ヨブ記37章

37章 神を神として崇める

<要約>

おはようございます。昨日同様に、神の素晴らしさを語る、エリフのモノローグが続きます。私たちは自然界を通して神が語っておられるのに、何も気づかずに日々の生活を送っているところがあります。もっと目を開いて、神の御手の中にあって生きていることを確信すべきところでしょう。そうすれば、私たちはもっと謙虚に、またもっと大胆に生きることができるはずです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の偉大さに注目せよ

エリフは、神の壮大なスケールを、自然現象の数々を用いて説明しようとする。初めは、36章29節からの、雷鳴の描写の続きである。神はなぜもあのような稲妻を光らせるのか。なぜあれほどの怒りにも似た耳をつんざくような轟音を響かせるのか。私などは、その脅威におののいて、心底震えてしまう(1節)。イエスは、「黙れ、静まれ」と嵐を静められたが、雷鳴を引き起こされるのも主である(3節)。神は御声を発し、地の隅々にまで閃光を走らせ、雷鳴を轟かせ、手加減を加えずに破壊的な力を注がれる(4節)。実に神は、不可思議である(5節)。雪だって夕立だって、皆そうだ。皆、神がなさるのに、これが神の業であると人は思いもしない(6節)。深い雪の中では、人は仕事の手を休め、神の業のもとに鎮まるほかはない。どんなに高度な科学技術を発展させても、自然界の脅威の前に立ち尽くしながら、人間はただ自分がこの地上に生まれ出た無力な被造物であることを思い知らされるだけだ(7節)。獣すら自分の身を守る場所を探して、穴倉に駆け込むだろう(8節)。あなたも、神の恐るべき威力については既に述べているが、冬になれば寒気が忍び込んでくる(9節)。あなたが言う天の前(9:9)に、夏の間は潜んでいたつむじ風が押し寄せてくる。そして神が命じられるその息吹により、たちまち地は凍り付いてしまう(10節)。ともあれ、雷雨のごとく、すべては神の指図によって巡りまわるのである(12節)。その意図は容易にはわからない。それは、人間を懲らしめるため、また人間に恵みを施すためである、という(13節)。

2.神を恐れよ(37:14-24)

自然の営みを通して、神はご自身の怒りと愛を示される。私たちにはその神の奇しいみわざを、熟考する時が必要である(14節)。

歳を重ねて思うことは、自然の恵みを味わいながら、朝毎に聖書を開き、神のことばに耳を傾ける、これに優る幸いはない、ということだ。何が幸せか、金がある、家がある、地位がある、友が多くいる、ということも大切かもしれないが、神と共に、語り合うよき時に優る幸いはない。それは人生の究極の至福である。神が供えられた草花や、生き物を楽しむこともなく、ただ、馬車馬のように働く人生は、多くを稼いだとしても、最期には全てを置いていかなくてはならない。自分の苦労を何も知らない人に置いていくのである。だが、自分が何者であるかを弁えながら神に近付かせていただき、神とよき時を過ごす豊かさの時は、地上の体を脱ぎ捨てることがあっても、これを失うことはない。むしろそれを確かなものとするのである。だから知恵あることは、永遠の住まいに私たちを迎えられる神との関係を、地上の命のあるうちに、大切に、しっかりと築くことである。

ともあれ、エリフは、私たちの身の回りが神の御業で満ちていることに注意を向けさせる。あなたは、どのようにして神が、雲に稲妻を閃かせるのか知っているのか(15節)。あなたは、空を漂う雲が、どのように雨水をため込んでいるのか、知っているのか(16節)。それは実に神の不思議ではないか。17節、南風とあるが、これはシロッコ風のことだろう。それは、アラビヤ砂漠を渡って、東、南南東、時には南南西から吹いてくる乾燥した熱風である。激しく吹くと、砂塵で空一面が覆われる。数時間のうちに気温が15~20度も上がることがあるので、人々は、これが吹くと家を締め切って熱気と砂塵を防ぐのである。このシロッコ風のために穂が焼け(創世記41:6、23)、ぶどうの木(エゼキエル17:9-10)や草花も(ヤコブ1:10-11)も枯れてしまう。神はこの風をもって葦の海の水を分け(出エジプト14:21)、ヨナを苦しめ教訓を与えた(ヨナ4:8-11)。エリフは言う。ヨブよ、あなたはその身を焦がす脅威を知っているはずだ。それは神の業だ。だから考えてみたい。あなたは神と一緒に、大空を造ったのか、神と共に、これらのことをなしうるのか(18節)。神と人の差は歴然としている。その神に私たちはどのように近づこうか、どのように口を開こうか(19節)。私に語らせろなどと、間違っても言ってはいけない。それは自分の身を亡ぼすことになる(20節)。

今、雲に覆われて、暗いこの地にあっては光を見ることができないだろう。しかし光は、雨雲の中でも輝いている。だから風が雲を吹き払うならば、(21節)、その光に、私たちは照らされることになる(22節)。私たちもまた、今は、この目で、可視的に神を見ることができないでいる、だからといって神がいないわけではない。神は、力に優れ、さばきと正義を実行なさるお方である。単純に考えも足りずに人を苦しめることはない。神は、正しく物事を行う者を決して見過ごされない。(23節)だから私たちは神を恐れなくてはならない。知恵あり、神を愛する者を、神がお忘れになることはない。、

このように正しく、神を認めることは、私たちの人生の安全弁であり、私たちに自分を等身大に見ることを可能にさせてくれる。高く見過ぎることもなく、低く見過ぎることもない。見極めることのできない神に心を留める時に、私たちは正しく自分のありようを知るのであり、自分の進むべき道、慎むべき事柄を弁え知るのである。ただ自分を見つめるだけでは、自分を知ることはできない。せいぜい他人と比べて自分はまし、あるいはだめ、と思うのが関の山であろう。そうではなく、人間が本来、神の形に造られた者であり、神にす全てを与えられているという認識を得るには、神が造られた自然に目を留め、神ご自身を仰がなくてはならない。エリフは、ヨブに言う。真の知者であると誇っても、神と等しい業を行うことも(18節)、神と対等に語ることもできない(19、20節)。神は至高な方であり、恐るべき尊厳を持っておられる。その神が私たちを不本意に虐げることはない(23節)。

神を至高の神として認められるようになることが、霊的な成熟である。自身を造られた者として認め、神あっての自分であることを認めて、今日も、遜りの心をもって神に近付き、神を崇める歩みをさせていただこう。

 

ヨブ記36章

36章 いつでも神を賛美せよ

<要約>

おはようございます。神を賛美するというのは、楽器を手に、声を揃えて歌うことを意味するのではなく、それは、日々の心の営みであることを覚えさせられるところです。教会に来て、賛美をしても、日々の生活の中で、しかも試練の中で賛美しうるかどうか、そこが私たちの証の生活のポイントとなることでしょう。そのような日々があってこそ、キリスト者の生活は世の光、地の塩となるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の理解力は完全だ(36:1-7)

エリフの弁論が続く。「まだ、神のために言い分がある」という(2節)。先祖がずっと昔から語り伝えて来たものをもって、神の正しさを示そう、という(3節)。私の言い分が正しいことを示すために、まず初めに、神が完全な知識を持っておられるお方であるという言い伝えがある。神は全てを知り、見定めているお方、神に隠されるものはない、そのお方とあなたは向かい合っているのだ(4節)。神は全能の神であると同時に、全知の神である。神の理解力は完全で、神は全てを理解した上で、その力を行使される(5節)。だから、神には、悪しき者をそのままにはされず、苦しめられている者の権利も回復されることが可能なのだ(6節)。神は地の片隅に正しい者がいれば、その者を見落とすことはない。彼にふさわしい報いを与えるだろう(7節)。

2.神は無意味に苦しめられない(36:8-15)

だから、もし正しい者が不正な権力者によって苦しみの縄に縛られることがあるなら、それは無意味なことではない(8節)。それが罪故のものであるなら、神は、その人の何が悪いのか、彼の高ぶりは何かを必ず告げてくださるだろう(9節)。神は、悟りを与えてくださり、その行いを改めるように導いてくださる(10節)。そしてその人が、神の聡と戒めを受け入れるならば、その人は、自分の幸せを回復するのである(11節)。必ずその何が悪いかを語ってくださるだろう(12節)。だからその苦しみを通して語られた神の声を受け入れようとしないならば、彼らは神の懲らしめの内に滅びるのである(13節)。

ヨブは、神が答えてくださらないと悩んでいた。ヨブは三人の友の主張に真っ向から反対したわけではない。神の沈黙に苛立っていた。しかし、エリフは断言する。神は語ってくださらないのではない、必ず語ってくださる。いや、苦しみの意図を告げてくださる、と。悪しき者は、決して、神にその意味を訪ね求めて遜ったりはしない。彼は、神を恨み、神に憤り、神に毒づくだけなのだ(13節)。結果彼らは救われることはない(14節)。しかし、正しい者は、神にその耳を開いていただくことができるだろう。神の与える不幸は、彼をさらなる幸いに導くためなのだから(15節)。

3.豊かさに欺かれないことだ(36:16-23節)

だから神を恐れて、高慢になり、豊かさに欺かれないようにすることだ。あなたは今まで何の不自由もなく、思うままに行動してきた。神があなたを守る垣根を張り巡らされたからだ。あなたは豊かになり、栄え、誰からもうらやむような人生を生きた。だがそのことに足をすくわれてはならない(18節)。いやもしかしたらあなたは調子に乗って記憶に留まらない罪を犯したのかもしれない。だから今あなたがどんなに叫んでも、どんなに訴えても、神が取り合わない事態が生じているのではないか(19節)。人が不正に踏みにじられ、悲しみの内に打ち伏してしまうような夜を求めてはならない。上に立つ者、権力を持つ者は、貧しい者、みじめな境遇にある者に対して、抑圧を強いることに注意せねばならない(21節)。だがあなたはひょっとして、悲しむ者と共に悲しむのではなく、無情な顔を向ける過ちを犯してしまったのではないか。しかし、全てを理解しておられる神は、あなたを教えようとしておられる。あなたを罰して懲らしめて、滅ぼそうというのではない。慈愛に富んだ父なのだ(22節)。その神にどうしてあなたは「不正をした」と言うことができるだろうか(23節)。

4.(36:24-33節)

むしろ、あなたは、自分の身に起こることについて神に賛美をささげるべきである。不可解であればあるほどに、神に栄光を帰すことであって、その逆ではない(24節)。へブルの著者も連ねたように、身に起こる不幸を不幸とするのではなく、信仰によって将来を臨み見、神を賛美すべきである。正しき者の、その証を、全ての人が見るだろう(25節)。神は、私たちの理解力を超えたお方であり、人間のように、限りある命ではない(26節)。雨を例に考えてみれば、神は水を蒸発させ、それを凝固させて雨都市、雲の中からしたたり降らせてくださる(27節)。一体だれがこのような科学的な仕組みを理解し、これを造りえたであろうか(28節)。そして神は、太陽を登らせ、雨で地を潤し、海を水で満たされる(30節)。その循環によって人は農耕の恵みに与ることができるのだ(31節)。すべてが実にうまく、造られている。しかしそこに神は雷も、嵐も加え、神が狙ったところにそれは下される。だが、それも神の恵みの循環の仕組みの一つなのだから感謝すべきなのだ(32節)。その雷により私たちは神を知り、神を恐れ恐れ、神が全てをお造りになったことを覚えるのである(33節)。神の知り尽くすことのできない知恵がある。

神は私たちを友と呼んでくださる。また私たちを子としてくださる。そして神は私たちを長く祝福してくださることもあるだろう。しかし、その恵み豊かさの中に足を救われるようなことがあってはならない。神の前に厚かましく、尊大な者になってはならない。神と共に歩むことは、もっと厳粛なことである。それは、肩肘張る堅苦しいものではないが、崇敬する思いを秘めたものである。もし、私たちが神の前に遜って仰ぐ心を持って、正しく歩むならば、神は、必ず、私たちの疑問に答えてくださることを確信してよい。神の沈黙には動きがある。静かに待つべきである。神の前に愚かになってはいけない。神を信頼し続けることである。そして神を賛美することなのである。賛美は、楽器をもって歌うことが賛美なのではない。日々、神の前に賛美をもって謙虚な思いで歩ませていただくこととしよう。

ヨブ記35章

ヨブ記35章 正しい心で神を待ち望む

<要約>

おはようございます。神の沈黙をどう考えるか。しかし、マラキ以降、400年神が沈黙された時代を覚える必要があるでしょう。やがて神は言葉として現れた、つまり、それは神が沈黙を破られたことであると語るのがヨハネの福音書です。沈黙は何もないということではなく、沈黙の陰で動いている部分があると理解すべきでしょう。大切なのは、神の時を正しい心で待つこと、そんなことをエリフの弁論に教えられるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.天に目を向けよ(35:1-8)

エリフは言う。ヨブよ、あなたは、自分を正義の勇士だとでも思うのか。自分が神よりも正しいというのか(2節)。というのもヨブよ、あなたはこう言う。3節「あなたがこう言っているからだ。「何があなたの役に立つのでしょうか。私が罪から離れると、どんな利益があるのでしょうか」ヘブル語の流れに沿って直訳すれば、あなたにとって何の役に立ち、私にとっては何の利益があるのか。私が罪を犯したからといって」となるだろう。言いたいことは、「私が過ちを犯す、犯さないが、果たして神に何の意味があろうか」である。エリフは言う。その通りだ、と。そして、大事な点でもあるのだが、エリフは、ヨブが、弱い者の味方になって、拡声器のように同じ境遇にある者の代弁者となっていることへの警告を発している。4節「私はあなたにことばを返そう。あなたとともにいる友人たちにも」つまり、ヨブよ、そしてヨブの類の人々よ、自分や社会の暗部ばかり目を向けることは止めて神を見上げよ。天を仰げと。地上に雨が降ろうが、雲の上は、常に晴れている。地上のことと相いれない天上の超越した世界がある。確かに、神は超絶した方で、人間がどんなに罪を犯そうと、いかに正しくあろうと、神には何の関係もない、神がそれでどうなる、というわけでもないのだ(5-7節)。この神の至高性を理解することはなかなか難しい。私たちはわかったつもりになっているだけで、その実、神を人間の世界に引きずりおろしていることが多いのだ。

ところでエリフは、8節「あなたの悪は、ただあなたのような人間に、あなたの正しさは、人の子に関わるだけだ。」と語り、計らずも十字架の贖いの思想を示唆している。つまり、人間に正しさが認められるとしたら、それは、人の子とのかかわりにおいて、と言っているのであり、「身代金を得た(33:24)」に続いて、ここでも預言的にイエスの贖いを語っている。大切なのは、私たちが神との交わりを得るとしたら、ただイエスの贖いの故であり、私たちの義そのものが神の目に留まって愛でられるなどありえないほどに、卑しい者であることをわからなくてはならないのである。

2.神に近付く正しい態度を持て(8:9-16)

だから、人間は神に近付くにおいて正しい態度を学ばなくてはならない。それはヨブも同じであった。後半は、祈りが答えられない理由について端的に触れる。「人々は、多くのしいたげのために泣き叫び、力ある者の腕のために助けを叫び求める」(9節)。力ある者が、何食わぬ顔で法と哀れみを捨て去り、自分都合で物事を運び、私腹を肥やすことはよくあることだ。そうした不正は社会に蔓延している。そこで踏み躙られた者は、助けを求め、泣き叫ぶ。しかしそれはただ、獣のように叫ぶだけである。そこで理性をもって、静かに、神はあわれみに富み、眠っている間に全てを供え導いてくださるお方であるし、新しい力を与えてくださるお方である(10節)。また、最も小さな人間にも、獣をはるかに上回る知恵を授けてくださるお方である。そのように創造主の温かな心を信頼し感謝をもって、崇敬しつつ近付くものはいない(11節)。確かに、追い詰められた中で、もはや理性も働かず、ただ愚かさをさらけ出し、神に食らいつくように祈ることもあるだろう。しかし、そうであってはならない。人を思うままに抑圧する悪しき者の祈りを神は聞かれることはないが(13節)、ヨブのように、ただ自分に重きを置いて、自己主張的に神に助けを求める者たちにも、神は心を留めようとはしないだろう(14節)。

そして理解すべきである。神の沈黙は静止ではない。そこには動きがある。神は、私たちの叫びを聞き漏らすような方ではない。人間というものは、とりあえず片が付いた、として物事を終わらせて記憶から消し去ろうとするものである。壊れたものは、もう戻せないのだから、と物を捨てるように切り捨てていくことが多い。だが神はそうではない。片が付いた、と思われるような状況になっても、神の関わりは続いていく。人間的に言えば、神は不器用なお方なのだ。神は至高なるお方であるが、人間の救いのために、手を汚すお方であり、実際に十字架のイエスをお遣わしになったお方である。だから私たちの小さなうめきを決して見過ごすようなお方ではない。大切なのは、そのようなお方として神を見、神に謙遜な心をもって近付きお願いすることなのである。そのような意味で、イエスのゲッセマネでの祈りは、神の御心を優先する模範であったことを思い起こすべきだろう。イエスはヨブのようにまず自分に重きを置いて、荒んで祈ることはなかった。

「訴えは神の前にある。あなたは神を待て」(14節)。これがすべてである。神を神として畏れ、神が私たちの父として心配しておられることへの信頼を大事にし、神の時を待つ、そしてレビ記に教えられるように、正しい態度をもって、神に静かに近づくことである。私たちが学ばなくてはならないのはそのことである。私たちがここで学ばなければ、何度も同じところを通らされることだろう。その度に、神は聞いてくださらない、というのではなく、「訴えは神の前にある」という経験を得なくてはならないのである。ヨブよあなたはその点において弁えがなかったのではないか(16節)。神の時を待つことにくたびれ果てることがあっても、自分が特別であるとは思わず、神の前に謙って、待つことを学ばせていただこう。

ヨブ記34章

ヨブ記34章

<要約>

おはようございます。34章は、いくつか翻訳上の難しさのあるところです。わかりにくいところも多々あります。しかし、これを読み味わうながら、神の深い愛への信頼を掻き立てられる部分でもあることでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ヨブの言い分は、不本意な結論をもたらす(34:1-9)

エリフは、ヨブの不満を二つに要約する。一つは、「わたしは正しい。神が私の正義を取り去った」(5節)。つまり、私は罪を犯したこともないのに、神によって不当に苦しめられているという。そして二つめに「神と親しんでも、それは人の役に立たない」(9節)。神と友になっても何もよいことはない、「神に祈ってどんな利益があるのか」(21:15)というわけである。エリフは、第一の不満に対してはこの34章において、第二の不満に対しては35章において、さらに詳しく答えていく。

まず、ヨブは、自分に対する神の取り扱いが正しくない、不正であると不満をもらした。しかしそれは、神に対して不当な結論をもたらすことになる、神の義を嘲る悪者どもと同じ言い方になるのだ、と警告する。ヨブの苦悩は、その通りかもしれないが、そのことを主張し続けることは、ヨブにとっても不本意な結論を引き出すことになる。

2.神に不正はない(34:10-22)

というのも神は公正であり、神に不正は絶対にないからである(10-12節)。神は創造者であり支配者である。神は無から有をお造りになる全能者である。その神は、ご自身がお造りになった宇宙の秩序を正しく維持されるお方である。神は、この地や世界を誰かに委ねられたわけではない。自らが最終決定者である(13節)。だからもし神が「思いを定め」この地を終わらせようとするならば、「すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る」だろう(15節)。

エリフの最終決定者に対する信頼と崇敬を垣間見るところである。神は人間ではなく、最終的な権威を持つ正しい支配者であり、権力者である、と確信する。しかも、エリフは神の愛を見ている。神にえこひいきはない(19節)。というのも高貴な者も、貧しい者も皆、神の御手による、神は万人の父であるという。だから、彼らに不正があれば、神がその者を、人手によらず、何もできない夜中の内に取り去るのである(20節)。「神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ている」(21節)。神に隠されるものはない(22節)。

3.神の裁きに間違いはない(34:23-30)

神は、裁判を必要としない(23節)。取り調べの必要もない(24節)。とういのも神は全てを、御存知だからだ。長い審理にかける必要もなく、迅速に判決を下し、悪者どもを夜の夜中に突如滅ぼされるのである(25節)。神は悪者の悪を明らかにし、これを隠されず、ご自身が正義であることを誰の目にも明らかにされる(26節)。弱い者の叫びを聞き洩らさず、苦しむ者を見過ごされることはない(28節)。だからこう心得るべきである。もし、神が黙っておられ、何かが不当に行われているように思われるならば、その時は、神が成り行きを見守っておられるのだ、と考えるべきなのだろう。神はご自分の時を心得ている。神のなさることは人間の理解を超えている。神が沈黙される時は、その沈黙に漂い、神がなさろうとされることを最後まで見守ることだ。神を信頼し、神を咎めるようなことがあってはならない。エステル記のハマンの例がそうであるように、ハマンの悪に苦しめられる人々が、その希望を失いかけても、ハマンの罠は決して完成することはなかった。神を敬わないハマンが、支配者になることも、ユダヤ人やモルデカイを罠にかけてこれを滅ぼしつくすこともできなかったように(30節)。神は一つの国民としてだけではなく、また一人の人を見ておられる。神は一人一人の魂に責任のある創造者であり、父なのであって、神の善意は、決して狂うことはないと心得るべきである(29節)。

4.下手なことを言わないように(34:31-37)

神は、私たちにはわからない理由で物事を遅らせることがある。死に瀕し、緊急を要するラザロの下への訪問が四日後であったように。私たちにはわからない理由がある。そしてたとえば、ある悪人が、懲らしめを受けた、自分はなんという人生を歩んできたのか。もう悪いことはしないし、神の再教育によって新しい道を歩みたい、と願ったのなら(32節)、それでもあなたは、そんなのはダメだ。黒は黒、白は白、きっちりと裁くべきだと主張し、神もそうだ、あなたを苦しめたのだからそうしよう、と言うだろうか(33節)。神は罪の告白と悔い改めを喜ぶのに、あなたは、白黒をはっきりさせて報復することを求めるのか。それがあなたの考えかもしれないが、私は違う。あなたの考えを言ってみてはどうか(33節)とエリフは言う。良識のある人たちは、私のことばに賛同するだろう(34節)。というのも、これまで、三人の友は、あなたが何か罪を犯したと言うことを前提にあなたに悔い改めを求めてきたが、私は違う。私は、それが確かであるかどうかはわからない。しかしあなたの弁明に正しさがない、と言おう。あなたの言うことは、結果神を不当呼ばわりする者たちと同じものである。神に対して実に不適切なことを言っていること、この罪は明らかだろう。だから「ヨブが最後まで試されるように」(36節)その高慢が取り去られて、ヨブが謙るまで、徹底的に神に試みられるように、という。

ヨブには、確かに、不当な人生はなかったかもしれない。しかし、神の前に多くを語りすぎることで、結果神の善である確信を投げ打ち、神に不当な汚名を着せてしまった事実は明らかになったのである。イエスは、十字架上で多くを語らなかった。イエスが黙して語らなかったところに、またご自分の置かれた状況と使命を意識し「完了した」、と語るところに、イエスの人格の完璧さがある。イエスに倣うということは、そのような部分なのであろう。神のしもべとして、いつでも静かに、物事の先行きを見守り、神のなさることを、感謝を持って受け止めていく、これが私たちの進むべき道である。つまり、神を神として認めていく、そのお方は私たちの一人一人の歩みに目をとめ、私たちに責任を取られる最終的な権威者として認めていく、ことが大切なのだ。

 

ヨブ記33章

33章 仲介者による救い

<要約>

おはようございます。エリフの弁論の中に仲介者の思想が出てきます。初めてヨブの、一番言いたかったところに触れる存在が現れた、というべきでしょう。しかし、三人の友の議論があればこそ、このエリフの議論も輝くのです。物事はそんなに単純ではない。複雑さの中に、シンプルな結論が煌めくのであって、単純に言い切らない深さを持って行きたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.私はヨブと対等に語りたい(33:1-7)

エリフの語る内容は、三人の友が語るものとあまり変わらない。しかし、立脚点は明らかに異なる。神は人よりも偉大である。これは同じ。しかし、エリフは言う。ヨブよ、どうかあなたの心を開いて耳を傾けて欲しい(1節)私は言うべきことを率直に語ろう(2,3節)。あなたも言いたいことがあれば遠慮なく言って欲しい(5節)。私たちは神の目に対等なのだから。私もあなたも神に造られた者だ(6節)。だから飾らずに、力むこともなく、自然体で語ろう(7節)。

エリフは明らかに、三人の友と違って、上から目線ではなく、ヨブと同じ目線で、いやヨブの側に立って、神を謙虚に仰ぐ仲間としてヨブに語り掛けている。ヨブの心が捕えられていくのは、まさにエリフのそのような謙虚さの故であったのだろう。

2.ヨブよあなたは間違っている(33:8-13)

エリフは言う。確かにあなたが言ったことは、「神に自分が咎められるいわれはない」(8-9節)、「神は重箱の隅をつつくかのように、私の行動に目を光らせ、一つ一つ責任を取らせようとなさる。神は私の敵となった」(10-11節)ということだ。しかし、そんなことを言うあなたは間違っている。今のあなたには、偉大な神を恐れる心が失われているのではないか(12節)。なぜ神と言い争うとするのか。私とあなたは対等であるが、神とあなたは対等ではない。私たちは、土塊であって、神の意思を受け入れるのみだ(13節)。

3.ヨブよ神は確かに語り掛けている(33:14-22)

それにしてもヨブよ、神は様々な方法で語られているが、人はそれに気づかないでいることがあるものではないか(14節)。神は、夜の夢と幻の中で語る(15節)。ベテルでヤコブが経験したことは、まさにそういうことではないか(創世記28:10-15)。神はそれによって、人の歩みを正し(17節)、且つ、前途に希望を失った者に光を与えるではないか(18節)。

また神は、病気と痛みの中で語ることもあるだろう(19節)。神の御手によって、食欲が衰え、以前は美味しく食べていたものも喉を通らなくなり(20節)、すっかり肉が削げ落ちて痩せこけ、骨と皮だけになり(21節)、もう棺桶の中に横たわっているも同じ、ような状況に置かれて語られることもあるだろう(22節)。

4.神は仲介者によりあなたを回復される(33:23-28)

ただ、そのような試練において必要なのは、あなたが言う通り、仲介者だろう(23節)。あなたを懲らしめる神にとりなす仲介者が必要なのだ。そうすれば、神は「もうそこまで、もうよい。あなたの償いは、既に十分なされたのだ」と言ってくださるだろう。あなたは、解放された、もう自由だ、と。そして、神はあなたを回復させてくださるのだ(25節)。彼の祈りは、再び確信をもって祈られ、打てば響くように、神が自分に応えてくださることを感じるだろう(26節)。そして、彼は素直に告白するのだ。「私は本当に罪人そのもので、神ではない自分を正しいとしたにもかかわらず、その当然の報いとしての神の怒りを受けず、(27節)むしろ、神のあわれみにより、命を守られたのだ」(28節)、と。彼は心から感謝するのである。

ヨブの語った言葉を注意深くフォローしながら、ヨブの側に立って語り続けるエリフの姿がある。そしてエリフの言葉の中にメシヤ思想の進展がある。ヨブ記は、意味不明に思える災いや苦難について、神のみこころがあることを教えてくれている様に思うが、それは表面的な筋書きのことに過ぎない。それ以上の内容を持っている。それは、メシヤの存在をはっきりと語り、メシヤの苦しみを語り、メシヤを神と人の仲介者として、またそのつながりの確かさを保証するものとして語ることにある。ヨブの口を通して、仲介者、証人、という言い方でそれは語られてきたのであるが、エリフも、「一人の仲介者」(23節)と語っている。「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た」(24節)。これはまさに、イエスが十字架上でしてくださることを物語っている。既に、ヨブは、14:14において、「人は死ぬと、また生きるでしょうか。私は苦役の日の限り、待ちます。私の代わりがやって来るまで」と語っている。ヨブの願う通りに、ヨブの代わりがやってきたのである。身代金は、人質が死を免れるために支払われる代金であり(22節)、神の怒りに対するなだめである。大切なのは、神が罪に責められる罪人のために身代金の支払いを認められたことであり、救い出されたことである。苦難は確かに、人を懲らしめ、訓練の時を与え、人に高ぶりを捨てさせ、知恵と悟りを与える。しかし、真に人を救い、回復に向かわせるのは、神が恵みによって備えてくださる身代金による。いな、十字架の犠牲を厭わなかった仲介者イエスが私たちの永遠の友となってくださることにある。

4.ヨブよ言いたいことがあれば遠慮なく言え(29-33節)

ともあれ、こんなことが、神のみこころのままに、人の生涯には起こりうるのだ。しかも、二度も、三度も(29節)、耐え難いことかもしれないが、神は、必ず、その魂を滅びの淵から連れ戻して、その命を回復される(30節)。ヨブよ、あなたもそういうことはわかっているのではないか。いな、まず私に語らせてくれ、もちろん、あなたに言いたいことがあればいくらでも聞こう。私は言葉の争いなどしようとは思っていない。あなたの言うことが筋の通ったことであれば、私はそれを受け入れよう(32節)。しかし、私の言うことに、頷くことがあるのなら、さらに語らせてくれ。あなたには学ぶ時、教えを受ける時ではないか(33節)。

翻訳上の訳語の是非はあるとしても、エリフの語り口は、実に、さわやかに私には聞こえてくる。彼は徹底して、ヨブのことばをフォローしながら、自分の論を進めている。ヨブが一番求めたとりなし手、仲介者に触れたのも、エリフのみである。

確かに、神が私たちに敵対したように思われる時に、その神の権威のもとにある、私たちにとっては、仲介者不在の状況は酷であろう。キリストがおられることの恵みが、いよいよ明らかになるところだろう。今日も主キリストの恵みに感謝しつつ、キリストにあって、喜びの人生を歩ませていただくこととしよう。