ローマ人への手紙15章

最初の1-6節は、キリスト者の自由と配慮について語った14章を、キリストの模範を示すことによってまとめるものである。キリストのごとく愛を持って、弱さを担い、互いの徳をはかり、益を目指してく。そのために、キリストがそうであったように、神のことばにしっかりと根ざしていく。実際、聖書は忍耐と励ましを与え、希望を持たせるものだから、聖書が、私たちを互いに同じ思いにしてくださる力となるだろう、というわけだ。教会は、難しい時にこそ、話し合いも大事かもしれないが、まずないよりも一人一人が神のことばに立たなくてはならない。初代教会の一致が乱された最初の危機は、使徒たちがあまりにも忙しすぎて、神のことばと祈りに専心できないことからきていた(使徒6:1-7)。だから、不和がある時にこそ、議論ではなく、みことばと祈りに集中するならば、私たちは調和を取り戻し、神に栄光を帰す結果を持つことになる。互いに受け入れあい、徳を高めあい、そして喜びを持ちたいものである。
そもそも、非ユダヤ人も福音によって祝福されるのは、旧約の時代にはっきりと預言されていたことである(9節)。パウロは入念に、旧約聖書の律法(10節、申命記32:43)、詩篇(9節、詩篇18:49、11節、117:1)、預言書(12節、イザヤ11:1)から引用してその証拠を示す。信仰を持つ非ユダヤ人も信仰を持つユダヤ人と共に一つとされ、神の民の共同体に加えられるのである。だから受け入れ合うことが勧められ、互いが共にあることで、喜び、平安、信仰、希望に満たされるようにと祈っている。
さて、14節以降の15章後半は、個人的な陳述である。パウロは、約20年近く異邦人への宣教者として働いてきた。初め、パウロは教会を迫害し、それを破壊しようとしていた。しかし神の哀れみを受けて、パウロは、使徒とされ、キリストに仕える者となった。そして今や、エルサレムからイルリコにいたるまで福音を宣教した。ガラテヤ、小アジア、マケドニヤ、アカヤの幹線道路に沿った主要都市には、パウロの働きによるキリストを信じる群れが立ち上がっていた。パウロはその働きに誇りを持っているし、まだまだその働きを進めたいと考えていた。しかしそれは単なる拡張主義ではない。パウロは、自分のしていることが「祭司の務めを果たすことであり、異邦人を聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とする」尊い働きに与ることだ、としっかりとした認識を持っている。福音宣教が拡大の結果を生むことがあっても、その働きの本質は、祭司の務めに与ることである。それは、教会の形式を建てあげることではなく、キリストにある新しい関係とキリスト者たちの共なる生活の分かち合いを進める働きである。教会では、愛、労り合い、励まし、支援、分かち合い、仕えることが大事にされなくてはならないのである。そしてそれは具体的なものである。
パウロは、ユダヤ人が非ユダヤ人と分かち合うべきものがある、とする(25-33)。パウロとその仲間は、ギリシアにある異邦人の教会からエルサレムにあるユダヤ人の聖徒たちに対する特別献金を与っていた。この献金の詳細については、2コリント8-9章に記されており、過去2年ほどで計画され、今やようやく手渡す用意が整っていたものである。この特別献金にはいくつかの目的があった。第一に、ユダヤ人兄弟たちに対する異邦人の愛を形にしている。第二に、貧しいユダヤ人信仰者が最も必要を感じている時に、実際的に救いの手を差し伸べることであった。そして第三に、ユダヤ人と異邦人の教会を一つにすることに役立った。確かにそれは、お互いの絆をより強いものにした。パウロは、この献金を、負債を返すことであるとみなしていた。異邦人たちは、霊的な豊かさをユダヤ人から受けていたからである。だから物的な豊かさを自分たちの負債のためにお返しするわけである。またこの献金は、負債を支払うものであると同時に、「実」と考えるべきものであった(28節)。蒔かれた種によって生まれた実であった。実に、教会の愛の交わりは、理想ではない。実質愛が交わされなくてはならないのである。そして愛が交わされ、徳が建てられていくように心を砕く、宣教者の務めがある。
30節にある「力を尽くして」ということばは、競技において自己ベストを尽くす競技者をイメージしている。おそらくこのことばは「一緒に戦う」という方がよりよい表現だろう。私たちの祈りに、いよいよ熱を込めていきたいものである。

ローマ人への手紙14章

キリスト者の成熟の問題をどのように考えるか、パウロは、すでに7章でこの問題を扱っている。キリスト者として信仰はスタートしたものの、実際には、変わり切れない自分を抱えて、信仰を否定すらしたくなることはあるだろう。だが、8章以降、私たちは、すべては上から与えられるのであり、神の内なる業に信頼すべきこと、また決してこのような私たちが見捨てられることはなく神が完成してくださることに期待すべきことをすでに、学んできた。
14章において、さらに具体的にこの問題を考えてみたい。パウロは、問題となりやすい二つの生活領域を取り上げる。一つは食べ物、そして、もう一つは特定の日を宗教的に守ることである。当時、エルサレム会議での議論によれば、偶像にささげられた動物の肉を食べてはいけなかった(使徒15:20、29)。現代でもユダヤ人はコーシャス規定というものを持っていて、かのハンバーガーショップのマクドナルドですら、肉とミルク製品は別途のカウンターで扱っている。イスラム世界ではハラール認証というものがあるが、イスラエルではレストランにコーシャス規定のマークを表示するのは、普通のことである。
ともあれここでの問題は、異教社会で生活しているキリスト者の間で必然的に起こってきた問題であった。パウロは、コリント教会への手紙においてもこの問題を扱っている(1コリント10:23-33)。異教の都市の肉屋で売られている肉の多くは、異教の神にささげられた動物のものであり、キリスト者の中には、そうした肉を買うことに良心的な咎めを感じる者もいた。パウロは、そこで異教の神など実体がないものだから、良心の咎めを感じる必要はないのだ、と言いながら、全てのことが許されていると言っても、全てが益にはならないし、むしろ、神の栄光を表すという観点から、愛をもって、互いの徳を高める生き方をするように勧めている。
ここでも基本的に同じことを言っている。異なる確信や良心の縛りにあるキリスト者が、同じ交わりの中にある時に、一つの価値観となるように徹底して教育する、あるいは、お互いに徹底的に議論して、統一見解に達する、パウロはいずれも求めていない。まあ、考えてみれば、たとえ考え方がこの点で一つになろうと思うことがあっても、人それぞれに心のペースがあるものだから、当たり前と言えば当たり前である。
まずパウロは、それぞれに確信を持ち、互いに受け入れ合うべきことを語る(14:1-12)。互いに相手の状態を理解しあい、他人の行為を裁かないように、と勧めている。そして「信仰の弱い人」と思われるような人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけない(1節)と語る。「信仰の弱い人」というのは、霊的に幼く、本質的なものと非本質的なものとの区別がつかない人のことを言う。他方「信仰の強い人」は、キリストにある霊的な自由を理解し、ある特定の食べ物や聖なる日の奴隷にならないような人たちであるが、彼らの問題は、霊的に幼い人々を受け入れられない愛の乏しさにあった。彼らは、神が自分たちを受け入れ養い育ててくださったように(3節)、弱い者を裁いたり、軽蔑したりせずに受け入れ、その成長を見守るべき立場にあった。
だからパウロは、個人の確信を一々言葉に言い表して、争い事を深めるようなことをせず、まず「自分の心の中で確信を持つ」べきことを勧める(5節)。ルターは、「キリスト者はすべてのものの上に立つ最も自由な主人であって、だれにも従属していない」(『キリスト者の自由』)と語っているが、信仰者の歩みは、ただ神の前に生き、神に責任を問われるものである。やがて私たちは皆、神の前に立って、自分の生きて来た人生について申し開きをしなければならない(12節)。裁くのは神であって、人ではない。弱いキリスト者も、強いキリスト者も互いにさばきあうのではなく、自分の確信は自分のものとして持て、という。確かに、裁いたり、軽蔑したりすることは自分の尺度を押し付け、自分のようになれ、ということに他ならない。これが災いの元であることは言うまでもない。ちなみに、多元的に相手の価値や生態をあるがままに見て、受け止めていく、これは、文化人類学者に学ぶところが多い。
そこで、この原則を理解した上で、弱い、強いということを言うのであれば、強さは、配慮に現れる、というのが、後半の語るところだろう。ルターは、先の言葉の後で、「キリスト者はすべてのものに最も奉仕するしもべであって、だれにも従属している」と語っている。つまり、成熟したキリスト者は、きわめて自由に生きることができるが、他人との関係においては配慮を持ち、その自由を喜んで制御できるのである。人を躓かせ、悲しませ、悩ませるぐらいだったら、自制した方が互いの益となるだろう。成熟したキリスト者が、自分が良しとしていることで、そしられるようであってはいけない。良いと思っていることは、主観的ではなく客観的に誰にでも認められるものでなければならない(18節)。
そういう意味で、私たちは「平和に役立つこと」と「お互いの霊的成長に役立つこと」とを求めたいものだ。つまり、あの人はあるいは自分は「弱い」とか「強い」とは言っても、実際に、弱いも強いもない。弱い者は未熟、強い者は成熟なんかではない。弱い信仰者は、「恵みと救い主イエスを知る知識におい成長」できるように保護され、励まされる必要があるかもしれない、しかし、少し先に進んでいるかもしれないという強い信仰者も、愛において成熟しなくてはいけないのだ。良心は知識によって強められ、知識は愛によって整えられるべきものだ。強いといえども、成熟の余地は、さらに多くあるのであって、互いに成長とそのための支え合いを必要としている。神の国が、「義と平和と聖霊による喜び」を第一とするのだ、というのはそういう考え方を持ってこそ成り立つものである。
だから、私たちは互いを建てあげるという気持ちを持つことが大切だ。イエスの時代のパリサイ人のように、仔細なことに拘り、ぎすぎすした雰囲気をかもし出すのではなく、義や平和や喜びが私たちの内に互いに実現するように、かかわっていくのだ。弱いも強いもない、それぞれがそれぞれの信仰の課題を抱えている。そして他人との比較の中に信仰を生きる発想ではなく、ただ神の前に責任を負うという発想にならない限り、決して、信仰の成熟を達成することはできない。自分に対しても、他人に対しても、寛容であり信仰を育てるという姿勢を持って、今日の一日も歩ませていただこう。

ローマ人への手紙13章

ヨルダンには、アンマンの市内、ジェラシュ、ペトラと、数々のローマ遺跡が散在しているが、それぞれに円形劇場があり、広場があり、その構造はよく似ている。ある意味で、どこに行っても、ローマと同じ感覚の町に住めることを目指した、フランチャイズ方式で、ローマが支配するあらゆる所に同じ形の町が出来上がっている。ローマから遠く離れた中東の町に、これだけのものが造られるとは。ローマの支配の徹底ぶりを思わされる。

そんなローマ帝国がやがてキリスト教国になっていく。初めキリスト教は、中東の一地方ににわかに起こった一宗派だった。パウロがアカヤの地方総督ガリオに訴えられた時、ガリオはその告発にほとんど注意を払わなかった(使徒18:12-17)。それはただユダヤ教の律法解釈を巡って、ユダヤ人に敵視される一派に過ぎなかったからである。それが、ローマ帝国の監視の対象となり、64年ローマ大火をきっかけに迫害を受けていく。やがてそれは、国家的、組織的な迫害にさらされていくのだが、最後には、大どんでん返しで、公認宗教そして国教となっていく。キリスト教の何がそうさせたのか。何が立場を逆転させていったのか。一つには、この13章の権力への服従という教えがあったからなのだろう。

パウロは言う。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます(1,2節)。」後にローマ帝国が昔日の栄光を失い、瓦解仕掛けた時に、キリスト教の権力への服従と組織力は注目された、というわけだ。ローマ帝国は、国家を建て直す国益のためにキリスト教を利用したのかもしれないが、そこに、神のご計画もあったのだろう。

ただ、この箇所を迫害や社会的な苦難の状況にあるキリスト者にそのまま当てはめてよいものかどうかは注意を必要とする。戦中、日本基督教団は、宮城遥拝を受け入れている。そして、アジア諸国に散在していた日本人牧師は国家権力に服従し、現地の人々に宮城遥拝を指導したと言われる。そして天皇を神と認めないキリスト教の牧師の多くは、拷問、獄死の悲惨な道を辿らされた。実際日本軍の残虐行為に、殉教を強いられた韓国のキリスト教の歴史もある。他方、ナチスヒトラーが残虐極まりない振る舞いをした際に、キリスト教の牧師であり抵抗運動をしたボンフェッファーが、「もし精神異常者が車を暴走させたら、それを止めない人がいるであろうか」と自分の行為の正当性を主張したのは有名な話であるが、そのような理屈であれば、この13章1節には矛盾しないのだろうか。

ただ時代的に、パウロがこの手紙を書いた時には、まだ迫害らしい迫害もなかった。つまり、この手紙は国家が国民の利益をもたらすものであるという前提で語られていることに注意しなければならない。国家は悪を罰する、つまり犯罪の抑止や市民道徳の維持のために必要な存在として見られていた。キリスト教徒が、社会や国家の関係に悩むようになるのは、この手紙が書かれて10年も経たないうちであったことは確かであるが、パウロは、国家権力自体が逸脱をし、ヨハネの黙示録に出てくる「海の獣」と化した時(黙示録13章)に、どうしたらよいのか、ということについてはまだ何も語っていない。もしそのような事柄への解答を聖書に求めるのならば、より直接的な文脈のあるところで考察すべきなのだろう。たとえば、ヨハネは黙示録で明らかに、ダニエル書を読者のユダヤ人に連想させ、無法集団の国家権力に対しては、ダニエルのごとく、公の行動に気を付け、中傷者たちにつけこまれる機会を与えず、神を信頼して時を耐え忍ぶことを暗に示している(ダニエル書6章)。数年後、ローマからの激しい迫害の直前に書かれたペテロの手紙においても、思慮深い、適切な忠誠が促されている(1ペテロ2:13-14、4:15-16)。おそらくパウロも、それ以上のことは語らなかったと思われる。

6節、「税金を納める」当たり前のことが言われているが、なすべき当たり前のことをしっかりするのがキリスト者である。このように国家の適切な要求に「はい」と従っているのであれば、限度を超えた要求には「いいえ」と答えることも、神の栄光を現す、意義あることになる。つまり、キリスト者は神が立てられた国家権力に忠実であるべきことに間違いはないが、正義や真実が守られるための戦いは、今まだ平和と思われるこの時代に、いかに正しい真実な歩みをしているかにかかっていると考えたい。そうであればこそ、国家の逸脱に対して「いいえ」を言う権威が神からのものであることを皆が知るのである(使徒4:13)。

10節、「他の人を愛する者は、律法の要求を満たすものです」受けるよりも与えるほうが幸いである、と言われるが、与えていく、愛していくことは、人間としてより完成されたあり方に近づくものである。「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものと欲してはならない。」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」ということばに要約されるからです。(9,10節)」実際、「姦淫してはならない」ということは伴侶をもっと深く愛せよということだ。「殺してはならない」も同じで、敵を愛せよである。「盗んではならない」も人のものを大事にせよ、ということになる。むさぼるなも、自分を肉欲に振り回させて破滅させるのではなく、自分を真に大事にせよ、ということになる。他人も自分も愛するということ、他人にも自分にも借りを作らない、ということが、本当に人間としてあるべき姿でもあるのだ。

そしてなぜこういう生き方をするかといえば、「夜はふけて、昼が近づきました。(12節)」ということに尽きるのだろう。確かに、神の御前に立つその時が近づいている。神の前に立ってすべてのことを申し開きする時が近づいている。だから、「闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。(12,13節)」となる。今日の一日も、神に近づく歩みをさせていただこう。

ローマ人への手紙12章

12章からは、1-8章の教理的な内容を受けた、実践的な勧めになっている。十戒の前文、憐れみ深い神の提示があって、その神を覚えて十のことばを守るように、というのと似ていて、これまで恵み深い神による救いが語られ、その神を覚えて、神に従う道を進むようにと語る部分である。信仰の行いの基本に、神のあわれみと恵みへの感謝と感動がある。そこでパウロは、開口一番に、自分自身を神にささげるように語る。それこそ礼拝である、と。

かつてイスラム教の国を訪問して思わされたことは、日本人には「礼拝」の感覚がない、ということだった。毎日7回繰り返される、祈りの呼びかけに応じて、熱心なイスラム教徒は、礼拝用の敷物を広げ、ひれ伏して礼拝を始める。私たちも彼らと同じように、所かまわず、実際にするかどうかは別として、私たちの存在の根源である神を認め、神の前にひれ伏し、ただ神を崇めるためだけの時を一日の内にどれだけ持ちうるか、考えたいところではないか。もちろん、パウロ的な言い方をすれば、毎日7度の行為を行ったからと言って礼拝的な生活ができている、というわけではない。むしろ、人生に向かう姿勢そのものが、神を認め、神にささげられた礼拝的なものであるか、が大事なのである。

そこで礼拝的な生活、つまり神にささげられた生活の特徴がいくつか述べられている。

第一にそれは、この世と調子を合わせない生き方である(2節)。ギリシア語の言語では、「鋳型で形作られる」を意味する。つまり、夏場にチョコレートが解けて、容器の形に変形するイメージを思い浮かべるとよいが、聖書的な価値観で生み出されたクリスチャンがこの世の熱に溶かされてこの世の価値観に模られてしまうようなものだろう。結局は、やることなすことが聖書を読まない世の中の人と同じようであってはいけない、ということだ。心の一新によって自分を変えなさい。というのは、変えられ続けなさい、ということである。受動態であるから、自分で変えるのではない、聖霊によって変えていただくこと、変えられ続けることが大切なのである。

第二に、慎み深さ。謙遜さということ(3-8節)。ことに、教会生活の中での慎み深さ、謙遜さについてパウロは触れている。教会の中で、自分の賜物を用いて、教会に仕えるように語る。クリスチャンになった時の大きな生活変化は、生活の中心としての礼拝が行われるようになること、そして教会生活が始まることである。それまでは自己目的オンリーで、自己実現を中心とした人生であったのが、神と人に仕える人生を生きる人生へと謙虚な心の姿勢に変えられていく。キリストにある罪の赦しと神のあわれみを深く経験すれば、人生に対する心の姿勢は変わらざるを得ない。残された人生は、自分のためのものではなく、神のため、神を必要とする人々のためのものである。そのように神にささげられた人生は、奉仕的な人生である。神の愛が伝えられる場としての教会が、建てあげられていくように自分自身の賜物を活かして忠実に仕える人生である。そして賜物は多様である。それぞれ育ち、家柄、経験、能力、感性に違いがあるのだから、当然やることなすことは違って来る。そのような多様な働きが大事にされてこそ、教会の働きも豊かになるものなのだ。

第三に、礼拝的生活の特徴は、真実の愛に生きることだ(9-10節)。愛は感傷的な感情以上のものである。それは、「悪を憎み」という悪を識別する力、つまり知力を用い、さらには、「善に親しむ」意思を伴うものである。神の前にあって、神に喜ばれる生き方をすることそのものが、礼拝的生活である。そういう生活のまとめあるいは、スタートとして、毎週日曜日の公的礼拝もある。

というわけで、パウロの勧めは、複雑多岐に人の生活全般にわたっていく。勤勉であること(11)、それは礼拝的生活の特徴の一つである。機会に前髪はあって後ろ髪はない、と言われる。つまり向かって来る時に捕らえなければ、通り過ぎてから捕まえることはできないのである。機会を活かして用いる態度と行為があることは重要で、霊的熱心さを保ち続けることがその秘訣であり、祈りも同じである(12)。忍耐を働かせること(12)、兄弟姉妹の必要や旅人を思いやる気持ちのあること(13)、喜びや悲しみに共感する力のあること(15)、協調性があること(16)、平和を守ろうとする気持ちのあること、さらには、不本意なことがあっても、赦し受け入れ、祝福する力があること(7-21)。ここに、聖書の礼拝観がはっきりと打ち出されている。つまり霊的な礼拝というのは、日曜日の朝の1ないし2時間の宗教的な行為ではない。むしろ、人間が神に造られた者であることを覚えて、神の前に遜り、神に仕える人生を生きるかどうかである。礼拝は普段の日常性と結びついているかが重要なのである。それは手の届かないことを追い求めることではなく、身近な義務を全うすることにある。

礼拝は礼拝、教会を一歩出たら、礼拝での敬虔さや教え、決意、信仰、喜びとは全く関係のない人生を歩み始めるのが、日本人だとも言われる。キリスト教は教会で行う礼拝、祈り、献金、伝道といった宗教的な行為・習慣であり、勤勉、忍耐、愛、赦し、感謝、謙遜、協調といった日常生活や生き方の姿勢とは関係がない、のである。信仰の確信と教会での実践がそのまま日常生活にも映し出されるような、信仰と日常生活が一体化した歩みを、主に導いていただくこととしよう。

ローマ人への手紙11章

パウロは9章で、イスラエルが過去に神の主権によって選ばれたことを強調している。そして10章では、イスラエルがその選びの中にありながら、福音を拒絶したこと、しかしそのような不信仰は、今に始まったことではないイスラエルの歴史的な経緯が説明される。そしてこの最後の11章では、イスラエルが未来に回復されること、それが世界的な祝福の前触れとなることが強調される。つまり、イスラエルの過去、現在、未来を通観すれば、神はどこまでもユダヤ人への約束を取り消されることはなく、依然としてユダヤ人を選びの民とし、救いを提供しておられるというわけだ(4節)。

自己流に信仰を持つだけで福音に耳を傾けようとしない、民族的なユダヤ人は、もう神から見放されてしまったのか、捨てられてしまったのか、と言えば、そうではない。彼らは、モーセと預言者によって語られた昔も神の言葉を拒絶したが、神は彼らを見捨てられなかった。今でもイエスによる救いの方法、つまり福音を拒絶したといって見放されたわけではない。恵みに応じる者が救われる原則は変わらない。神は恵みの神であり、悔い改め、神を求める者を拒まれることはない。パウロはその具体例を示すために、エリヤの例をあげる(3節)。イスラエルが霊的に堕落し、全国家的に背教し、誰も神を認めようとしなかった時代、神のことばを伝え続けることに落胆した預言者エリヤは、まだまだ神の側に立つ7000人の者が残されていると語られ、励まされている(1列王19:18)。同じように、民族的ユダヤ人が、福音を拒否し、ユダヤ人は救われる可能性がないように見えても、そこには福音の側に立つ霊的な真のユダヤ人が残されている。パウロ自身がそうであったし、また他にもそのようなユダヤ人がいたことに間違いはない。彼らの存在自体が、神が民族的なユダヤ人を見捨てられたわけではないことの証拠であった。神は恵み深い方である。

また、ユダヤ人が一時的に捨てられたように見えているのは、捨てること自体が目的なのではなく、それによって異邦人に素早く救いが及ぶためであり、またユダヤ人に妬みを引き起こさせる、つまり逆にイスラエルに神を求めさせ、奮起させる機会を提供するためである、という(11節)。いわゆる相乗効果を狙ってのことである。

次にパウロは、神がユダヤ人を見限ったわけではないことを二つの例話で示している。おそらくこの背景には、ローマ教会の非ユダヤ人キリスト者が、仲間のユダヤ人キリスト者を低く見ていた事情があったのだろう。神は、あわれみのよって、滅亡寸前の国家からユダヤ人を救い出されたと。そこでパウロは、ローマ教会の非ユダヤ人に、健全なユダヤ人の見方について説明するのである。まず、粉の塊(16節)の例をあげる。民数記15:17-21からの引用で、収穫された麦の粉の最初の部分は、神様に捧げられるのだが、それは、粉の塊全体が神様に属するものであることを象徴している。つまり、イスラエルの父であるアブラハムが神に受け入れられたのなら、その子孫も受け入れられると言いたいのだろう。パウロはこのたとえを簡単に書き流し、すぐオリーブの木(16-24節)のたとえを示している。オリーブは、イスラエルの民の象徴で、その木を支えているのは木の根っこである、という。根っこはイスラエルの族長たちのことだろう。神はアブラハム、イサク、ヤコブと契約を交わされた。そしてその契約に否定も変更もない。イスラエルが今日も守られ、支えられているのは、この根っことなる契約のためである。

興味深いことにパウロは、ユダヤ人を木から折り取られた枝として描いている。そして、他の枝、つまり異邦人が、その木の命を受け継ぐように接木されたという。この「接木」は「性質に反したもの」である(24節)。というのも普通、栽培種の枝が野生種の枝に良い実を結ぶように接がれる。しかし、よい木に「野生種」つまり異邦人の枝が接木されているからだ。そこでパウロはローマの人々に言う。異邦人であるあなたがたは、自分たちの新しい霊的な立場を誇るようなことがあってはならない、と(18-21節)。むしろ、異邦人教会が高慢になり、神の恵みに頼ることを忘れて、神への信仰を捨てて自分により頼むなら、彼らもまた切り落とされる。神の真の民の特徴は、ただ主の恵みにより頼むことにあるのだ。だから、見捨てられて神の愛顧を失ったかのように見えるユダヤ人が、ついにキリストを信じるようになるなら、彼らは神の民に新たに加えられるだろう。そして切り取られた古い枝が再び雄やぎに接ぎ木されて実を結び始めるのは、奇跡以外のなにものでもない。しかしそれこそが神が成し遂げようとしている神の御計画なのである。ように見えるイスラエルが盲目にされたのは、あくまでも一時的であり、「異邦人の完成のなる時まで」(25節)であり、皆が神のもとに遜って神の救いに与るためなのだ(26節)。

「神の賜物と召命は変わることがない」(29節)神のイスラエルに対する計画は決して変わることはない。神の知恵に対するパウロの称賛が続く。パウロはここで、地上のダビデ王国の回復については何も語っていない。パウロは自らの民族についてもっと優れた霊的な祝福につて思い描いていたのであろう。そういう意味では、私たちは、同胞の日本人に対する宣教はもちろんのこと世界の民族に対する宣教に熱心になり、その中に、「根(ユダヤ人)があなたを支えている」(18節)という事実を覚え、つまりユダヤ人に対する負債があることを心に留め、ユダヤ人の救いのために祈り続けなければならないことはあるだろう。

しかしながら、この9-11章のユダヤ人に対する議論は、実は、1-8章にまで展開された人間の救いの理解をさらに深めさせてくれる。つまり、頑ななユダヤ人が神に決して見捨てられないということは、いかなる非ユダヤ人も、神に見捨てられないことの例証である。あなたの救いは確かである。主に対する信頼をしっかり告白しよう。神の恵みは深く、その知恵は計り知れない。