マラキ書3章

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おはようございます。10年、20年聖書通読をし、しっかり神に仕えた者とそうでない者の差はいずれ明らかになるものです。日々の積み重ねを軽んじてはなりません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の民のきよめ

3章前半は、2章後半の民のつぶやきに対する神の応答の続きです。「さばきの神はどこにいるのか」(2:17)に対して、「待っておれ、今そのさばき主を遣わそう(1節)」という事でしょう。それは具体的に、2000年前に遣わされたバプテスマのヨハネとイエスを指しています。ヨハネは、イエスのために道備えをする者でした(マタイ11:10)。ですから突然やってこられる「主」は、イエスに他なりません。実際イエスは、突然神殿に現れ、その宮を聖められました(マタイ21:1213)。バプテスマのヨハネが語ったように、キリストは「聖霊と火のバプテスマ」により、「ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられる」お方として来られたのです(マタイ3:11,12)。そしてペンテコステの際に、「多くの祭司たちが次々に信仰に入った」(使徒6:7)と、エルサレムに悔い改めが起こりました(使徒2章)。私たちが信ずべき神は、神話のそれとは違うのです。

ですから不信仰な者たちに対して、神は「わたしに帰れ」と悔い改めと立ち返りを勧めます。しかし、「どのようにして、私たちは帰ろうか」という言葉自体に、彼らの頑なな、神に帰る意志のなさが現わされていると言えるでしょう。

2.神に立ち返る

注意すべきは、このことばは、未信者に語られているのではないことです。神の民、いわゆる信仰者に向けて語られているのです。ですから、神の名を口にしながら、それほど神に期待するわけでもない不信仰な信仰者の現実は、その礼拝行為に明らかです。神は、彼らの礼拝が、空しい形式であり、神に盗みの損害すら与えていることを指摘します(8節)。つまり神を軽んじる信仰者は、1章で述べられたように粗末ないけにえをささげるのみならず、十分の一のささげ物の教えを正直に守らず、誤魔化していたのです(9節)。

これは今日のキリスト教会においても問われるべきことでしょう。10節、神は「試してみよ」と語ります。確かに思い切って十分の一を献げたとして、それによって生活が汲々となることはありません。むしろそこには正しいことをした喜びが生じ、神への感謝と崇敬が増し加えられる、まことにいのちある礼拝が生じるのです。アナニヤとサッピラのように、神に誤魔化しながらの礼拝はありえません。

神は再び、不信仰な民のつぶやきをとりあげます。真面目に神に仕えて何になる。神など否定して、自由に生きている方が、よっぽど良い暮らしをしている、と(15節)しかし、信仰は、ご利益が中心なのではありません。神がおられる現実を覚えるからこそ、何が無くても神を信頼し、従うのです。いずれ、そのように神の主権を認めて生きている者とそうでない者の差は明らかになります(18節)。目先の損得感に惑わされてはいけません。また世の人々が執着するようなものに心を奪われないことです。ただ神を見上げましょう。