創世記44章

ヨセフはベニヤミンの持ち物に、銀の杯を忍ばせるように命じた。その真意はわからないが、おそらく、弟ベニヤミンを側に置きたい気持ちがあったのだろう。推測するばかりではあるが、この出来事によって、ヨセフと兄弟たちの間に思わぬ結果が展開する。
この時兄弟たちはベニヤミンを見捨てて帰途に着くこともできた。しかし、彼らはそうはしなかった。ユダがベニヤミンを取り返すべく、ヨセフの前に嘆願し始めている。ユダは、ヨセフをエジプトに売った張本人である(37:26,27)。それが今や捨て身になって、ベニヤミンを取り戻そうとしている。時が、ユダを変えたのだろう。父ヤコブの悲しみを理解し、人の願いを思いやり、守る者と成長させたのだ。彼は約束を守ろうとした。
後にヤコブは、ユダを祝福して語った。「ユダは獅子の子。・・・王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない」(49:9,10)やがてダビデに受け継がれ、メシヤ待望へとつながる、ユダの王権が確立していく預言的なことばである。救済史のバトンは、長子のルベンでも、最愛の子ヨセフでもなく、最愛の子ヨセフをエジプトに売り飛ばし、その後に悔い改め、父のいのちを救おうとしたユダへと受け継がれていく。興味深いところである、ヨセフは一致のきっかけを作ったが、一致に努力したのはユダである。
 感動的なユダの説得が記録される。感情を抑え、言葉を飾らず、率直に淡々と訴えている。ヨセフを殺そうと提案したのがシメオンだとすれば、実際にヨセフをエジプトの奴隷に売りつけたのはユダであった。ユダは四男、おそらく、次男のシメオンと三男のレビがヨセフを殺そうと皆をたきつけ、長男のルベンがそれを知って阻止しようとした。ところが、四男のユダの、殺すのではなく売り飛ばそうという提案が通っていく。そこでヨセフは売られてしまったのだが、その結果はどうであったか。彼らは、父親のあまりにも激しい嘆きに面食らってしまったのだろう。切り裂かれ、羊の血で汚した長服を差し出す行為があまりにも思慮のないことであるとは思いもよらなかったのだろう。その時から父親の何かが狂っていく、そんな姿を見て、兄弟たちは自分たちのしでかした過ちの大きさを、日々ひしひしと感じていったのではあるまいかと思う。
そして奴隷商人に売り飛ばしたユダが、殺そうと語ったシメオン以上に悪者になっていく。家族の歯車も大きく逆回転し、とめどもなく最悪の事態へと動いていったのではあるまいか。この事件の後ユダは、家族から離れて、一人で暮らしている。なぜか。ヨセフを思い、悲しみに沈んでいる父親、お前が奴隷に売れと言ったではないか、という兄弟たちの無言の抑圧、そんなことで居心地が悪くなって、家を出た、というのは考えられることである。つまりユダもこの10数年というもの、本当に心責められる人生を歩まされたのではないか。ユダの説得は、口先ではなくて、自らの反省から出てきたものである。人間的にも人の悲しみがわかって成長したところから出たものである。その姿を見て、ヨセフも何か、心のうちに張り詰めていたものが崩れていくものを感じたのだろう。
 苦しみが意味をもたらすのはこんな時である。苦しみはそれ自体喜ばしいものではないし、生産性もなく、無為な時を過ごしているように思われるものだ。しかし、確実に魂を練り上げている。魂を形づくり、最終的に神の形を生み出そうとしている。その苦しみの意味が解き明かされ、苦しみの効果が表される瞬間がある。そういう意味では、無駄、無意味と思えるようなことも、厭わずに、淡々とこなしていくことも知恵である。良くても悪くても、今日も主の御心に沿った歩みがなせることを願いつつ、歩ませていただこう。

創世記43章

ヤコブは、ベニヤミンを行かせようとしなかった。結果的に、子どもたちがエジプトから持って来た穀物は食べ尽くされてしまった。再び穀物をエジプトへ買いに行く必要が生じた。しかし、エジプトでの食物の買い付けには、ベニヤミンが同行しなければならない条件があった。ベニヤミンを失うか、それとも食糧を得て生きながらえるのか、ヤコブの決断が迫られる。私たちの心にはどうしても物事に固執してしまうことがある。「なぜ、…私をひどいめに会わせるのか」と自分が可愛いためである。その結果、一層自分の身を危険にさらすことになったりする。しかし、救いを得るためには失わなければならないというのは真実である。
そこにユダが立ち上がっている。長いこと、分裂し、ヨセフは死んだと偽りで固めた生活を生きてきた兄弟たちの中に、一人、「私に責任を負わせてください」と、自らのことばと行動に責任を取ろうという堅い決意を示している。実に、今日の家族、会社、あらゆる共同体に必要なのは、このリーダーシップではなかろうか。働きをうまく進めなくては、と思い、あれこれすることはあっても、最終的な責任を取る覚悟がない。これがそもそもの問題である。組織を成長させよう、延ばそうと思ったら、犠牲は覚悟しなくてはならない。最後はこの自分が一切の負を背負う、と腹をくくるのでなければ、組織を動かすことはできない。組織が混迷するのは、地位や名誉にしがみつく者、役得を維持しようとする者が組織の実権を握る時である。しかし、真に覚悟を決めたリーダーシップは、組織の危機を救うことになる。ユダの腹を決めたことばにヤコブもまた動かされている。「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も失うときには、失うのだ」(14節)。 
クリスチャンは楽天主義者ではあるが、能天気な楽天主義者ではない。むしろしたたかな楽天主義者である。希望がないことは重々知っている。しかし、全能の神に対する信頼に基づいて、無に有が生み出される将来を望み見ている。「主の山の上には備えあり」(22:14)と結論した祖父のアブラハムの信仰の継承である。握りしめたものを手放さない限り、次のものを手にすることはできない。そして全能の神の御心にすべてを明け渡していく時に、私たちの思いもよらぬ結果が引き起こされるのである。実際神が描いたシナリオは、ヤコブの予測を遥かに超えるものであった。
10人の息子たちが末の弟ベニヤミンを連れて、再びエジプトに出かけて行った。彼らはヨセフの前に立った。彼らの知らぬところで、神のご計画が進み、ヨセフの心が動いている。19節、ヨセフの家の管理者の信仰にも注目させられる。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が~」そこにはヨセフの信仰を理解する管理者の姿がある。あるいは、この管理者自身もヨセフの信仰を受け入れていたのかもしれない。リーダーシップの重要な役割は、ただ、難局のかじ取りをすることではない。難局に対処しうるのは、日々の積み重ねであることを自らの姿勢によって示していくことにある。日々、確実に一歩一歩、しっかりと物事を進めていくその姿に、人々は影響されるのである。
「わが子よ。神があなたを恵まれるように」(29節)。簡単な一言であるが、ヨセフの生涯を凝縮したことばである。神の恵みによって彼は助けられ、生きながらえたのである。同じように、神の恵みにしっかり日々より頼む訓練が積み重ねられているのかどうか、それが身体から滲み出、自然に周囲に理解されるほどになっているのかどうか。いつでも、神のものは神に返す、何も持たない者でありすべては主の恵みである、と身軽になって、主に堅く信頼した歩みをさせていただきたい。

創世記42章

 パレスチナの飢饉は、神の御計画であった。一見、一個人の人間とはなんら関係がなさそうに思える自然現象や社会変動が、極めて個人的な生活に関わる、神の計画として語られる。スケールの大きな話であるが、神がそのように人の人生に関わってくださるお方であることを覚える時に、一種の安堵がある。というのも、今日家族の複雑な問題は、家族の誰かが変われば解決するという問題ではない。家族の問題解決のために問題を引き起こす犯人捜しが行われ、犯人が矯正されていくようなやり方で物事が解決することはまずない。というのも家族の問題は、家族内だけの問題によるのではないからだ。それは複雑に社会の問題とも絡み合っている。そういう意味で、社会が動かされることによって、家族が変わらざるを得ないということがあったりするのだ。
エジプトの飢饉はパレスチナをも巻き込み、穀物不足を生み出し、ヤコブの家族がヨセフに会わざるを得ない状況を作り出した。しかし、すでに約20年の歳月が流れていたことだろう。ヨセフは、もはや父にとっては死んだ過去の人であり、兄弟たちにとっても実質的には遠い昔に死んでしまったと思われる存在になっていた。そんなヨセフが兄弟たちと再会する。ヨセフは、ひれ伏す兄弟たちを見下ろしながら、かつての夢を思い出したことであろう(37:6-11)。兄弟たちはヨセフの夢をあざ笑い、潰そうとしたが、それが神から出たものであったが故に、夢は予告されたとおりのものとなった。
ヨセフは、兄弟たちが気づかぬことをいいことに、荒々しく振舞っている。スパイ扱いすらした。それは、ヨセフの復讐心もあったからだろう。しかしヨセフは神の人である。ヨセフは、かつての夢を思い起こしながら、単に家族の拝礼を受けること以上に、そこに家族がもう一度一つにされるという神の回復のメッセージを受け止めるところもあったのだろう。ヨセフの夢は、アブラハムが神に「地上のすべての民族はあなたによって祝福される」と言われたことに通じるのである。ヨセフによって家族が回復され一つとされ、祝福される、ということである。日本には、家族に問題を引き起こす子どもを「宝息子」と呼ぶ習慣があったという。問題児ではなく、宝息子、家族を一つにし、家族にさらによい絆をもたらす息子というわけである。問題を起こす子であれ、そうでない子であれ、私たちから祝福が及ぶというビジョンを持つことは大切である。実に、私たちはその夢を受け継ぐ者である。私たちによって家族が、近隣が、職場が回復され祝福を受けていくことを覚えて歩ませていただきたいところだろう。
ヨセフが彼らのことばを理解しているとも知らず、兄弟たちは、昔の事件について語り始める。事の真相が明らかにされた(22節)。皆が敵だったのではない。少なくとも長子のルベンは彼を守ろうとしていた。しかしできなかったという。ヨセフは心を動かされたが、そこですぐに心を開いて、「私はヨセフです」と告白するまでには至らなかった。
むしろ暴君のように、シメオンを人質にし、弟のベニヤミンを連れてくるように言い渡し、兄弟をカナンに帰すのである。ヨセフの複雑な思いがそうさせたのかもしれない。ヨセフは長子をマナセと名づけた。マナセが誕生したことで、「神がすべての労苦と父の全家とを忘れさせた」からである。兄弟たちから受けた苦しみ、そしてエジプトでの濡れ衣や投獄など、様々な苦しみを忘れさせてくださったということだ。また、後ろ向きに家族を回顧して生きていたその姿勢に踏ん切りがついたということだ。しかし、実際には、そう思っていただけで、心の奥底にはまだ苦しみが火種のように残っていたのである。一方、ヨセフは、この機会に夢で見たように、もう一度家族と一つになろうという思いを抱いたのだろう。
ヨセフは、エジプトの大臣になり、ゆとりを持ち、いつでも自分の家に帰ろうと思えば帰れたはずである。そうしなかったのは、ヨセフが、兄弟たちを赦せなかったこともあろう。そのような事件を引き起こした父の教育を苦々しく思い、父をも赦せないでいたためかもしれない。家族との関係が明らかになり、その評価次第ではせっかく手に入れた幸せが失われる心配もあったのかもしれない。理由が何であるにせよ、これまでのヨセフは動かずにいた。そんなヨセフが動き出した。いや神が力強い御手をもってヨセフを動かしていく。私たちの思いを超えて、私たちの行動を導く、そんな神がいる。私たちが閉じこもろうものならば、そこから引きずり出す神がいる。奴隷から囚人へ、そして大臣へ、さらに一家族の一兄弟へ、いったい誰がこんなヨセフの人生を予測できたことであろうか。神が一人ひとりに持っておられる計画も実は同じである。今日も神の深い計画と導きを覚えて歩ませていただこう。

創世記41章

献酌官長がヨセフを忘れてから二年が経った。しかし、人が忘れても、神がお忘れになることはない。神はご自身の計画を、すべてみこころのままに成し遂げられる。神はパロに、一つの夢を見させた(エジプトの王はパロと呼ぶが、本来パロは「大きな家」という意味であり、大邸宅に住む者を指していた)。
第一の夢は、醜いやせ細った七頭の雌牛が、つやつやした、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くすものである。第二の夢は、東風に焼けた、しなびた七つの穂が、肥えて豊かな七つの穂をのみこんでしまうものである。目が覚めたパロは、心落ち着かず、朝になって、エジプト中の呪法師と知恵のある者たちを呼び寄せた。もともと呪法師は、「鉄筆をふるう者」「刻む者」「書く者」の意味である。そこから「知識を持つ者」を表すようになった。もちろん知識とは、呪術、占星、魔術などであり、それらによって個人や国の将来や運命を告げるのである。しかし、彼らは自分たちの知識をもってしても、パロの夢を解き明かすことはできない。そこで、献酌官長がかつて夢を解き明かしたヨセフのことを思い出し、パロに伝えた。神が定めた時が来た。監獄からヨセフが呼び出されていく。
 「夢を見る者」という蔑称は、直訳すれば「夢の主」である。ヨセフは今夢を自由に解き明かす者としてパロの前に立つ。そしてヨセフには弁えがあった。「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです」と、謙虚にこれが自分の学んだ知識や知恵によるものではなく、神が解き明かされた秘密であることを語り伝えている。そして神のなさろうとしていることに応答するように呼び掛けている。エジプトに七年間の豊作があり、その後七年間の飢饉が続く、だからこの、飢饉に備えて食物をたくわえるように進言した。常に時代を導くのは神である。その神に応答することが大切なのだ。ヨセフの解き明かしは、パロとすべての家臣を納得させた。パロは、即座にヨセフを大臣として抜擢していく。おそらく、ヨセフは、特任大臣として、いわゆる大臣の一人として抜擢されたのであろう。
ヨセフにつけられたエジプト名ツァフェナテ・パネアハは、「世の救い主」を意味する。パロはヨセフにエジプト全土を支配させた。オン(あるいヘリオポリス)はカイロの北方16キロ、現在のテル・ホスンとされ、歴史的に重要な町である。祭司の学校、医学の学校などがあり、エジプト文明の中心地である。後のモーセもまたこのヘリオポリスで教育を受け祭司になったと考えられている。ヨセフはこの町の祭司ポテペラの娘アセナテと結婚した。こうしてヨセフの名はエジプト中に知れ渡った。すでに彼は、30歳となっていた。
なおヨセフが大臣として仕えたパロの名は、よくわかっていない。多くの学者は、第15王朝のヒクソス時代の王であろうと推測している。実際、パロが、ヨセフの家族に定住を許可したゴシェンの地の近くに住んでいたことは、首都がデルタ地方にあったヒクソス朝の時代を暗示するものである。またセム人であるヨセフが重要な地位についたのも、王が純粋なエジプト人でなかったためと考えられている。ただしベニ・ハサン碑文に、セム人がエジプトでよく知られていることが示されているようにヨセフがそれ以前の時代にエジプトに下ったとする説もある。事実、羊を飼う者たちがエジプト人に忌み嫌われていたこと(46:34)、またヘブル人とは一緒に食事ができなかったこと(43:32)などの習慣は、パロが純粋なエジプト人であったことを示唆している。ただしヒクソスが征服民の習慣を踏襲したということも考えられるので、断言しうるわけではない。
ともあれ神のヨセフに対するお取り扱いをよく考えたい。神は私たちを困難という炉で鍛え、新しい責任へと召しだしてくださる。苦難にあってもあわてずに神を信頼し続けることが大切である。すぐに結論を出すのではなく、神の時が熟するまでに、神の最善に期待していく、そうしてこそ主の祝福にも与ることになる。

創世記40章

 なぜヨセフは、ヤコブに愛されたのだろうか。聖書は年寄り子だからと書いているが、そればかりではあるまい。そもそもヤコブは、子どもの中でヨセフが一番自分に近い感覚を持っているように感じていたのではないだろうか。怒りに任せて剣を持ち出すレビやシメオンは明らかに自分とは異なった感覚に生きている子どもであったが、ヨセフは「夢を見る者」であった。ヤコブも夢によって神に人生を導かれてきている。神はヨセフと共にあると思うところがあったのだろう。だからヨセフを一層愛したと言える。
ともあれ、子どものうち誰よりも愛され、「箱入り娘」であるかのように育てられたヨセフが、「奴隷」とされていく。その生活変化はあまりにも大きく、ヨセフの失ったものは多かった。無一文でエジプトに引き連れられてきて、もはや自分の好きな人生を生きる自由は全くなかった。ただひたすら主人の意思に服従するだけの人生である。ことばを始め、食べ物、着る物、習慣や文化の違う社会に順応していかなくてはならなかった。もはや誰も父ヤコブのようにかわいがってくれる者はいない。大きな顔をさせてくれる者も、失敗を大目に見てくれる者もいない。兄を恨んでも、父ヤコブの助けに望みを託しても、無駄である。そんな中で、ヨセフもまた、父ヤコブに聞かされたであろうベテルの神を呼び求めるように導かれたのではあるまいか。かつてのヤコブがそうであったように、目に見えぬ神のみに、ただ望みを置く生活へと導かれていく。それは孤独で苦しみの時ではあったが、神に近づき、自分と共にあり、自分を愛し祝福する神を知り、喜ぶ貴重な時であった。
 事実神はヨセフを見捨てられなかった。監獄にあっても「主が彼とともにおられた」とあるように、神は、ヨセフを守り、その手の業を祝されたのである。
 だがそれにしても、奴隷から囚人へ、という転落に告ぐ転落の苦難は耐えがたいものがあったことだろう。しかも40章で注目されることは、ヨセフが監獄の中の管理者から(39:22)、仕える者に立場が変更されていることである(4節)。ヨセフの状況は悪くなる一方であった。小さな助けに一喜一憂し、主の救いはこの時か、あの時か、いつまで主の救いを待てばよいのか、と焦燥しつつ、半ば諦めの思いにもなっていたことであろう。
そんな折に、王の献酌官長と調理官長が罪を犯し、監獄に入れられてきた。献酌官は、王に酌をする官吏であり、王を陰謀から守る護衛である。侍従長は、ヨセフを彼らの付き人とした。侍従長は、まだポティファルで、事件の後も変わらずつながっていたようである。おそらく、ヨセフに対する信頼が幾分回復させられていたのであろう。ともあれ、監獄に入れられた二人は夢を見た。そして、彼らの夢はヨセフによって説き明かされた。「夢を解き明かすことは神のなさること」と神に栄光を帰すヨセフの信仰の姿勢が証しされる。
 またこの機会を、ヨセフは自分の救いの時と考えたようである。献酌官長にヨセフが訴えている(14節)。ヨセフの感情が強く感じられるところである。しかし、神の助けは私たちの思いのよらぬ時に展開してくる。神の時はまだ先であった。だからヨセフは、その一筋の期待を見事に裏切られてしまう。しかし、人が忘れようと、人に放り出されようと、神は忘れられることはない。神はご自身の計画を必ず成し遂げられる。自分の願うところではなく、ただ、はかりがたい神の深い御心に服従させられる時がある。それは、人間的なものを一切頼まず、ただ神のみに信頼することを学ぶ、貴重な時である。
ヘブルの著者は語った。「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(10:36)またヤコブも語った。「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(1:4)神の救いが遅れると思うような時に、あるいは、自分には何も望みがないと思わされるような時にこそ、忍耐に忍耐を重ねてみよう。それは、確実に結果を生み出す、信仰の修練の時であるからだ。神の救いは思いも寄らぬ時、思いも寄らぬ所から生じてくるのである。