申命記8章

申命記8章 荒野での訓練と教訓
<要約>
皆さんおはようございます。私たちはある家庭に生まれさせられ、職場に置かれるものです。しかしそれらは全て神のご計画の中にあり、荒野を過ぎると思うことがあっても、神がそこで養われてきたことを覚えなくてはなりません。そして神はさらに先の祝福へ導こうとされるお方です。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
(2)荒野での訓練と教訓
①神の真実(1-10節)
主はイスラエルの民に、ご自分の命令を守るべきこと、そこに約束の実現があること、さらに、荒野の40年の苦しみを覚えておくべきことを語る。過去の恵みを正しい意味においてすることの大切さがある。ただ単に古き良き時代を感傷的に回顧するのではなく、自動車のバックミラーを見るように正しく前進するための回顧の重要性がある。しかもここで回顧すべきは、神に世話をされた40年の荒野の生活である。出エジプトという素晴らしい出来事(5:15,6:21)ではなく、その後の荒野での苦難の旅路、思い返したくないような40年間であることに注意すべきだろう。過去の苦しみも、泣きたかったことも回顧する。それができる時、本当の恵みがなんであるかが分かる。
つまり、イスラエルを幸せにする目的をもって、実際に連れ出し(14節)、通らせ(15節)、食べさせ(16節)ながら約束の地へと導き入れようとした神の存在がある。神は、天高き玉座からただ私たちを見下ろし、正義の目を光らせているお方ではない。私たちに様々な人生を通らせながらも、その生活を守り、私たちを幸せへと導くためにこの地上の生涯に愛をもって積極的に関わってくださっている。私たちが、この神の配慮を感じることができなかったら、全く目に見えるこの地上の営みに一喜一憂して一生を終えてしまうことになるだろう。苦しい時は、なぜこうなったのか、と頭を抱えて悩むだけである。しかし、神の目的はその先にあり、それは、イスラエルにとって、エドム、アンモンを通らねばならなかったように、先に進むためにどうしても通らねばならぬ道であり、神のご計画の中にあるのだ、と信仰的に考えることができれば、そのような問題も小脇に抱えて進むことができる。神は、目的を持って、私たちをある家族に生まれさせ、学校に所属させ、仕事に就かせ、家族を与えられ、と人生を導かれるお方なのだ(5節)。荒野の40年間は決して無駄にはならないのであって、黙って、望みなきところで、望みを抱いて、黙々と神を信頼してついていくことが大切なのである。
②高慢と忘れることへの警告(11-20節)
かつてイザヤは語った。「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(53:7)神のみこころに黙して従うイエスに、復活と昇天の勝利が帰せられたように、このままでは自分がダメになるかもしれないと思う状況にあっても、なおも「通らされる」神の時を待ち望んでいくことが大切なのである。自分から入るのではない、導き入れられるのだ。この違いは重要である。
 神は言う。「全行程を覚えていなければならない」神が通らされた荒野の生活の一部ではない。順調の時も逆境の時も全ての行程を、と言う。物事の一部だけを見ていたら、神の恵みがわからないでいるものだろう。しかし、私たちが導きだされた時から今に至るまでの流れを一つ一つ辿って行けば、神が私たちの着物を擦切らせず、また足をはれさせなかったことは思い出され、それらの苦しみ、試みが、ついに私たちを幸せにするためであったことを(16節)理解することができる。
大切なのは、神の祝福が確実である時に、その祝福に対する心構えをしっかりと持つことである。「あなたは心のうちで、「私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えるのは、あなたの父祖たちに誓った契約を今日のように果たされるためである(17,18)。
神様を信じる自分の努力が報われたという考えではいけない(17節)。むしろ、命がけで生活に励み、汗を流して仕事に努力し、コツコツと勉学に励み、祝福され、恵まれ、成功しても、自慢しないで、自分ではなく、神がしてくださったのだ、と言い切る生き方。しながら、しない、という生き方。神がさせてくださったという生き方。これが主を心に据えた生き方である。
キリストに対する約束の故に、私たちの祝福は実現する。私たちの何かによってそれがもたらされたのではなく、主の約束、契約の故に、である。となれば、その祝福を神からのものとしてしっかり受け止めていく心構えが大切なのだ。主の祝福に預かった時には、いつでも主に対して感謝し、主の栄光をたたえなくてはいけない。主あっての私たちであることを、すべてが神にかかっていることを覚えて神に栄誉を帰す者でなくてはならない。そうでなければ、神はその祝福を取り消すこともできると警告されている(19、20節)。主の恩を忘れずに、しっかりと主の祝福を受けて歩む者でありたいものだ。主は「通らされる」神なのである。回想し、感謝し、帰神することを、私たちの常としよう。

申命記7章

申命記7章 カナン征服、聖戦への召し
<要約>
皆さんおはようございます。神は、私たちに多くのチャレンジを与えられるものです。その時、私たちは恐れ退くのではなく、神が助け、神の業として全ての祝福が私たちに実現するように、神の愛と誓いを信頼し、チャレンジを受けて立たなくてはなりません。神の愛に生きるということは、神の与えられたチャレンジにも応答していくとなのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

既に、イスラエルの民は、十戒を与えられ(5章)、それを遵守するように教えられた(6章)。神がイスラエルに示された救いとあわれみを覚えるならば、イスラエルの民がこれに従うことは自然なことであった。続いて神は、イスラエルがカナンの人々に対して、また彼らの礼拝場所と祭儀の対象に対して、どのような態度を取るべきかを明らかにしていく(7章)。
5)教えへの応答
(1)聖なる民イスラエルと異邦の民
①異邦の民に対する聖なる民とされた者の態度(1-5節)
ヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人、これら七つの民は、約束の民に与えられた土地を不法に占拠して来た者たちである(1節)。彼らはまことの神を認めず、他の神々に仕えていた。そこに聖戦を実行する根拠があった。神は、彼らを追い払い、聖絶し、偶像は徹底して打壊すように、と命じられる。神の命令による聖戦は、いわゆる近代の集団虐殺とは違う面がある。それは邪悪な諸国の民に対する神の裁きであった。だからその戦いの特徴は、まず自分たちよりも「数多くまた強い」民に対するものであった。つまり力のある者が弱い者を蹂躙するものではない、神の加勢があればこそ勝てる、神風が吹いたことが明らかにわかるものだった。だから、戦利品は主のものであり、戦勝によってこれを自分たちの思うままにすることもできなかった。表面的には、近年のジェノサイドのようにも思われるが、それは全く違うものであったことを理解する必要がある。
②聖なる民にされたことの理由(7:6-11)
他方「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。」(6節)と神はイスラエルに向かって語りかけ、これらの異邦の民とは区別された民として、妥協せず、特権的な立場を放棄してはいけない、と命じる。そういう意味では今日のキリスト者も同じだろう。神が選び、ご自分の御子の犠牲によってご自分の子とし、聖別してくださった者なのだから、その生活にも、関係にも十分注意しなければならない。
ただそこで神が私たちを選んでくださった理由を心に留めることが重要なのだ。それは、「あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない」と言う。神がイスラエルを選ばれたのは、イスラエルが偉大な文化、名声、あるいは特別な価値や、見所があったわけではない。むしろ、「主があなたがたを愛されたから」(8節)である。7節、「主があなたがたを慕い」の慕いは、ヘブル語でハーシャク、通常は「人が異性を慕う」意味で用いられることばであるが、ここでは、擬人的に神が人を恋い慕う意味で用いられている。神の選びは、神の愛の神秘の内にある。そしてこのようにイスラエルに対する主の愛がはっきり告白されるのは、モーセ五書の中では申命記のみである。さらに「あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから」(8節)とある。神がアブラハム、イサク、ヤコブに誓ったことは、それから400年以上も後の世代にも有効であった。神は父祖を愛し、その父祖たちとの親交を忘れず、無骨で忠義な家臣のように、父祖に対する誓いをその子孫にも守ろうとする。こうして神の愛は、さらに誓いによって確実なものとされている。今日の私たちにあてはめるならば、イエスの十字架が、神の私たちに対する絶対的な愛であり誓いなのだ。それは2000年以上経った今でもまだ有効なのである。
③聖なる民の祝福(12-16)
となれば、私たちが神の祝福を受けるために、もはや背伸びをする必要はない。神が一方的に意志されていることなのだから。求められていることは、神に愛され祝福を受けた者としてふさわしく歩むことである。順序を間違えてはいけない。神に気に入られる歩みをするから祝されるわけではない。神が愛してくださっていることに気づいて、それに応答するなら、それは、神に従順な歩みとなるのだし、また神に気に入られることにもなるのである。こうして神は、私たちを物質的な意味で祝し(13節)、家族も祝され(14節)、病からも守ってくださる(15節)。
③聖なる民への勧め(17-26節)
そこで再び、聖戦への励ましが語られる。イスラエルの民にとって敵は、自分たちよりも「数多くまた強い民」である。当然そこには計り知れない恐怖、無力さが起こりうる。しかし、神は言う「彼らを恐れてはならない」かつてエジプトで神が解放してくださった時のことを思い出せ、という(18-19)。また、神は恐るべき敵、乗り越え難き障壁を取り除いてくださる、という(20節)。恐れるべきは神のみであり、神の大いなる力を覚えよ、という。何事においてもどんな困難も、どんな障害も、恐れてはならない。むしろ、神の愛と誓いを信頼して、祈り続け、神の機会を待つことだろう。そして神の戦いであるとわかるような戦い方をすることなのだろう。
信仰を持つということは、逆転の人生を生きることである。神よ、大いに私たちを祝福してください。私たちに主の恵みを施して下さい。私たちを豊かにし、私たちの家族を守り、病をいやしてください、そして、私たちに勝利をもたらしてください、と祈り、その神の助けを得ていくことである。実際、最終的に神の奇跡がなければ、どうしようもないことがあるものだ。今日も、神を信頼し、神の助けを祈り求めることにしよう。

申命記6章

申命記6章 シェマー
<要約>
皆さんおはようございます。イスラエル人にはシェマーとして愛されている、箇所を学びます。その基本は、ただお一人の神を愛し、神の言葉を大事にし、その信仰を子々孫々に伝えることにあります。大切なのは、神を単純に信じる者を超えて、愛する者になることでしょう。それは神を人格的な存在として認めればこそ育ちうる心です。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

4)教えへの態度
 イスラエルのホテルに行くと、ユダヤ人が経営しているホテルでは、各部屋の入口に、メズーザ―と呼ばれる小さな長細い小箱のようなものが取り付けられている。敬虔なユダヤ人は、家の出入りの度にこれに触れて口づけし祈るのだと言う。そこで、一つ土産に買ったところ、後で友人がその小箱の中には羊皮紙に書かれた、シェマー・イスラエールの文章を入れておくのだ、と言い、わざわざ送ってくれたことがある。小さな羊皮紙に小さなヘブル語でびっしり書かれていたのが、まさにこの民数記6:4-9、と11:13-21であった。
(1)み教えを守る(6:1-10)
4節は、一般に「シェマー」と呼ばれている教えで、敬虔なユダヤ人は、一日に幾度となく、この主の教えを繰り返し聴くことを務めとした。その第一に「主はただおひとりである」と述べられている。この世に多くの神がいるようでありながら、拝すべき神はただお一人、従うべき神はただお一人と認めることである(4節)。そして第二にその神を、「心をつくし、精神を尽くし、力を尽くして」愛しなさい、と教えられる(5節)。イエスはこの教えを第一の大切な戒めとした。神を信じるに終わらず、神を愛するのだ。というのも神は人格的な存在であり、私たちとの関わりの中で、悲しみもし、喜びもする。そういう意味では、神をただ信じている信仰者と神を愛している信仰者ではそのあり方が異なっている。神を信じているだけの信仰者は、生活の軸は結局相変わらず自分にあることが多い。そのような人は意図があって信じているのであり、しばしば信仰は取引に過ぎない。しかし神を愛している信仰者の生活の軸は神にある。ただ神の存在を喜び、神と共にあることを楽しみ、神と共に生きることを願っている。だから、礼拝を守るのではなく、礼拝をささげる姿勢が違う。献金を支払うのではなく、献金を心から献げる。神の言葉を学ぶのではなく、親しい友からの手紙のように心で味わい、そのことばを受け止めていく。神に愛されていることを覚え、その愛の中に、また神の愛に応答して生きている。だから第三に神のことばを一つ一つ大事にしながら生きることになる。祝福に満たされている時も、逆境で苦しんでいる時も、主のことばが支えであり、主と共に生き抜いていくのである(6節)。そうであればこそ、第四に信仰を継承させていきたい思いが自然に生じることだろう(7節)。神の愛は、家族にも分かち与えたい財産である。神と共にあることは、実に豊かな富みに勝る祝福で、人が夢中になるべきものがある。
(2)み教えを忘れない(6:10-19)
そこで、まず思い起こすべきことが数え上げられる。信仰においては、神が過去において示された哀れみと救いの行為を思い出すことが基本である。「私たちはエジプトでファラオの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された」(21節)。偉大な恵みを忘れてはならない。神が私たちに何事をなしてくださったかを心に銘記するのである。まずは、自らが配慮された事実があるからこそ、人にも配慮していくことができる。私たち一人一人が救いの証を大事にしなくてはならない。「自分が建てなかった」(10節)、「自分が満たさなかった」(11節)恵みを豊かに受けたという経験を決して忘れてはいけない。それがあっての十戒への従順があり、信仰継承の思いがある。神に従うことは重荷とはならない。自らが神の言葉に喜び、神の愛に支えられたが故に、神への従順も生じるのであり、信仰継承も喜びの業となる。
(3)契約の信仰を伝える(6:20-25)
日本のようなキリスト教がマイナーな世界で、毎週礼拝に通う敬虔的な信仰を持った親の子どもは、いずれ、なぜ自分の親は、「宗教」に熱心なのか、と考えるようになるだろう。そして自分たちが、他の子ども達とは違う特殊な環境にあることを感じるようになるだろう。人それぞれの生き方があるとまだよくわからない世代においては、それは、他の子ども達とは違う人生を強いられる感のあるストレスな環境であったりする。そうであればこそ、なぜ神を自分が信じたか、神がどんな大きなあわれみを示してくださったかを、今ある生活の恵みは主のおかげであることを、よく語り伝えることが大事なのである。信仰の継承は、自らの経験に基づく、これが基本である。ただ同じ信仰に立つように教えるのではなくて、自らどのようにその信仰に導かれ、支えられ、また励まされて生きているかを、優しく語り伝えることが大切なのだ。確かに人づくりは自分自身が持っているものの伝達だ。そのようにして育てられた者がまた同じように育てていく力のある人になる。それは、「いつまでも私たちが幸せになり、私たちが生かされるためである」という目的に沿っていく。子々孫々の幸せを願い、主を恐れ、主を愛するように教えていくことにしよう。

申命記5章

申命記5章 授けられた十のことばの振り返り
<要約>
皆さんおはようございます。新しい世代に十のことば(十戒)が繰り返されます。それは、守るべき規則というよりも、愛されるべき神の価値観でありことばです。神に、大きな恵みをいただいた、という事実に立つ者であれば、それがわかることでしょう。神の恵みを覚え、神の十のことばに従う、そのような歩みを今日も導いていただくこととしましょう。今日も主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

3)授けられた十のことばの振り返り
(1)契約(5:1-3)
 旧約聖書信仰の中心は、シナイ契約と十のことば(十戒)にある。なぜ、聖書を読むのか、それは私たちを滅びの中から救い出してくださった、神との契約の故である。その契約は、かつての古い世代と交わされたものでありながら、新しい世代においても、またこれから後の世代においても有効である。実際このモーセのことばに耳を傾けたのは、シナイ契約を受け取った世代ではない、その次の世代、いわば新しい世代の人々であった。なのにモーセは強調する。「主はこの契約を私たちの先祖と結ばれたのではなく、今日ここに生きている私たち一人ひとりと結ばれた」(5:3)と。神は十把一絡げにイスラエルの民と契約を交わしたのではなく、イスラエルの民「一人一人」個別に向かい合って、各人の心に向けて語られ、契約を結ばれた。そしてその契約は、幾世代にもわたって、神との個人的な関係で繰り返し受け継がれていくのである。
その契約関係にあって、私たちの新しい生活の規範として、十のことばが与えられている。「聞け、イスラエルよ。今日、私があなたがたの耳に語る掟と定めを。これを学び、守り行いなさい」(申命5:1)その目的ははっきりとしている、救い出された私たちが神の民となるためである。大事なことは、神は、ただ自らのおきてと戒めを押し付けられる方ではないことだ。むしろ、交わされた契約については、自らもその契約を守られる。そこで、私たちが神の命令に従うなら、「あなたがたが生き、幸せになり、あなたがたが所有するその地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」(33節)とあるように、神も私たちを幸せにする義務を守られる。ここが押さえられていないと、やはり、神を漠然と信じるだけの人生になってしまう。しかし、漠然と神に期待し、神を信じている者らしく振る舞うだけの人生であってはならない。確かに神が、私たち一人一人と向かい合っておられ、私たちを祝福し、幸せにしてくださる、という深い確信のもとに、その祝福に与りながら、あるいは理解しながら生きていくことだろう。私たち一人一人と関わろうとされておられる神に、自らの心を向けていく、そして自分に対するおきてと定めを聞いていくことが大切なのだ。
(2)十のことば(5:4-21)
6節からは、基本的に出エジプト20:1-17の十のことばの再録である。まず前文が大切で、出エジプトの恵みに基づいて、神の戒めが語られる。先行する恵みがあるために、私たちは戒めに従っていく。神に何かいただけるから、神に幸せにしていただけるから従う、というのではなく、既に大きな恵みをいただいる、という過去の事実に基づいて従っていくのである。パウロも、「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」(ガラテヤ5:1)と語っている。救いの事実に基づいて、神の戒めを受け入れて生きるのだ。
しかしそうではあっても、やはり私たちの心の中には、神に従いたくない心があったりするものだ。かつてのように全面的に罪を楽しむよりも、ひそかな罪の楽しみの余韻を捨てきれないでいたりする。そのようなものを断ち切ることには勇気を要するものだろう。しかし、神が私たちにどんな深い恵みを現してくださったか、とまず覚えたいところではないか。神がまず私たちに大きな恵みを注いでくださった、だから十のことばがある、と。
そして十のことばは、神の民が大きな二つの義務を持つことを伝えている。神に対する義務と、人に対する義務である。縦の関係と横の関係双方において健康的に従順であることが、求められている。そして神に対する義務ということからすれば、神の主権を認めること、神の権威に従うことであるし、人に対する義務ということにおいては、人のいのち、財産、評判、関係を守ることが教えられている。これら十のことばは、守られるべき規則というよりも、愛し、魂に浸透させるべき、神の価値観であり言葉である。
(3)十のことばへのイスラエルの反応(22-27)
 かつてシナイの山で、神の御声を直接聞いたイスラエルの民は、さらなる神のおきてと定めを、モーセが代わって聞くことを願った。また、神はそれを認め、神がモーセによって伝えられる神の言葉に聞き従うことを願った。それは、「彼らもその子孫も永久に幸せになる」(29節)ため、「所有するその地で、あなたの日々が長く続くようになるため」(33節)である。神は、私たちに新しい生活の指針を示しておられる。古い生活から救い出されて、新しい人生を歩もうとするのなら、まず地道ではあっても、主のみ教えによく耳を傾けることであろう。そして分かったつもりにならず、謙虚に、幸せの人生の秘訣を、教え続けられることである。私たちを救い出してくださった主が、導かれる人生を進んで行きたいものである。

申命記4章

申命記4章 神を認め神に従うことの勧め
<要約>
皆さんおはようございます。申命記は新しい律法ではなく、これから約束の地に入ろうとしている、荒野で育った新しい世代に対する、古い律法の再述です。彼らもまた、古い世代が受け止めた律法の精神を理解しなくてはならなかったのです。しかし何よりも大事なこととして教えられているのは、律法を覚えると同時に、律法を行う力のない罪人の無力さを覚えて、謙虚に神のあわれみによりすがる心を持つことです。今日も主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

3.教え
1)み教えの目的とその価値(1-8節)
1-3:29まで、出エジプト後の40年の歴史を回顧した後、モーセは、ヨシュアと民を新しい地に送り出すために、その歴史を踏まえて、まず「おきてと定め」に対して従順であるように、と勧めている(1-40節)。「聞き、それらを行いなさい」(1節)「守り行いなさい」(5節)とあるように。「おきてと定め」に聞き従うなら、約束の国で長く幸せに生きることができる、また、自らの知恵と悟りを示すことになる、と言う。モーセは、荒野で成長した新しい世代に対して、カナンに入る前に律法を反復し説明する必要を感じ、再びこれを語ろうとする。申命記は、新しい律法を教えているのではない。それは既に与えられているものの復唱である。
そこで3節、戒めのためにバアル・ペオルがあげられる。イスラエルの新しい民の新しい出発を挫いた事件で、それは、イスラエルの民が、敵の呪いによらず、自ら正しい道を外れ堕落したこと、呪われるべきことを行ったことに注意を向けるものである。イスラエルはモアブに誘惑され、神から心を引き離される偶像崇拝の罪を犯した。そのエピソードの本質的な教訓は、どんなに高く素晴らしい教えがあっても、それを唱えているだけではだめで、私たちの堕落した性質が、その教えを行う力のないことを覚える謙虚さをもって、主の十字架にある罪の赦しと聖めにすがり続け、主の高さに導いてもらうことを願いつつ、行いが実ることを心がけることにある。主がそのみ業をなしてくださる、と主にすがりつづける信頼の歩みを大事にすることである。
そうすれば、私たちは、神の祝福と、神に信頼する素晴らしさを証しすることになる(6節)。私たちは神を愛し、信じ、従う民として、神の祝福を世の人々に示すばかりではない。私たちがいかに神にあって知恵ある者であるか、を示すことにもなる(8節)。
2)偶像礼拝の禁止(9-24節)
 そこで、「おきてと定め」の第一として、バアル・ペオルの教訓である自分自身に十分に気を付け、偶像礼拝に陥ることのないようにと教えられる(11,15節)。イスラエルの民は、神の山ホレブで、語りかける神の「声を聞いたが、御姿は見なかった(12節)」、主がホレブで火の中からあなたがたに語られた日に「何の姿も見なかった」(15節)。その体験を一生忘れてはならない、とされる。神は存在しつつも無形のお方である。だから、どんな形の彫像も作ってはいけない、とされる。地上にあるどんな形に似せてもいけない、と。エジプトには、雄羊やわになどの形をした神々、空を飛ぶたかの頭をもった神々、また太陽神ラーや月神、その他ありとあらゆる形を持った神がいた。それは、日本も同じである。日本にも様々な形に彫られ、刻まれたものが神々として拝まれている。それらは、形こそあっても、実態があるわけではない。見ることも、聞く事も、食べることも、かぐこともできないただのモノである。命を持っているわけではない。しかし、まことの神は、霊であり、目に見ることはできないが、確かに臨在されるお方なのであり、そのお方を覚えて恐れなくてはならない。そして霊とまことをもって礼拝しなくてはならない。
実際、神は、私たちを「鉄の炉」エジプトから導き出したお方である。神は、私たちを滅びの中より救いだされたお方である。だからこそ、その神を認め、その神に従う関係が生じるのである。神のあわれみを経験する、それが信仰の出発点である。
3)契約を破った時、あわれみ深い神を覚える(25-31節)
 だが、私たちの信仰生活はしばしば順風漫歩ではない。罪人の私たちにとって、主の目に悪を行い、御怒りを引き起こすことが多々あることは免れ得ない。神はそのような私を裁かれるだろう。だが、そこから「主を探し求め、心を尽くし、いのちを尽くして求める時、あなたは主にお会いする」(29節)と神は約束される。神は目に見えないお方ではあるが、無機質な存在ではなく、愛情豊かなお方である。自ら、ご自身を「ねたむ神」であるとも言う。ねたみは、人間の心の奥に生じる最も人間的な感情である。神は、私たちに対する熱い思いをもっておられる。深く私たちを愛しておられる。つまり、神は私たちを愛と憐れみを持って、救い出されるだけではなく「あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない」(31節)情の深さを持ったお方である。神は単に霊的な超絶したお方ではなく、人格を持った存在であることを、私たちは忘れてはならない。
4)神への忠誠の勧め(32-40)
その神のことばに、私たちは日々、向かい合って生きていくことが大切なのだ。ただ、聖書を学ぶのではない。教えられるのではない。人格的存在なのだから、まさに神と良き時を過ごすのである。「心をつくし、精神を尽くして」(29節)というのは、「全身全霊をもって」という意味ではない「全心、全霊をもって」である。天にも地にも、他におられない、唯一の生ける神に向かい合って、このお方以外に神はいない、主だけが神である、と真摯に神のことばを受けとめながら生きていくところに、私たちの歩みがある。神が人間に求めておられることは、品行方正に生きることでも、極めてストイックに生きることでもない。ただ、主の偉大さとその御業を覚え、主の契約を握りしめ、主に寄りすがり続けること、神を認め、神の約束に信頼しつつそれに相応しい歩みを願うことにある。
5)ヨルダン東側の逃れの町(41-43)
民数記35:9-15、ヨシュア20:1-9と並行した記事である。哀れみ深い神の意志が、「逃れの町」の制定に現れている。故意にではなく、誤って失敗をした者の基本的人格が守られるために、逃れの町が定められる。本当のあわれみは人間の意思と人命とを大切にすることを良く示している、と言えるだろう。