創世記47章

 ヤコブがパロと会見した。ヤコブは、パロの質問に答えて自分の人生を「いろいろなわざわいがあり」とまとめている。確かに、ヤコブの人生を振り返ってみれば、兄エサウを騙して、家を追い出されるところから始まり(27章)、ラバンに騙されて20年黙々と不正な報酬のもとで、労働を強いられ(29-31章)、自分が望みもしない4人の妻の争いに巻き込まれ(30章)、息子、娘たちの愚かな行動のために、自分が住み着こうと買い取ったシェケムの地を追われ(34章)、最愛の妻ラケルを失い(35章)、その妻の息子で溺愛したヨセフを兄弟たちに売り飛ばされ(37章)、終いには、ラケルの妻の最後の息子ベニヤミンさえ奪われそうになった(42章)。確かにいろいろなわざわいの記憶に圧倒されそうな人生であったのだろう。しかし、ヤコブは、そのような人生を神とともに生き延びて来た。
 家を追い出されたヤコブは、それを機に、ともにおられる神を知り、べテルに祭壇を築いている(28章)。ラバンに散々利用された20年間では、ヤコブは、「神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです」(31:42)と神がその苦難から解放されたことを認めている。またシェケムの殺戮でカナン人とペリジ人の憎まれ者になり、存在が危くされた時には、神が、恐怖を町々に下して守ってくださったことを認めている。ヤコブは様々な苦難の中で、神の助けと守りを認めている。だから、最愛の妻ラケルが死に臨んで、ラケルが生まれてくるわが子を「ベン・オニ(悲しみの子)」と呼んだ際に、ヤコブは、その名を「ベニヤミン(我が右手の子)」と積極的に読み替えて、乗り越えることもできたのだろう。そして、ベニヤミンのエジプト行きについても「全能の神」(43:14節)にすべてをゆだねて乗り越えている。
自らの人生を振り返って、いろいろなわざわいに満ちている、と思えることはあるだろう。神を知る人生がいつも幸せであるとは限らない。キリスト者の人生は綺麗ごとではないのだ。しかし、神とともにその苦難を乗り越えることができることもまた真実である。ヤコブの生涯はそのことを明確に語っている。様々な破れや痛みがある現実の中で生き抜いていかなければならぬ人間に、最期まで、望みを手にするようにと励まし、支えて、寄り添ってくださる神を覚えることが大切なのだ。それは、まさに、イザヤが「ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(43:1-2)と語るようなものであった。こうして読んでみると、創世記は、実に神の信仰に生きることがなんであるか、その本質を語る、感動的な書であると改めて思わされるところである。
ヨセフが飢饉に際して、どのように対処したのかは興味深い。というのも、彼の経済政策は、単に飢饉から人々を救うという対処療法的な政策を越えている。彼は、食糧と引き換えに土地を買い取り、税制を確立し、エジプトの将来を築く国の構造改革を成し遂げている。確かにヒクソス王朝以降、エジプトでは土地その他の財産の集中的な国有化が進んだ。
 こうしてヨセフは、17節、人々を難局から切り抜けさせた。そしてヨセフは、土地と交換に食料を与え、五分の一の税制を貸した。土地はファラオの所有となり、その住民はファラオの借地人となった。20%という税率は、40~60%にさえ達し得る古代社会の税率に比較すると、十分民衆に配慮したものである、という。
ヨセフが、大所高所で物事を見、将来につながる政策を成し遂げられたのも、天地万物を支配し、保持する神を知ればこそである。物事を行き詰まりではなく、プロセス、移り変わりとしてとらえて行く。変革の機会であるとみなして、新しい転換を求めて行く。神を信じているのであるならば、そのようなしたたかさを持って生きたいものだろう。確かに切り抜けさせてくださる神を覚えて、ただその時々を生きる以上の歩みをさせていただこう。

創世記46章

ヤコブはエジプトに向けて出発した。総勢70名の大移動であった。ベエル・シェバに来たときに、彼はそこで神にいけにえをささげた。ベエル・シェバは、ヘブロンからエジプトに通じる南方面への道路と、アラバから地中海に至る北西方面への道路との合流点にある。かつてアブラハムが居を構え、イサクが自分の根拠地としたところである。ヤコブは、そこで、「父イサクの神にいけにえを献げた」とある。つまり彼は、先祖からの地境を動かすことになるかもしれないこの度について神の許可を求めようとしたのである。神は、ヤコブに夜の幻の中で答えられた。神は、「わたしは神、あなたの父の神である。恐れるな」という。エジプトに下ろうとするヤコブに、神は保証をお与えになった。いつしか神のみこころを中心とする生き方がヤコブの基本になっていた。かつて、同じ飢饉に際して、エジプトへ神の御心も聞かずに出ていったアブラハムとは異なる姿である(12:10)。
こうして神に従おうとするヨセフとヤコブが再会する。ヨセフは父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けたとある。実に、長い間隙を埋める涙であったことだろう。他方父のヤコブは、ヨセフを抱きながら、神がヨセフに何をし、また自分に何をしてくれたのかを深く思わされていたことであろう。かつてヤコブは、最愛のヨセフに長子の特権を象徴する長服を着せていた。11人の兄弟の誰よりもヨセフに愛情を注ぎ、自分がしてやれる最善を与えていた。しかし、人間ができる最善は、神の最善にはとうてい及ばない。ヤコブがヨセフに着せてあげたものは「長子の長服」であったが、神がヨセフに着せてくださったのは、「エジプトの大臣」の装束であった。パロの指輪をはめ、亜麻布の衣服と金の首飾りを身にまとうヨセフ。おそらくヤコブは、ヨセフの大臣としての装束に身を固めたわが子を抱きながら、父親が子にしてやれることは、神がしてくださることに到底及ばないことを思わされたはずである。また、神が子を取られたのではなく、子を先に遣わしたこと、ヤコブの家族を憐れんで、ヤコブの家族とともにおられたことを深く諭されたことであろう。ヤコブの心には、深い充足感と希望が湧いてきたはずである。
思うことがある。子は、神からの授かり物であり、あくまでも預かり物、神のご計画に沿って育てていくものである。それは自分の所有物ではない。自分にとってよかれと思うもの、最善だと思うものを与えていく、それが子育てなのではない。神がこの子にどのような計画を持っておられるのか、そしてその子が、自分の思いを超えた神のご計画に従って、神の器として育っていくために、自分が神の御心に沿ってできることは何かを考えていくことである。となれば前途に未来のある子どもに期待するところは大きいが、自分の関りの中で、まず子どもに期待すべきことは、信仰や誠実さ、そして真実さを教え諭していくことなのだろう。
エジプトに着いたヤコブたちは、ゴシェンの地に住むことになった。そこはラメセスの地とも言われている(創世記47:11)が正確な位置は不明である。しかし、このような配慮が、外国にあって、イスラエル人を固有な存在として維持し、発展させていくことになる。実際、外国人を蔑視するエジプトに住むことは、イスラエル民族としての固有の意識を育て、雑婚によるエジプト人との同化を防ぎ民族的な純潔を守ることになり、さらには、宗教的にもエジプトの偶像崇拝から守ったからである。そして、イスラエルは外敵の脅威から守られながら、増え広がることができた。
「羊を飼う者はすべて、エジプト人に忌み嫌われている」(34節)これをエジプト人の民族的な感情を語っているとするならば、エジプト人にヒクソスの支配者たちについての苦い思い出があったため、とされる。ヒクソスというのは、「外国の支配者」を意味し、エジプト中王国が崩壊した後の混乱に乗じてエジプトの支配権を握った(BC1700-1550年)侵略者である。しかしヨセフの出来事がその後のこととするならば、ヨセフはパロの第二の車に乗ることもできなかったと思われる。むしろ、イスラエルが移り住んだ時代は、セム人としてのヨセフを重用し、家族をも歓迎することができた、同じセム系の支配者ヒクソス王朝の時代と考えた方がよいだろう。そしてこのヨセフのことばは、都会の住民が遊牧民に持つ古くからの感情や反感を言い表しているものなのだろう。つまりヨセフは、それを強調することで、馴染みのない都市の生活に家族を引きずり込んで、再び家族に破壊をもたらしたくない、という思いがあったのかもしれない。
ともあれ、神のなさる最善は、私たちの小手先の最善に遥かに勝る。今日も私たちの思いを超えた神の最善に期待し、希望を持って歩ませていただこう。

創世記45章

ヨセフは自分を制することができなかった。そして声をあげて泣いた。二度目の涙は、最初の涙とは意味が違う。43章30節での涙は、弟懐かしさの涙である。45章での涙は、感動と和解の涙である。自分をいたぶり、悪鬼のように商人に売り渡したユダの姿はなく、変えられたユダがいた。しかし、ヨセフは、変われずにいた。兄弟を赦し、家族と再会すべき時が来ていたが、ヨセフは弟ベニヤミンを側に置きたいというだけで、兄弟を赦せず、父の気持ちを思いやることもできずにいた。ヨセフには、あれほど自分をかわいがった父などどうでもよかったのかもしれない。というのも、あんな偏愛に満ちた父がいなければ、こんな不幸も味わうことはなかった、とヨセフは過去の記憶に生き続けていたのかもしれない。そんなヨセフの頑なな何かが崩れていく。
かつてヨセフは、二番目の息子をエフライムと名づけ、主がこの苦しみの地で、自分に多くの償いをしてくださった、と告白している。しかし、それは物質的な償いであって、心の傷を癒す償いではなかった。深い心の傷は長く放置されたままであった。有り余る富と地位で、自分の心の問題をごまかしてきただけであった。ある金持ちの求道者が語ってくれたことがある。金持ちにはごまかしが効くという。寂しい心、むなしい心を、金でごまかすことができる。それがたとえ一瞬であっても、偽り、ごまかすことができると。ヨセフもそうだったのだろう。
だからヨセフの本当の幸せは、この時から始まっていく。変えられた兄弟たちと和解し、かつての父親を受け入れていくところから、神が償ってくださった、自分は満たされた人生を歩んでいる、と心底言える人生が始まっていくのである。それまでの人生は、ただの見せかけの幸せであった。兄弟たちの真実に変えられた姿に触れて、ヨセフの頑なな心が砕かれ、奥深い傷が癒されて、初めて真の和解と幸せが実現したのである。
そしてこれが、神がアブラハムに約束された祝福と理解すべきことなのだろう。ヨセフの物語は絵画的に、アブラハムの祝福をイメージさせてくれる。新約聖書における放蕩息子(ルカ15:11-32)のたとえが神の愛を理解させるものであるとしたら、旧約聖書におけるヨセフの物語は、神の祝福を理解させるものである。分かり合えず、散らされ、敵対すらした者たちが和解し、一つにされる、それがヨセフの味わった祝福である。それは地上における、お金、名誉、地位がもたらすいかなる祝福にも勝るものである。
ヨセフはこの時、39歳になっていた。神は、この恵みをヨセフに、そして家族に理解させるために、多くの時間を費やされた。神は単純に物事を進められるお方ではない。私たちには無駄と思えるような時間をかけながら、物事がわかってくる時と場を備えてくださる。そして神は、起こりえないことを起こりうるように一切を導いてくださるお方である。この時点では、もはやヨセフだけが、自分の心に素直になればよいという状況であったのだろう。しかし、わかっていても、素直になれない時はあるものだ。そしてそのような時も、神が、その素直さを導いてくださるのである。素直になれない時には、自分の気持ちをそのまま神に告げて、時を待つべきなのだろう。それが自分を制しきれない形で実現するのか、それとも、スマートな形で実現するのかはわからないが、神が必ず時と場を備えてくださる。
ヨセフは自らを明かした。そして兄弟たちが自分にしたことを積極的にこう言い換えている「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、命を救うようにしてくださいました。」(5節、50:20)、信仰の人には、物事を神のご計画として理解する力がある。たとえそれが人意図した悪意的な行為であれ、そこにも神の完璧なご計画があると信じる力がある。ヨセフは兄弟の悪意によって売られたのではなく、神に遣わされたと考えた(8節)。また神の人は、神の業がなされる目的を理解する。ヨセフは、自分がエジプトの統治者になったのは、エジプトの民が救われるだけではなく、ヤコブの家族、つまりイスラエルの民も皆救われるためであったと考えた(7節)。実際のところ、ヤコブの家族は外国人としてエジプトの地に迎えられ、自分たちの独自性を失うことなく、増え広がることができた。これは、やがてイスラエルをエジプトの奴隷とすることに繋がるのであるが、イスラエルを国としていく、神のご計画でもあったのである。いついかなる時も、私たちには知りがたい、神の導きを信頼しつつ歩ませていただこう。

創世記44章

ヨセフはベニヤミンの持ち物に、銀の杯を忍ばせるように命じた。その真意はわからないが、おそらく、弟ベニヤミンを側に置きたい気持ちがあったのだろう。推測するばかりではあるが、この出来事によって、ヨセフと兄弟たちの間に思わぬ結果が展開する。
この時兄弟たちはベニヤミンを見捨てて帰途に着くこともできた。しかし、彼らはそうはしなかった。ユダがベニヤミンを取り返すべく、ヨセフの前に嘆願し始めている。ユダは、ヨセフをエジプトに売った張本人である(37:26,27)。それが今や捨て身になって、ベニヤミンを取り戻そうとしている。時が、ユダを変えたのだろう。父ヤコブの悲しみを理解し、人の願いを思いやり、守る者と成長させたのだ。彼は約束を守ろうとした。
後にヤコブは、ユダを祝福して語った。「ユダは獅子の子。・・・王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない」(49:9,10)やがてダビデに受け継がれ、メシヤ待望へとつながる、ユダの王権が確立していく預言的なことばである。救済史のバトンは、長子のルベンでも、最愛の子ヨセフでもなく、最愛の子ヨセフをエジプトに売り飛ばし、その後に悔い改め、父のいのちを救おうとしたユダへと受け継がれていく。興味深いところである、ヨセフは一致のきっかけを作ったが、一致に努力したのはユダである。
 感動的なユダの説得が記録される。感情を抑え、言葉を飾らず、率直に淡々と訴えている。ヨセフを殺そうと提案したのがシメオンだとすれば、実際にヨセフをエジプトの奴隷に売りつけたのはユダであった。ユダは四男、おそらく、次男のシメオンと三男のレビがヨセフを殺そうと皆をたきつけ、長男のルベンがそれを知って阻止しようとした。ところが、四男のユダの、殺すのではなく売り飛ばそうという提案が通っていく。そこでヨセフは売られてしまったのだが、その結果はどうであったか。彼らは、父親のあまりにも激しい嘆きに面食らってしまったのだろう。切り裂かれ、羊の血で汚した長服を差し出す行為があまりにも思慮のないことであるとは思いもよらなかったのだろう。その時から父親の何かが狂っていく、そんな姿を見て、兄弟たちは自分たちのしでかした過ちの大きさを、日々ひしひしと感じていったのではあるまいかと思う。
そして奴隷商人に売り飛ばしたユダが、殺そうと語ったシメオン以上に悪者になっていく。家族の歯車も大きく逆回転し、とめどもなく最悪の事態へと動いていったのではあるまいか。この事件の後ユダは、家族から離れて、一人で暮らしている。なぜか。ヨセフを思い、悲しみに沈んでいる父親、お前が奴隷に売れと言ったではないか、という兄弟たちの無言の抑圧、そんなことで居心地が悪くなって、家を出た、というのは考えられることである。つまりユダもこの10数年というもの、本当に心責められる人生を歩まされたのではないか。ユダの説得は、口先ではなくて、自らの反省から出てきたものである。人間的にも人の悲しみがわかって成長したところから出たものである。その姿を見て、ヨセフも何か、心のうちに張り詰めていたものが崩れていくものを感じたのだろう。
 苦しみが意味をもたらすのはこんな時である。苦しみはそれ自体喜ばしいものではないし、生産性もなく、無為な時を過ごしているように思われるものだ。しかし、確実に魂を練り上げている。魂を形づくり、最終的に神の形を生み出そうとしている。その苦しみの意味が解き明かされ、苦しみの効果が表される瞬間がある。そういう意味では、無駄、無意味と思えるようなことも、厭わずに、淡々とこなしていくことも知恵である。良くても悪くても、今日も主の御心に沿った歩みがなせることを願いつつ、歩ませていただこう。

創世記43章

ヤコブは、ベニヤミンを行かせようとしなかった。結果的に、子どもたちがエジプトから持って来た穀物は食べ尽くされてしまった。再び穀物をエジプトへ買いに行く必要が生じた。しかし、エジプトでの食物の買い付けには、ベニヤミンが同行しなければならない条件があった。ベニヤミンを失うか、それとも食糧を得て生きながらえるのか、ヤコブの決断が迫られる。私たちの心にはどうしても物事に固執してしまうことがある。「なぜ、…私をひどいめに会わせるのか」と自分が可愛いためである。その結果、一層自分の身を危険にさらすことになったりする。しかし、救いを得るためには失わなければならないというのは真実である。
そこにユダが立ち上がっている。長いこと、分裂し、ヨセフは死んだと偽りで固めた生活を生きてきた兄弟たちの中に、一人、「私に責任を負わせてください」と、自らのことばと行動に責任を取ろうという堅い決意を示している。実に、今日の家族、会社、あらゆる共同体に必要なのは、このリーダーシップではなかろうか。働きをうまく進めなくては、と思い、あれこれすることはあっても、最終的な責任を取る覚悟がない。これがそもそもの問題である。組織を成長させよう、延ばそうと思ったら、犠牲は覚悟しなくてはならない。最後はこの自分が一切の負を背負う、と腹をくくるのでなければ、組織を動かすことはできない。組織が混迷するのは、地位や名誉にしがみつく者、役得を維持しようとする者が組織の実権を握る時である。しかし、真に覚悟を決めたリーダーシップは、組織の危機を救うことになる。ユダの腹を決めたことばにヤコブもまた動かされている。「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も失うときには、失うのだ」(14節)。 
クリスチャンは楽天主義者ではあるが、能天気な楽天主義者ではない。むしろしたたかな楽天主義者である。希望がないことは重々知っている。しかし、全能の神に対する信頼に基づいて、無に有が生み出される将来を望み見ている。「主の山の上には備えあり」(22:14)と結論した祖父のアブラハムの信仰の継承である。握りしめたものを手放さない限り、次のものを手にすることはできない。そして全能の神の御心にすべてを明け渡していく時に、私たちの思いもよらぬ結果が引き起こされるのである。実際神が描いたシナリオは、ヤコブの予測を遥かに超えるものであった。
10人の息子たちが末の弟ベニヤミンを連れて、再びエジプトに出かけて行った。彼らはヨセフの前に立った。彼らの知らぬところで、神のご計画が進み、ヨセフの心が動いている。19節、ヨセフの家の管理者の信仰にも注目させられる。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が~」そこにはヨセフの信仰を理解する管理者の姿がある。あるいは、この管理者自身もヨセフの信仰を受け入れていたのかもしれない。リーダーシップの重要な役割は、ただ、難局のかじ取りをすることではない。難局に対処しうるのは、日々の積み重ねであることを自らの姿勢によって示していくことにある。日々、確実に一歩一歩、しっかりと物事を進めていくその姿に、人々は影響されるのである。
「わが子よ。神があなたを恵まれるように」(29節)。簡単な一言であるが、ヨセフの生涯を凝縮したことばである。神の恵みによって彼は助けられ、生きながらえたのである。同じように、神の恵みにしっかり日々より頼む訓練が積み重ねられているのかどうか、それが身体から滲み出、自然に周囲に理解されるほどになっているのかどうか。いつでも、神のものは神に返す、何も持たない者でありすべては主の恵みである、と身軽になって、主に堅く信頼した歩みをさせていただきたい。