奉仕者以上に多いことは考えられないことで、この動詞の普通の意味は、監督であっても、「管理」と言う程度の意味にとった方がよいのだろう。つまり、指揮する者の中に、実働する者たちの数も加えられていたということである。

3.レビ人の任務

6節以降のレビ人は、三つの伝統的な氏族、ゲルション(7-11節)、ケハテ(12-20節)、メラリ(21-23節)に分けられている。13節、アロンの子孫については、別枠になっている。それは、祭司とレビ人を区別するモーセの見方に沿ったものなのだろう(民数4:15)。彼らの責任は「聖別する」「香をたく(犠牲をささげる)」「主に仕える」「祝福する」の四つであり、レビ人はその働きを助ける補佐としての責任を持った(28節)。

教会は、現代社会において世の光地の塩としてどのような役割をはたすべきであろうか。今日の教会は、宣教の活路を見出すために、より多くの興行的なアイディアを求めている。しかし、多くの教会が、流れていく方向が正しいとは限らない。礼拝の後に、個人のやりたいことが、無秩序に多々詰め込まれ、奉仕だと称して教会に居残りをさせられる。そして実りは少ない。日本の伝道は難しいのだから、しょうがない、という理屈付けも、どんなものかと思う。

ダビデや捕囚帰還後のイスラエルの民が、目指すように促された礼拝の再建は、どのようなものであったのか、をもう一度考えてみたい。そこは、犠牲がささげられ、罪の赦しが宣言され、主の祝福が祈られる場であった。皆その恵みをもって自分の家に帰り、主の安息を楽しんだ。この基本がまず日曜日に体験されなければならないだろう。もし、主の安息を、真に感じ、人が喜びに満たされるなら、その日は、最高の日であることに間違いはなく、また、帰宅後も主の平安の中に、過ごすことができるだろう。その神殿の機能をより効果的に、合理的に、また妥当的に行うために祭司のみならず、神殿の細かな用と祭司を補佐するレビ人の働きがあったのである。だから教会の奉仕も、この神殿が建て上げられた目的にかなうように進められなくてはならないだろう。それは、ちょうど、使徒たちの時代に、教会が霊的なことを教会において大事にできるように、執事が補助的なリーダーシップとして立てられたのと同じである(使徒6:1-7)。教会が、神の聖別と、神にある罪の赦しと恵みを、教会に来る人々に、提供しうるために、全ての奉仕が秩序づけられていかなくてはならない。そこをしっかり整えることが、礼拝の祝福、教会の祝福につながるのである。私たちの教会の働きがどこに向かっているのか、神に向かっているのか、人に向かっているのか、改めて考えたいところではないだろうか。

1歴代誌22章

22章 神の宮を建てるため

<要約>

おはようございます。ダビデの神殿建設の志とその準備が描かれています。神殿が主の栄光を現すものとして建てあげられるその精神は、教会についても言えることです。そして、そうであれば、やはりそれなりの神の業としてそれは実現されなくてはならないことでしょう。信仰と主にある兄弟姉妹の一致と協力が必要とされることは言うまでもありません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.主の宮の性質

22章のキーワードは、「神の宮を建てるため」であり、全部で9回そのような表現が出て来る(2、5、6、7、8、10、11、19節)。また、ダビデに加えてソロモンが登場する。神殿建設は、ダビデとソロモンの共同事業として完成されていく。既に私たちは、神殿建設のための霊的な備えが必要であることを教えられた(21章)。ここでは、実際に必要な材料と労働力を準備する話となっていく。

まず彼らは働き人と資材を準備した(2-5節)。在留異国人は、カナンに住んでいる外国人のことである。また資材は、一部ダビデの戦利品であり(18:8、11)一部ソロモンによって特別に備えられたものである(4節:1列王5:6、8-10)。さらに、ダビデはソロモンを訓練した。彼は「まだ若く力もな」く、多くの訓練と教育を必要とした。神殿建設は個人的な趣味趣向で行う事業ではない。それは、「壮大なもので、全地で名声と栄誉を高めるものでなければならない」事業である(イザヤ2:1-4、ミカ4:1-3)。教会というのは、そういうものである。教会は、大きくなればよいというわけではないだろうが、それは、誰にも主の栄光を現すものでなければならないのである。

2.主が建てあげてくださる

さて神は、ご自身の約束の成就としてダビデのために王国を確立された(2サムエル7:1-15、1歴代誌17:1-15)。しかし神殿を建設することは、ダビデの使命ではなかった(8-10節)。それは、ダビデが罪を犯した、あるいは戦争により何等かの儀式的な汚れを被ったから、ダビデの使命とはされなかったのだ、と考える者もいるが、そうではない。むしろ神は、ダビデには戦乱の世を平定させ、ソロモンには、安息の世を統治させる、異なる役割を与えられたに過ぎない。約束の地はヨシュアによって占領され、戦士ダビデが敵を征服し尽くし神殿建設のための備えをした。そして、平和と安息に象徴され、神殿を建てるにちょうどよいソロモンの時代がやってきた(申命記12:10-11参照)という積み重ねがある。神殿が約束の地に建てられることは、永年の神の約束が成就したことを確認することである。だから、捕囚後の民は、この章を読みながら、今やようやく平和と安息の時、もう一度神の約束の再興の時が来た、と実感することができた、というわけである。神が永遠の昔から約束されたことが、今や実現するのである。そして、神はさらに助けを保証する。神が責任をもってその計画を最後まで遂行される、というわけだ。だから、ソロモンに期待されたことは、神の律法を守り行うことであり信仰の従順であった(13節)。

大切なのは、教会を建て上げることも神の約束であり、その成就であることだ。ならばそれがどんなに困難を覚えさせようとも、動揺せずに、淡々と神のみことばに従う生活を行っていくならば、建つべきものは建ちあがっていく、神が建ててくださることを信じなくてはならない。

そして14節、人は「困難な中にも」神が与えて用意できるようにしてくださることを、体験しなくてはならない。当時、バビロン捕囚からエルサレムに戻って来て、神殿再建のビジョンを託された人々は、それらの必要をどのように満たすか、大きな悩みであった。また様々な妨害によって建つべきものも建たないと意気消沈する思いであったことだろう。同じように、しばしば人は、神を信じることもせず、神が何もしてくださらない、と神の約束を疑心暗鬼に受け止めているだけである。しかし、神の約束の言葉に立って、信頼し続け、踏み出し、困難を通り抜けた者だけが、神の忠実さを確信できる。

3.一致協力しよう

最後に、ダビデは、ソロモンではなく、イスラエルのすべてのつかさたちに語り掛け、ソロモンを助けるように命じた(17-19節)。大切なのは、主の家のために、互いに協力しあうことである。何か大きな業をしようとしたら、一人でそれを行うことはできない。まして主の壮大な、主を証する宮を建てあげることは、牧師一人でも、志のある力ある信徒一人にも、何もできないことを理解し、互いに協力しあうことだろう。そうすれば多くのことを、成し遂げるだろう。互いに、祈りあい、愛し合い、支えあい、賜物を用いて、主の宮のために力を注ぐことが求められたのである。

1歴代誌21章

21章 神のあわれみの場としての神殿

<要約>

おはようございます。なぜ、歴代誌の著者は、罪の問題を語るにあたり、バテ・シェバの罪ではなく、人口調査の罪を取り上げたのか。そこには歴代誌の著者の意図があると言えるでしょう。罪は倫理的な不道徳以上のものです。その本質を見誤ってはならず、またその罪に対する神の人間への関りの本質も誤解してはならないでしょう。主のあわれみ深さを覚えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.バテ・シェバの罪ではなく人口調査の罪

ダビデが犯したもう一つの罪、人口調査の出来事が描かれている。歴代誌の記事は、サムエル記24章を土台としているが、人口調査が、バテ・シェバの事件よりも重い罪として描かれているのが特徴である。

ただ人口調査それ自体に問題があろうはずがない。それは、軍事力の調査(民数1:3)、神殿税義務者の調査(出エジプト30:11-16)、相続地割り当ての目的(民数26:52-55)といった形で、国家の政策のためには必要不可欠のものとして繰り返されてきたものであった。それなのに、これが、部下のヨアブに異を唱えられたのみならず(6節)、神の意にも反してしまった(7節)とされるのは、どうやら神殿建設を控えながら、まず半シェケルの人頭税を集めるため神殿税義務者の調査をすべきところを、軍事力を誇る頭数の調査として行ったダビデの動機と意識の問題にあったようだ(3節、27:23-24節)。つまり、歴代誌の著者は、罪の性質を明確にするために、バテ・シェバの事件よりも、敢えて人口調査の事件を選び取り上げたのである。実に、罪は、倫理的な不道徳以上のものである。それは、神の主権を認めず、神の御心に従わないことを意味する。そして、この罪は怠惰な日々の中ではなく、大変喜ばしい契約の約束(17章)と戦いの勝利(18-20章)の後に起こっている。罪は、必ずしも怠惰の結果でもない。

2.罪に対する神のお取り扱い

またここで著者は、裁きではなく、神の恵みを強調する。神は赦しとあわれみと忍耐に富んでおられる(15-27節)。そのような神のあわれみのもとで、ダビデは悔い改めをし、神に応答して正しいことを実行するように求められている。

結局ここから教えられることは、ダビデが勇士であるとも、また、礼拝を形作った偉大な霊的な指導者であるとも言われているが、ダビデも、私たち同様に、礼拝の民の行動の原則を、このような失敗を通して一つ一つ学ばせられていることである。先にダビデは、契約の箱を運び出すにあたり、「牛車」ではなくて「レビ人」を用いるべきことを教えられ、それをやり直したように、神殿建設においては、まず人頭税を取るべきこと、皆の責任でこれを再建すべきことを教えられ、悔い改めの中で、やり直しをしている。偉人も一夜にしてはならず、神の懇切丁寧な指導による。教えられることは、人口調査を咎める神がおられることではなく、忘れられた礼拝の民の原則を、一つ一つ丁寧に教えてくださる神がおられることであろう。神は養育的に、建てあげるように関わるお方であり、「もうかばいきれない」と人を見捨てるような方ではないのである。

3.神の本質は赦しにある

次に神殿建設のために土地を購入したエピソード。神がこの地を神殿建設用地として選んだことは、天から火を下して応えられたこと(26節)、み使いが剣を鞘に納めたこと(27節)によって明らかにされている。また、21:28-22:1は、元々のサムエル記の記事にはない、追加された部分であるが、それによって、著者は、ダビデが贖われた場所が新しい神殿の場所エルサレムになったことに注意を向けている。つまり、歴代誌の著者の興味は、アラウナの土地に礼拝の場所が定められたという単なる地理的な変更を記録することではない。むしろダビデの罪によってイスラエルが滅亡にさらされた時に、ダビデが悔い改めとやり直しのために祭壇を築いた場所にこそ、神殿が定められたことの強調である。つまり、神殿が定められた場所は、神のあわれみが示された場所であり、神の赦しがもたらされ、罪と裁きが取り除かれた場所である霊的な意味に注目させている。神殿は罪人が赦しを得、再びささげ物をもって礼拝することができる最高の場所である(マラキ3:10、ネヘミヤ10:32-39、ルカ18:13)。ダビデはもはやギブオンの祭壇に行くことができなかった(30節)。しかし、彼はエルサレムに新しい、祭壇と機会を与えられる。悔い改めのあるところに新しい出発が約束される。教会も人にとって、新しい出発を導くあわれみと恵みに満ちた場所となることが期待される。

1歴代誌20章

20章 イスラエルの勝利

<要約>

おはようございます。東京は今日も良い天気です。新しい朝、新しい思いで、神の新しい使命にあることを覚えて、歩ませていただきたいものです。また、物事が建てあがっていくのは、決して一人の名誉ある働きによるものではなく、努力の総和です。共に労する仲間を愛し、信頼し、大事にしたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ダビデの戴冠式

著者は、2サムエル記11-12章を要約するが、バテシェバとの罪についてはこれを割愛している。それはダビデの汚点を隠そうとしたわけではない。というのも、次章においてダビデが犯したもう一つの罪、人口調査については取り上げているからである。ではなぜ、このような意図的な記事の選択をしたのか。それは、契約に基づいて神の祝福の計画が進んでいることを示すためであり、人が見捨てるような罪を犯したとしても、神の愛と恵みは変わらないことを明らかにするためなのだろう。

というのも捕囚より帰国を許された民は、礼拝の民として再建されるにあたり、まず自分たちが罪赦された民であり、悔い改めを受け入れられ、回復の途上にあることを教えられる必要があった。罪を犯した者として、いつまでもその過去の記憶に生きることは許されなかった。彼らは自分たちの記憶を、罪を犯した民ではなく、罪赦された民であり、新しい使命を持った民と、整理しなくてはならなかったのである。復活のイエスも、ペテロに、「あなたは反省しているのか?」とは問われなかった。むしろ、「あなたは私の羊を飼いなさい」と語られた。

18-20章の区切りの意図は、励ましにあり、神にあって一致団結し、前進しよう、ということに他ならない。神は、忌まわしいダビデの罪を、見過ごしていたわけではない。しかし、積極的に愛をもってダビデを取り扱われたのである。金一タラントの重さは、約30キロとされる。それはあまりにも重く、頭にずっと載せ続けられるようなものではない。しかし、そもそも名誉は重たいものである。神の赦しと恵みは、それほど豊かであり大きなものであることを象徴している。神は私たちに悔い改めを求められるが、だからといっていつまでも、私たちの罪を覚えて、穿り返し、争われるようなお方ではない。神は神であって人間ではないからである。

その事実を覚えて、いたずらに、自分の過ちや失敗を嘆き、自分の人生に諦めをつけたりせず、神の祝福をもはや期待できない思いに陥らないようにしたいものである。神の前に真に悔い改めたのであるならば、礼拝の民とされている者への主の祝福を信頼しよう。そして神の恵みに応えて歩む思いをしっかり持ちたいものだ。

2.小さなエピソードの意味

さて、この短い章には、2サムエル記11-12章にはないものがある。ヤイルの子エルハナンがガテ人ゴリヤテの兄弟ラフミ、また、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが24本指の背の高い男を打ち倒したエピソードが取り上げられる。エルハナンにしても、ヨナタンにしても、あまりよく知られていない戦士である。なぜこんなエピソードが?大切なことは、この戦争の時に、ウリヤが、殺められたことだろう。歴代誌の著者は、神の歴史を正しく再解釈しようとしている。ダビデの戴冠式という名誉ある記事は、ダビデのリーダーシップに注目させる。だが、ダビデのリーダーシップは、混乱していた。むしろ、ダビデのリーダーシップを何事もなく、有能であるかのように成り立たせたのは、無名の、ダビデに黙々と従った忠実な部下たちによる。本来名誉を受けるべき存在は、ダビデではなく、軍隊を出動させた将軍ヨアブや無名の戦士エルハナンやヨナタン等である、と、ダビデと共に、リーダーシップを取った人々の貢献を強調し、神の王国が、「彼(ダビデ)」ではなく、「彼らダビデとその家来たち」の手で築き上げられたことに注意を促している(8節)。

物事が立ち上がっていくのは、全て有能なリーダーに帰せられることではない。むしろ平凡なリーダーと平凡な信徒であれ、彼らが一致して労すれば、それなりの神の祝福を得られるであろう、と理解すべきである。だから、教会が建てあがることの名誉も、すべて牧師に帰されるものではない。神がその教会の群れを牧する責任を与えられた牧師と共にリーダーシップを取った一人ひとりの活躍に帰される。私たちが互いに賜物を補いあい、複数の者たちの一致団結、協力によってこそ、神の御国は大きく前進し、完成に向けて動かされていく。小さなあなたの働きも神に覚えられ、命の書に記されるのである。

 

1歴代誌19章

19章 全力を尽くそう

<要約>

おはようございます。アジサイが綺麗な季節になりました。アジサイの花も色々、色だけではなく、花弁も様々であることに、神の創造の御業の素晴らしさを覚え、感心いたすところです。主が備えてくださった世界にある私たちに、主の助けがある、これは、確信してよいことでしょう。昨日の聖書通読道場(ブログオフ会)も楽しいひと時でした。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.アンモン人の侮辱

アンモン人の王ナハシュが死に、その子が代わって王となった。ダビデは、ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう、と悔やみの使者を送った。しかしながら、その子ハヌンはダビデの真意を疑い、ダビデに侮辱を加え、ダビデに敵対する者となってしまった。

なぜ、このような展開になってしまったのか。理由がなかったわけではない。つまり、アンモン人は戦争のためにメデバの北に陣を敷いたが、それはダビデが、ヨルダン川東側の南方、つまりエドムとモアブを制圧していたことを意味する。イスラエルは勢いづいていたのだ。また、2サムエル記の平行記事を読むと、歴代誌では省略されている記事のあることがわかる。つまり、ダビデはアンモン人の宿敵サウル家(1サムエル11章)に親切を施している(2サムエル9章)。そうした諸々のことが、ダビデの真意を疑わせたのだろう。

ナハシュの子ハヌンは、銀一千タラントで、兵を雇い、さらに32,000台の戦車を用意し、戦いに備えた。これは大変な数を揃えたものである。思わぬ侮辱を受けたばかりか、これまた思わぬ脅威にさらされている。ヨアブは敵に挟まれたことに気づいて、軍隊を二分し、アラムに立ち向かう陣備えをしている。

2.アンモンとアラム

なお、面倒なことであるが、聖書通読が面白くなるためには、ある程度の知識量が必要であって、整理しておかなければならない部分がある。アンモンとアラム、よくわからない関係について簡単に整理しておこう。アラムはシリヤと訳される場合もあるように、地理的には、ユーフラテス東部、アンモンの北側に住む民族を指している。アラム人はまとまった国家をつくらず、小都市の連合国家であった。だから本章でも、アラムは、アラム・ナハライム、アラム・マアカ、ツォバと小都市の連合体として扱われている。またエドム人、モアブ人、アモン人等は、ヨルダン東側に定着した後、母国のアラム語を捨てカナン語および先住民の言語を受け継いだが、シリヤ系の人々はアラム語を保持したので、その人々が狭い意味でアラム人と呼ばれている。ヨアブが12節で、アラム人とアンモン人と二つの民族を並べているのは、そのような違いを意識してである。

そして、この時の布陣は、7-9節に描かれているのだが、この戦争は約1年に及び、ダビデの将軍ヨアブはアンモンの首都ラバを包囲している。この包囲戦の最中にウリヤが戦死する事件が起きている(2サムエル11章)。ヨアブは、最終的にはダビデの出陣を要請し、ラバを攻略するのであるが(2サムエル12:26-31)、その最初の布陣は、ラバに向かうものだったのだろう。しかし、アンモンは、アラムに援軍を要請、アラムは先回りをして、ラバの南側メデバの野に布陣し、既にイスラエルに従属していたエドムとモアブを押さえ、前方の首都ラバと後方のメデバの野から、イスラエルを挟み撃ちする形になったと考えられる。それでヨアブは軍隊を二手に分けて対処したというわけである。

2.互いに協力して

さて、これまでの礼拝の民の再建の流れで読んでいくならば、この記録はどういう意味を持つものなのか。振り返ってみると、9章までの系図、いわゆる礼拝の民の広がりを見た後に、私たちは礼拝の在り方を教えられてきた(10-16章)、17章から新しい区切りになり、契約に基づいて「勝利を与えられる」主に注目させられている(18:6,13)。19 章のキーワードは、13節、「強くあれ。全力を尽くそう」だ。著者は、イスラエルの歴史を振り返り、2サムエル記の資料を取捨選択しながら、礼拝を再興する民に、励ましを送っていると読むことができる。

第二のキーワードは、「もし、アラムが私より強ければ、おまえが私を救ってくれ。もし、アンモン人がおまえより強かったら、私がおまえを救おう」(12節)にある。互いに協力し合い、支え合うことで勝利しようというのだ。確かに捕囚帰還後の、礼拝を再興しようとする民に向けてこの歴代誌が書かれたとするならば、この歴史物語は実に効果的に組み込まれたことになる。指導者のもとに、互いに全力を尽くし、互いに協力してお互いの力を補いつつ、この難事業を完成させようというわけだ。実際、捕囚から帰って来た読者たちにとって、神殿の再建も町の再建も、さらには彼らのアイデンティティである礼拝の再建も、実に困難なことであった。世の流れに逆行するような日常性を回復するには、大いなる励ましと、ビジョンと一致を必要としたのである。

パウロも、コリントの人々に語ったように、「からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合う」(12:25)ことを教え、互いに協力してキリストのからだを建てあげるべき事を教えている(エペソ4:12)。また、教会の完成のために、「主の大能の力によって強められる」べきことを勧めている(エペソ6:10)。

この箇所は、ヨアブの軍事的勝利の記録としてさらっと読み過ごしてしまいそうな部分であるが、礼拝の民を再建しようとする者たちにとっては、重要な励ましがある。