創世記19章

 アブラハムの時代、死海の沿岸にソドム、ゴモラ、アデマ、ゼボイム、ゾアルの五つの都市があった。ソドムはその中でも最大で、死海は「ソドムの海」とも呼ばれた。ただしその位置は明らかではない。通説は、死海南部、エル・リサン半島の南方で、大きな地殻変動のために湖底に沈んだと考えられている。実際、その地の発掘調査の結果、BC2300-1900年頃に巡礼地のあったことがわかっている。ただし、「ヨルダンの低地」(創世記13:10)を死海北部に限定し、この説を否定する見解もある。
 死海は南北約75Km、東西約18Km、面積は約1020平方Km、琵琶湖二つ分の大きさの湖である。海面下約400mで、世界で最も低い地点に位置している。ヨルダン川から注がれる水量は一日約600万トン、しかし高い気温によって蒸発するため、水位は一定である。一方湖水の塩分濃度は、普通の海の約8倍で、棲息する魚はいないとされている。旧約聖書では他に「アラバの海(申命3:17等)」「東の海(エゼキエル47:18等)」と呼ばれている。
ロトがアブラハムと別れて既に20年以上過ぎていた。その日ロトは、自宅に旅人を迎え入れた。それを知ったソドムの人々が、ロトの家を取り囲み、性的関心から旅人と会うことを求めたのである。ロトは、自分の娘を身代わりにして対応しようとした。ロトは安全を保証してもてなす約束の掟を破るよりも、娘を犠牲にすることを選んだのである。もちろん、町の人々がそれを断ると予測したのであろうが、常識的には受け入れがたい行為である。先にアブラハムに裁きの意志を告げられた神であったが、ソドムには正しい者が十人もいなかった。神はソドムを滅ぼそうと決意される。主の使いが、ロトにこの町から脱出するようにと命じる(12,13節)。だが、ロトは迷った。娘婿たちも「冗談のように思われた」とあるが、神の怒りの結果がどんなであるかを罪人は感じられないでいるものだろう。主の使いたちが、ロトと妻と二人の娘の手を取って彼らを引っ張り出し、町の外へと導いた(16節)。全く神の哀れみによる救いであった。警告どおり主は、ソドムとゴモラの方、低地全体に硫黄の火を降らせ、これを滅ぼされた。
死海の南には岩塩で出来た山々、通称「ソドムの山」が険しくそびえたっている。伝説によると、古代のソドムはこの山の中に埋もれ、罪人たちは岩塩に化してしまったとされる。神の命令にそむいて振り返ったロトの妻も塩の柱となってしまった(17)。イエスが、「ロトの妻を思い出しなさい」(ルカ17:32)と教訓を与えているように、これら岩塩の柱は、ユダヤの人々に、神を畏れることの重要さを示すものとなった。
神とともに生きる人生の結果はすぐには見えてこない。しかし、やがてその差はおのずと明らかになる。まさに積み重ねの結果が形になる。アブラハムとロトが別々に歩み始めたことは、別々に歩む積み重ねがなされた、ことでもある。一方は、いつも神を恐れ、神と共に歩むことを求める。もう一方は、世と世のものを愛し、神に背を向けて歩んでいく。その積み重ねの結末が何であるかをこの物語は教えている。ロトの最初は華々しかったが、その結末は、洞穴での生活という最悪の老後となっていく。ただ神はこのような落伍者にでさえ、滅びの穴から逃れるための努力を惜しまれないお方なのである(29節)。
ロトは、その後、娘によってモアブ人とアモン人の先祖となった(申命2:9)。ロトの娘たちは、ソドムの社会の風潮に影響されていたのであろう。その時代、その地域の文化に支配された考え方で、異常と思われる判断すらしていくのが人間である。モアブとアモンは、後に、イスラエルの歴史上最悪の性の誘惑(民数記25章)、宗教的冒涜(レビ18:21)をもたらす存在となる。私たちの性は変えられない。しかし、神はあわれみ深い。このモアブ人の子孫、ルツを通してダビデが生まれ、アモン人の女ナアマがソロモンの妻となってレハブアムを産みやがてメシアを迎えることになる。罪の故の不名誉な結果が、いつまでも繰り返されることはない。ルツは語った、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」(ルツ1:16)。神を呼び求めるところに、神のあわれみがあり、新生がある。神はご自身を呼び求める者を滅びの洞穴から、まさに滅びの悪循環の中から救い出される。

創世記18章

ヘブロンから西へ2.5キロ程の道のりに、「アブラハムの樫の木」と呼ばれる一本の老木がある。聖書が言うマムレの樫の木とされているものだ。その日、アブラハムは、マムレの樫の木の側、天幕の入り口に座っており、妻サラは天幕にいた。そこに、「三人の人」が現れた。通説は主なる神と二人の天使と説明されるものである。実に、聖書の神は、行動される神である。人間が捜し求めるまでもなく、神ご自身が私たちを訪ねてくださる。
 アブラハムはそれとなく気づいて、ベドウィンのもてなしの風習に従って、足を洗う水を用意し、木の下で休むように勧めた。そして天幕にいたサラのもとへと急ぎ、パン、小牛、凝乳で旅人たちをもてなした。
当時の天幕は、山羊の毛で造られていた。山羊の毛を手で編み、布地にし、小さな繊維で細い布を作り、編んだものである。山羊の毛を刈る頃になると、古いテントは修繕され、新しいテントが建てられる。テントの大きさは、家族の人数によるが、だいたい3-5メートル四方であった。3列に並んだ9本の支柱で支えられ、真ん中の列は2.1メートルの高さ、両脇は、1.8メートルの高さで傾斜していた。中は二つに仕切られ、手前は男子用、奥の間は婦人用である。床はなく、わらのマット、毛の敷物があれば上等であったという。 
さて、318人のしもべがいながら、自らもてなすアブラハムに対して、訪問者は、年老いたサラに子どもが授けられる約束を告げるが、サラは信じられず心の中で笑ってしまう。興味深いことは、13節、神がサラの不信仰に対してアブラハムを非難されていることである。アブラハムは、自分では信じていたのだろうが、その協力者であるべき妻サラに同じ信仰に立たせることができずにいたのである。あるいは、まだ告げていなかった、ということも考えられるが、恐らく、笑ったのはアブラハムのことばを馬鹿げたことと聞き流していたことによるものなのだろう。「主に不可能なことがあろうか」聖書の神は全能の神である。全能性に対する信頼が、信仰の本質である。サラは、自の不信仰に気づかされたのであろう、恐れて自らのことばを打ち消している。そして、これ以降サラも信仰の人となっていく(ヘブル11:11)。
 人間には、不可能という現実の壁が立ちはだかる時がある。年を重ねた妻サラ(11節)に自分の子供を腕に抱く望みなどありえなかった。しかし神は、そこであえて、「主に不可能なことがあろうか」と語られる。神が約束されたことは、不可能と思われることであっても実現する。しかし、不可能なことがすべて神の御力によって可能になるわけではない。それは、神の力に限界があるのではなく、神のご計画の故である。
 続いて神は、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(17節)と語られた。神は訪問される方であるばかりか、告げ知らされる方である。そしてアブラハムのとりなしを導いた。神は、人間に対して積極的に関わろうとされる。この世に不正があれば、自らの主権をもって、さばかれようとする。だが、主権者であられる神は、同時に「知りたいのだ」(21節)とも語っておられるように、裁きを下すことに慎重なお方である。神は高き天の御座から地を見下ろし、悪しき人間を見つけ出すや否や怒りの鉄槌を下される方ではない。むしろ、神は天から下り、人となって、人の間に住まわれる(ヨハネ1:14)。人の歩みを同じ目の高さでご覧になって、その心の奥にあるものを理解し、必要な行動を取られるお方である。つまり神は、審理を尽くすよき審判者なのである。その神がアブラハムにソドムとゴモラの裁きを告げ知らせられた。
ただこの物語の中心は、悪をお裁きになる正義の神を語ろうとしているところにあるのではない。むしろ人間のとりなしを導こうとし、神のご計画の奥深さを示される神にある。神は、審理を尽くすと同時に、良き結果に導くことを願う神である。それはちょうど、イエスが30年の公生涯において、人間の状況について審理を尽くし、さらに十字架において全人類を悔い改めを導こうとされたことと同じである。神はアブラハムのとりなしを導いた。アブラハムがその神の心に応じて、祈りの内に語りかける。まるで友に話すかのような語りかけである。実際、「神の友」ということばには、神とアブラハムの親しい関係が表されている。もはやアブラハムは追従者ではなく、神のご計画の協力者として描かれている。アブラハムは、もしや、その町の中に正しい者がいるかもしれない、神と対話を繰り返し、滅ぼさない限度の数を十人にまで引き下げた。ヘブル語で十人は「ミニヤン」で、会衆の祈りがなされるための最小単位とされる。つまり神に心を開いて祈る者たちがいるなら滅ぼさないように、と、彼は人間の側にたってとりなしたのだ。とりなしは重労働のようなものだ。しかし敢えてその役を買って出ることは、モーセのように(出エジプト32:32)、またイエスのように(イザヤ53:12)、偉大な主の御業を完成するためには必要とされることである。それなくして、アブラハムを通して地上の全ての民は祝福されるという(12:1-3)主の祝福の約束の実現もあり得ない。私たちはただ単に能天気に主の祝福に与るのではない。やはり自らを神のしもべとして差し出し、とりなしという重い責任を果たす仲介者であることによってはじめて、主とともにその祝福の栄冠に与るのである。

創世記17章

アブラムは99歳となった。妻のサライが自分の女奴隷によって子を得ようとすることに同意し、神の御心を損ねたアブラムは、複雑な家族関係に悩まされていた。それから、13年、神に特別な啓示を与えられることもなく、神の約束を単純に信頼する淡々とした日々を過ごしていた。しかしそれは同時に、悶々とした毎日であったとも言える。
そんなアブラムに、再び神がご自身を表わされた。神はご自身の契約を再確認され、その契約の第一に、アブラムが学び落としていた点を強調される。それは、人間の理解力を超えた神の「全能性」(一節)である。この神の全能性がわかっていたら、望み得ない所に、望みえる信仰を持つことができる。信仰者がこれを学びきっていないからこそ、いつも思い悩み、苦しみ、神を信頼しきれないでいるのである。「全能の神」は、ヘブル語でエル・シャダイである。これは伝統的には「満ち足りている」(ダイ)ところの(シャ)神(エル)という意味であるとされてきた。神のもとに、私たちの完全な満たしがあるというわけだ。 
聖書では、新しい名が信仰による新しい存在を意味することがある。アブは「父」を意味し、ラムはアッカド語の「愛する」か、西方セム語の「高い」を意味する語で、「父は愛する」か「高められた父」を意味する。神は、アブラムを、アブラハムと呼んだ。それは、「多くの」あるいは「群衆」を意味するハモーンとの複合語で「多くの国民の父」という意味である。また妻のサライは、サラという名に変えられた。サライは「争いを好む」という意味であるが、サラは「王女」という意味である。さらに神はご自分についても、新しい名を用いられた。それが「全能の神」である。アブラムは自分が新しい者であること、妻との新しい関係にあること、さらに、自分が信じる神の新しさを意識していく。アブラムは小さな偶像の神観を打ち壊し、これまでボンヤリ見ていた全能の、まことの神をクリアに理解し、信頼するようにと導かれたのである。
また、神は、この契約において、しるしとしての割礼を受けるようにアブラムに勧められた。後にこの契約のしるしである割礼は、契約の内容よりも大事にされるようになっていく。パウロは、信仰は、契約の内容を大事にすることであって、契約のしるしや律法主義に陥ることではないと語る。罪人の私たちの視点はいつでもずれやすい。バプテスマの内容よりもバプテスマの形式を重んじることもそうかもしれない。
しかし、割礼を受けることは、神のこの契約に立ったことを証しする。さらに大切なのは、イシュマエルも、家の男たち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、アブラハムと一緒に割礼を受けたことである。つまりアブラハムの一族が皆、一つの契約の中に集められたこと。それは、アブラハムの個人的な契約が、アブラハム一族の契約となり、そのことに皆で証印を押すことになったのである。デレク・キドナーという聖書学者は言う。「ペンテコステが教会の誕生日であったという意味で、これは旧約聖書の教会の誕生日であった」。実に教会は、バプテスマを受けることにより、皆で神の祝福を共有し、その祝福の一族であることに証印を押すのである。
そのことから考えると、私たちもバプテスマを受ける時に、しっかり神の契約に立っていく、自らの覚悟を示していくことが大切である。私はこの一族とともに、あるいは教会とともに神の祝福に与っていく、と覚悟を決めるのだ。転入も同じである。
神は、約束を具体的に話された。「来年の今ごろ、サラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる」(21節)と。イサクは、「彼は笑う」を意味することばである。確かに100歳の者に、また90歳の妻に子どもが生まれるというのは、不可思議なことであり、心に喜びを感じつつも受けいれられないことであったと思う。しかし、私たちが信じる神は全能の神である。アブラムが契約において第一に強調され、生殖能力においては自分が死人であることを自覚する中で味わい知ったことは、この神の全能性なのである。人間の可能性に基づいて考えるのではない、神の全能性に信頼する歩みに私たちは入れられている。

創世記16章

 サライは、主を信頼することができなかった。彼女は、自分で物事を解決しようとした。つまり女奴隷のハガルを夫に与えることによって子どもを得ようとした。そしてこの点においては、アブラムも同様に不信仰だったのである。カナンが飢饉となりエジプトに下って失敗したアブラムは、その後、神に従う歩みを回復し、おいのロトに対して神の人らしい行動をし、さらに神にあってロトを救出する偉業を成し遂げている(14章)。さらに15章では、神に、ダマスコのエリエゼルではなく、「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの後を継がなければならない」と主を信頼するように求められ、その確証となる神との契約を交わしているのである。ところがこの16章においてアブラムは、再び主を信頼することに失敗し、アダムと同様妻の言いなりになり、またその結果については、責任を負いもしない、まことに無責任で最低の男となってしまった。信仰の歩みは二歩前進三歩後退というべきものなのかもしれないが、信仰の父と言われるアブラハムもまた同じであった。こうして主を信頼できなかった老夫婦は、女奴隷のハガルによって子を設け、そのための複雑な人間関係に苦しみ、争い事に巻き込まれていく。サライは、自分を見下げるようになったハガルをいじめ、家から追い出した。
当時、ハムラビ法典には、母となることが禁止されている女祭司の結婚について、特別の取り決めを定めている、という。つまり側室としての女奴隷を夫に与え、女奴隷は子どもが与えられた場合、あくまでも自分の立場を忘れてはいけない、という取り決めである。同じような慣習は、他の地方にも見られることからも、サライが自分の悩みの解決のためにアブラハムに要求したこの方法は、決して、突拍子もないことではなく、当時の社会的慣習を反映したものなのだろう。アブラムがこの地に移り住んでからすでに10年、神はどのようにして世継ぎを与えてくれるのかと悩みを重ねていたアブラムは、自分の家のしもべ、ダマスコのエリエゼルが跡継ぎになるのでなければ、当時の社会的慣習に沿った妻サライの提案を受け入れるのがベストと考えたのもやむを得なかったことである。しかし、神の思いは、人間の思考的限界を超えたものなのだ。実際、神は無から有を生じさせるお方であり、神に一日も、10年も大差はない。
アブラハムとサライは、約束の子、イサクを与えられる前に、人間的には全ての可能性を失わなくてはならなかった。つまり、神のご計画、神の業に与るためには、生殖能力という面において、完全に死人とならなくてはいけなかったのである(ローマ4:19)。ただ主がなさる業に与る、信仰の歩みが、いかなるものであるかを知らなくてはならなかったのである。
それにしても、サライの都合によって振り回されたハガルの人生は何であったのか。まったくもって軽んじられた人物の哀れな姿がそこにある。そしてこの何なのか、と思える人生が人間社会には溢れている。助けのない、無力な、そして軽んじられ、捨てられた人間。神は祝福を語られるが、そうではない現実。神の真実さに否を語らざるを得ない現実がある。そのように何の望みもない人間がわたしであり、あなたであることがあるだろう。ハガルは、あてもなく、荒野に追いやられ、ただ死を待つしかない状況へと放り出されていくのである。
しかしこの物語は、事態がどのように進展しようと、神が決して人を見捨てることはないことを教えている。そして、主の方法は、そんなに簡単ではないことを教えている。主の使いは、死を選ぶか苛め抜かれるかではなく、死を選ぶか、それとも、遜って困難に耐えるかの選択を促した。ハガルが生き延びるために上から与えられた知恵は、嫉妬にかられた女主人のもとで身を低くすること、そして神の祝福の時を待つことである。信仰を持たずして、神の方法を選択することはできない。そして、今の現実を否定するだけでは、抜け道を見出すこともできない。神は、ただ、信仰を持ち、神の祝福の時を待つように、導かれた。
果たしてそれから約10数年、ハガルは主に従順な忍耐の時を過ごした。そして確かに、主の祝福を得、生きながらえたのである(25章)。ここに知恵がある。
「ベエル・ラハイ・ロイ」その意味は、「私を見られる、生きておられる方の井戸」である。孤独に苦しむ奴隷の女、気まぐれな主人に振り回されて捨てられた女に目を留めていた方がいる。いや、心配して声をかけてくださる方がいる。その方が、砂漠の井戸から水を汲み、新しい力を得るように、再び生きる力を与えてくださった、という感動がそこに表現されている。神を信じよう。自分は奴隷であったが奴隷以下にゴミくずのように捨てられた、自分の人生は終わった、もう駄目だと思う時にこそ、神の配慮を信頼しよう。神はアブラハムにも、ハガルにも同じことを教えておられるのである。生殖能力のない老体の不可能性と向かいあったアブラム、主人の横暴に振り回されて平穏な生活を奪われ、死にまで直面させられた女奴隷ハガル、いずれも、神の可能性に生きるチャレンジを与えられている。神はダイレクトにご自身のチャレンジを与えるのではなく、人を通して与えるので、私たちは混乱してしまいやすい。霊の眼を開いて、神のなさろうとしていることをしっかり見て、主を信頼する歩みを、させていただこう。神は私たちの苦しみを見られる。そして生き抜く知恵を与えてくださる。

創世記15章

「これらの出来事の後」、戦いの後で、ということだろう。それは、部族長というよりも、都市国家の統治者に挑んだゲリラ戦であったから、アブラムにとっては、当然報復を恐れるところがあったはずだ。そんなアブラムに、神は三つの約束をもって、力づけている。
第一に「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」(15:1)神が盾となってくださるという。神は私たちの守りとなってくださる。また神は私たちの必要を満たす方である。私たちは神にあって一切のものを所有するのであり、神を抜きにして満ち足りることはない。
第二に「さあ天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:5,6)東京の夜空の星数は少ないが、地方であれば「あなたの子孫はこのようになる」あるいは、「海辺の砂のようになる」(22:17)という祝福の豊かさを実感できるだろう。その祝福は身震いするような内容である。
実際に人の道筋を決められるのは神であって、人ではない。私たちは自分の人生は自分が切り開くものだと考えている。だから自分の手持ちの札がなくなれば、もう自分の人生に可能性はない、と考えてしまいがちである。しかしそうではない。神が「海辺の砂のような」祝福を計画し、各人に定めておられる。それを真実であると受け入れて、どこまでも神の御思いに心を合わせて生きる時に、神が何であるかを知ることにもなる。斜に構えたような心を捨てて、神に対して率直な心を持とう。
もちろんアブラムも能天気に神の言葉を受け入れたのではない(3節)。アブラムは自分が老齢で跡継ぎ息子がいない現実を神に訴えている。そんなアブラムに、神は、現実の可能性ばかりに目を向けることを戒められる。そして、ただすべてをお造りになった神にのみ期待するように、天を見上げさせるのである。神を信頼しない人生は、自分の力と現実の可能性の中で生き抜くだけの人生である。アブラムは信仰に生きる道を選び取った。神が私たちの思いもよらぬ、最善の道筋を備えておられる。そう考えてみよう。人生が随分と楽になり、楽しみにすら思えるのではないだろうか。
最後に、アブラムは、しるしを求めている。アブラムは信仰の偉人であると教えられているが、そうでもなさそうなところがある。実際、彼は、勝ち目のない戦に臨んでかろうじて勝ったのだから、その後の保証を得る必死な思いもあったのだろう。神の加護の確実さを確認せざるを得なかったのである。そんなアブラムに神がお付き合いくださった点に注目しよう。信仰を与えてくださるのも神なのだgh。
当時、動物を真二つに切り裂き、その間を通る行為は、契約を交わし、その契約を確認する方法の一つであり、古代カルデヤ人の間でよく用いられたものであった。契約を破った場合には、裂かれたものと同じ状態になることを承知する意味があった。しかしこの契約において、アブラムは深く眠っていた。契約を確認する行為を行ったのは神だけである。つまり、契約を破ったら、神ご自身が自分を裂くと約束されたのである。ここに神が一方的に、自らに義務を課した約束がある。神は、祝福をすると約束されて、その祝福が守られなかったら死を持って報いると堅くその約束を確認されている。しかし、これが神の恵みの性格と、イエスの十字架の救いの性質をよく示している(エペソ2:8,9)。
もし、敵に囲まれる状況にあり、敵に陥れられ、逃げ場もなく、無力さの中に恐れを覚え、神の御心に対する忍耐が失われそうに思われるならば、天を見上げることにしよう。天と地をお造りになった偉大な神を覚え、その星を数えてみることにしよう。いや海辺の砂を思い浮かべてみよう。そして神が一方的にご自身の恵み深い性質に基づいて契約を交わされたことを信じよう。信じられない時にこそ、敢えて信頼してみよう。いや信じられなかったら率直にその思いを神に語り告げてみよう。「主よ、信じます。不信仰な私をお助けください」と。信じさせてくださるのも神である。