1サムエル記22章

22章 長となったダビデ

<要約>
おはようございます。ダビデの逃避行が始まります。しかし、ダビデは一人ではありませんでした。ダビデに組する者たちが集まり始めるのです。それは一見何の役にも立たない人たちのようでした。しかし彼らは、ダビデと共に、神の御旨を行う集団として成長していくのです。大切なのは、たとえ、はた目からろくでなしの集団であると見られようとも、どこに彼らが何を共有しているか、という問題です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ダビデの仲間
 ダビデの人生に転機が訪れた。もはやダビデは、一人ではなかった。ダビデはユダのアドラムに避難したが、同じように身の危険を感じた家族、そして、彼を頼る者たちが彼のもとに集まってきた。「困窮している者」「抑圧されている者」「負債のある者」「不満のある者」つまり集まってきた者たちは、変革を求める者たちであり、ダビデは彼らの長となっていく。
 この時期にダビデが書いた詩編は、34、57、142篇の三つであるとされる。ダビデは謡う。「ご覧ください。私の右に目を注いでください。私には顧みてくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って私のいのちを気にかける人もいないのです。【主】よ私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所生ける者の地での私の受ける分。」(詩編142:4,5)ダビデは、人間的なものにもはや望みを置きようがなかった。ただひたすら神に自分の望みを置いた。ちょうど、アブラハムやヤコブが神にのみ望みを置いたように、ダビデもアブラハムの子としての歩みを通らされているのである。
 困窮している者は、サウル王の統治下にあって、これではやっていけないという者たちだろう。そういう者たちがダビデの保護を求めてやってきた。しかも、考えてみれば、ダビデ自身、食べるものもなく、祭司に取り下げられたパンを求めるほどに困窮していた(21:6)。だから困窮していた者というのは、ただ貧しい者が集まってきたというのではない。むしろ、貧しさの中にあって、神により頼んでいるダビデの姿勢に感じ、まことの神に頼る信仰を持った者たちが集まってきたのである。負債のある者も同じである。負債から逃れる道を主に叫ぶダビデに見いだした者たちである。また不満のある者、失望し、挫折し、心の落ち着きを失った者たちも、自分の力を頼みとするサウルから逃れ、むしろ、神のみことばに立つダビデにこそ、自分たちの人生の活路を見いだそうとした者たちであった。
だからダビデは言う。「来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。【主】を恐れることを教えよう」(詩編34:11)。つまりダビデは、自分のもとに集まる者たちに、神を恐れることをまず教えていく。そして言う「苦しむ者が叫ぶと【主】は聞かれそのすべての苦難から救い出してくださる。【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる。」(詩編34:17,18)。ダビデは、信仰を持って神に助けを求める者の長となっていくのである。
2.ダビデを匿った代償
 一方、サウルは「ギブアにある高台のタマリスクの木の下で、槍を手にして座っていた。」(6節)サウルの粛清が始まった。サウルは競争相手のことで頭がいっぱいで、不従順なものを一人残らず摘発しようとしていた。そして彼の仲間に加えられたのは、神を敬わないエドム人ドエグであった。またサウルに忠実に具申する祭司アヒメレクは、反抗的な存在とみなされていく。アヒメレクは弁解も許されずに、サウルの敵を助け、ダビデの動向を報告する義務を怠ったと非難され、家族諸共に死刑を宣告されている。
主にあって王となり、主の霊を経験した王が、今や主のしもべたちを虐殺する者となっていく。こうして祭司の一族は、女、子ども、そして家畜に至るまで殺められた。かつてサウルは、もの惜しさの故にアマレク人に対する聖絶を躊躇ったが、今回は何の容赦もなかった。サウルにとってもはや、主の祭司は「つまらない、値打ちのないもの」だったのだろう(1サムエル15:9)。
人生の荒れ地にあって、あなたは今どこに立とうとしているだろうか。神を信頼する群れと共に立とうとしているのか。むしろ、あなたに畑やぶどう畑を与え、千人隊の長、百人隊の長にすることのできる(7節)実際的な権力であっても、いずれ滅びるはずの権力と共に立とうとしているのか。信仰の群れにこそ加えられる者でありたい。

1サムエル記21章

21章 ダビデの逃避行
<要約>
おはようございます。今日も聖書を読んでまいりましょう。最近シジュウカラの鳴き声が、春らしさを感じさせていますね。いつの間にか、時は先に進んでいる、そんなことを覚えます。ダビデの試練も、遅々とした時間の流れの中で進みつつも、確実に、それは終わり新しい時を迎えようとしていた、と見るべきなのでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.アヒメレクを訪ねるダビデ
 ダビデは、アヒメレクを訪ねている。アヒメレクは、サムエルの後任としてサウルに協力するようになったアヒヤの兄弟である。アヒメレクも多少のことは聞いていたことだろう。実際、宮廷から持参すべき糧食と警護もなしにやってきたダビデに、アヒメレクは戸惑いを隠せずにいた(2節)。ただダビデは、サムエルやヨナタンに対するのと違って、もはや仲裁を求めてはいない。その腹積もりは決まっていたのだろう。ダビデは生き延びようとしていた。食料と武器を求めている。
アヒメレクは、警戒しているが、ダビデに求められるまま、本来祭司が食すべき、祭壇から取り下げたばかりのパンを差し出すのである。後にイエスは、この事件をとりあげている(マタイ12:3-7)。儀式律法よりも憐れみを優先させたアヒメレクを肯定し、弟子たちが安息日にはしてはならない、とされる麦の穂を摘んで食べたことへの批判に答えている。それは、イエスの偉大な教えであるが、イエスもこの箇所を読み記憶していたことを心に留めるべきだろう。
2.エドム人ドエグ  
それにしても、ダビデは惨めである。非常に無様な姿をさらけだしている。そんなダビデに、神はもっと優しくあってもよいのではと疑問を感じさせられるのが7節、ドエグというエドム人が「主の前に引き止められていた」ということばである。サウルはエドムと戦いこれを征服している(1サムエル14:47)。ドエグは、その後で召し抱えられた、サウルに恩義のあるつわものだったのだろう。そんな人物が、そこにたまたま居合わせたのではなく、「主の前に引き止められていた」とある。なぜ主は、わざわざ後にダビデに胸騒ぎを(1サムエル22:22)起こさせ、かつダビデにあわれみの心を示す者を殺すような人物を引き止めておいたのだろうか。ダビデの逃避行に神が手を貸そうとする気配すらない。実に、神のみこころは理解しがたい。だが、それが神のみこころ、というよりは、すべてが主の支配の中で起こっている、程度に理解すべきことなのだろう。
3.ダビデの逃避行
一方ダビデは、主の支配の中にあることを忘れたのであろうか、自らを守ろうと、ゴリヤテの剣を握り、大胆不敵にもガテの王アキシュの保護を求めた。だが、その顛末は実に哀れである。ダビデはあまりにも知られすぎていた。アキシュの家来たちは、ダビデを「あの国の王」と呼んだのである。そこでダビデは、自分の身を守るために気が狂ったふりをしなくてはならなかった。気が狂った者を、宮廷に召し抱えることはないだろう。けれども、ダビデはこの時、本当に気が狂ってしまいたいぐらいに思っていたのではあるまいか。彼の心はどん底に落ちていた。まさに死の影の谷を歩む状況であって、イエスもダビデのこの心の内に、思いをはせたことは間違いない。
 まこと神を信じ、キリスト者になったのに、なぜこんなにも試練の多い人生なのか、と言う人はいる。神を信じているのに、なぜ自分の人生はかくも複雑になってしまったのか、とどん底のどん底を歩ませられることがあるかもしれない。そして絶望のふちに投げ込まれ、もはや神の約束を疑うこともあるだろう。しかし、イエス・キリストご自身、まさに、このどん底を通らされて、自分を神の善意に全く委ねる他のないところを味わい、ダビデの心を感じる思いであったであろうことは疑うまでもない。大切なのは、キリスト者の人生にも、そのような時は襲い来るのである。そして神までもが敵対しているように思われる時が、ある。そんな時にどうしたらよいのか。
後にダビデはこの時の心境を詩篇34篇に綴っている。その表題は、「アビメレクの前で気が違ったかのようにふるまい、彼に追われて去った時」とあり、アキシュではないが、おそらく同一人物であろうと考えられている。ダビデは詠んでいる「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。正しい人には苦しみが多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出してくださる」(18,19節)打ち砕かれてぼろぼろの状況の中で、ダビデは神の臨在に触れることを学んでいる。叫ぶと聞いてくださる主を悟っている。ダビデはアキシュに保護を求めて、失敗した、と思ったことだろう。そこで苦肉の策で、気が狂ったふりをした。だがそれで殺されずに済んだ。ただ生きながらえたことも、自分の戦略勝ちというよりも、神のあわれみによる、というべきものであった。本来ならば「もはやこれまで」というところを、すり抜けさせていただいている。神は劇的な助けを与えようとはしない。しかし、なぜか知らないがぎりぎりのところをすり抜けさせてくださっている。となれば命ある限り希望はあると思うべきだろう。それは、心もとない歩みかもしれないが、後に悟られるように、確かに勝利に近づいている道でもあるのだ。粘る信仰をもって歩ませていただこう。

1サムエル記20章

20章 ヨナタンと盟約を結ぶダビデ
<要約>
おはようございます。人間関係の問題はしばしば決裂に至り、決裂のままに、堪えがたい日々を過ごさねばならないことがあるものです。しかし、「人の意地悪に負けてはいけない」とは私の母のことば。負けてはいけないと思っても、もう耐えがたい、はダビデの心境。たとえそうであっても、主の愛を信じ、主の解決を待ち望み、主に寄りすがり続けることです、は、私の勧めです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ダビデの孤独
「しかしこの私はあなたの力を歌います。朝明けにはあなたの恵みを喜び歌います。私の苦しみの日にあなたが私の砦また私の逃れ場であられたからです。私の力よ私はあなたにほめ歌を歌います。神は私の砦私の恵みの神であるからです。」(詩篇59:16、17)
サウルに命を狙われた状況の中でダビデが歌った詩篇である。ダビデは苦難にありながら神を賛美した。しかし、賛美によって、ダビデの人生が変わるわけではなかった。むしろ、ダビデの人生は行き詰まっていた。サウルがダビデを殺そうとする意志は頑なで変わるものではなかったからである。
ダビデは、ヨナタンに助けを求めた。そこでヨナタンは初めて、ダビデとサウルの心の決裂を明かされる。サウルの子ヨナタンは、父の思いを全く知らずにいたのである。純粋に父のことばを信じ(1サムエル19:6)、ダビデにも愛情を示すヨナタンの姿が、凍り付くようなサウルとダビデの関係と実に不釣り合いである。だがこれも人間社会の現実である。
ヨナタンはダビデのことばに耳を傾けた。ダビデは新月祭でサウルとの食事を欠席するという。それは、ダビデがサウル家よりも自分の家族の先祖追悼記念を優先することを意味した。それは微妙に挑発的な行為であった。であるがゆえに、ヨナタンは父サウルの真意を確かめることになるだろう。
ただこの前半で、美しく思われるのは、ヨナタンのダビデに対する真実な思いだろう。彼はダビデと契約を結んでいる。ダビデが王位に付きサウル家を敵に回すことを既に予測し、そのような事態にあって、自分が死ななければならないとしても、自分の家族がダビデの恵みがあるように、と願っている。本来懇願すべきはダビデであるのに、ヨナタンが、懇願しているのである。それは彼が自分を愛するほどにダビデを愛していたからであった。後にダビデはこの契約を守り、ヨナタンの息子に栄誉を与え(2サムエル9:7)、その命を守っている(2サムエル21:7)。人間の愛に基づく契約がこのように守られるのであるならば、神の愛に基づく契約の確かさはどれほどであろうか。
2.サウルの怒り
 さて、新月祭の食事が始まった。サウルの応答は、ヨナタンの予測を全く裏切るものであったことだろう。サウルは、「邪悪な気まぐれ女の息子め」とヨナタンに激高した。その意味は、「よこしまな裏切り者」という意味に等しい。サウルは、ヨナタンがダビデと深く結びついていることに怒りを燃やした。もはや、サウルはダビデとヨナタンを共に殺そうとするのである。ヨナタンは全てを悟った。ヨナタンはダビデに事の顛末を知らせようとする。しかしこれが、ヨナタンとダビデの永遠の別れとなっていくのである。
3.神の真実
20章は、「あなたの恵みを喜び歌います」と歌ったダビデの心の中に、実際には大きな不安と深い絶望があったことを教えてくれる。59篇のような詩篇を歌いながら、ダビデは、実際には、極度の圧迫下で、友人や神を信じられない状況にある。しかし、彼はヨナタンにひれ伏し、三度礼をした、とある(41節)。誠実に、ことばどおりに、物事を進めるヨナタンは、深い絶望の中にある彼にとっては一条の光、救いであったことだろう。ただ、そうであったとしても、物事が変わることはない。人知れぬ苦悶の中で朽ち果てていくように思われる中で、感じる恵みである。だが、その彼が自分に何かをしてくれるわけではない。心の片隅で恵を感じたとしても、それで物事が変わるわけでもない。自分の破滅は方向づけられているようであり、その思いをどうすることもできないことがあるものだろう。そのような時にどうしたらよいのか。ダビデは、サムエルに助けを求め、ヨナタンに仲裁を求めた。ただ、彼らが事態を変えることはなかった。そして神も、と思うべきところなのかもしれない。
しかしそうではない、なすべきことは、そこでさらに神のあわれみに寄りすがることである。ペヌエルのヤコブのように、「祝福なくば去らせません」と主にしがみ続けることである。ただ、主の愛を信じ、主の約束に立ち、主の救いを待ち望むことである。ほんのちょっとの忍耐を働かせて、あと少しと、神の約束に粘っていくことなのだろう。その粘りを欠いてしまうから、私たちは自ら破滅の道を選び取ってしまうのだ。主の助けを信じ、「あともう一歩」と自分に言い聞かせることである。
42節でヨナタンは「では安心して行きなさい」とダビデに勧めている。人の安心を考える、人の心が穏やかにされることを考えていく、それが人を大切にすることであり、愛することになる。しかし、大方私たちの現実は「人の安心」よりも「自分の安心」を考えているものだろう。愛の深さを持つことを教えられる1章と言える。

1サムエル19章

19章 サウルとの決裂
<要約>
おはようございます。なかなか、深さのある所ですね。読めば読むほどに、主の霊が働くということへの、不可解さと不可解さの中にありながら、信頼を置いていくことの大事さというものを教えられて行きます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1. 命を救われるダビデ、ヨナタンとミカル
神は人格を有している。人の業に喜びもし、悲しみもする。イスラエルの栄光である方は、祭壇の向こうでただ鎮座しておられるようなお方ではない。まさに人と心を交わし、喜怒哀楽を共にするお方である。神をそのように理解し受け止めていく、信仰的な成熟が進んで行かない限り、私たちは信仰を持ちながらも、とめどなく形式的な信仰と、世俗社会と変わらぬ人間ドラマの人生を歩む他はない。
事実、サウルは、嫉妬心に駆られ、ダビデを敵視し、ただダビデを殺すことに夢中になっていくのである。彼の頭にも心に、生ける神はない。サウルは、家族を巻き込んで、ダビデを殺そうとしていく。
パスターズスクール(牧会喜塾)で教えていることであるが、衝突には、五つの段階がある。人間の衝突には、を正当化し、さらに執拗な復讐心へとレベルが上がっていく。こうした衝突のレベルが上がる前に、自分の考え方を修正していくことが大事になるのであるが、しばしば罪人である人間は、そのようには考えないものだ。
6節、「サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。」この時点で、サウルはまだ抑制が効いていた。だから、ヨナタンの理路整然としたとりなしにより、サウルは自分の思いが行き過ぎていることに気づいて、関係を回復しようとしている。ダビデも宮廷に戻ることができた。しかしそれは、あくまでも一時的なものであった。人間の心というものは、そんなに容易く修正されることはないのである。
8節、再び戦いが起こった、とされる。著者は、どこでどのような戦いが起こったかについては関心がない。ただ、著者はこの戦いの結果によって、結局、サウルの嫉妬心が再燃したことを語ろうとしているのである。しかも注意を促されるのは、後半特にそうなのであるが、この狂気の状況に、主の霊の働きがあることである。
ダビデは再び、サウルに息の根を止められるところ、その間一髪を逃れていく。そしてもはやダビデは、二度とサウルのもとに戻ることはなかった。
2.匿われるダビデ、サムエル
 ダビデは、この追い詰められた状況で、助けを求めたのはサムエルであった。サムエルは、ギブアから歩いて1時間のラマに住んでいた。彼はひっそりと暮らしていたのではなく、そこで預言者学校を営んでいたようである。サムエルはダビデを受け入れ匿った。
 サウルが追跡し、ダビデを捕獲しようとする。しかし、彼の派遣部隊は、そこで、先の霊の働きに次々と捕らえられていくのである。終いには、サウル自身が自分から出かけていくはめになり、同じように捕らえられた。彼は激しい恍惚状態に陥り、24時間無意識ので裸のまま倒れていたが、預言をしていた、という。一帯これは何を言おうとしているのだろうか。
 主の霊の働きが、サウルとダビデの関係を裂き、同じ主の霊の働きが、ダビデを殺めようとするサウルに待ったをかけ続ける。しかもカルト的な現象に陥った記録、何の意味があろうかと思わされるところではないか。こういうことがあるから宗教は気味が悪い、と思わされるようなものであるし、そもそも、意味不明にすら感じるところである。
ただ、人間不思議なことに、時を重ねなければわからないこと、うまくかみ合わないことというものがあるものではないか。もう10歳若かったら、と思うものの、果たして10歳若かったら、今思うような行動をとっているかというと決してそうではない、ことがある。つまり何者かによって時が稼がれなければ、ちょうど良いことが起こらない、ということがあったりするものである。
ダビデは、抜擢されたか、と思ったのも束の間、自らの命を守る逃亡者となっていく。ダビデが繁栄を極めていくのはサウル王が死んだ後であるが、ダビデにそれは必要な時代であった、と言っても、この時期のダビデは納得しなかっただろう。いわれ無き濡れ衣を着せられ、誤解に誤解を重ねられ、全く評価もされず、足蹴に放り出され、むしろ潰されていくかのように思われる時代があった。
こういう時に、人は先が見通せないからこそ、辛さがある。だから普通は、もうこれ以上耐えられないと思ってしまうものだろう。しかし、著者が「主の霊」がと語るところに注意せねばならぬ。私たちの主は善き方である。どこまでも神は、私たちを善きに導いてくださると信じなくてはならない。運が悪い、運がよいというのではなくて、人生にはありとあらゆることが起こったとしても、必ずや帳尻を合わせてくださるお方である、と。ヨブの言い方で言えば、私たちは神様から祝福を受けるのだから災いをも受けなくてはならない、と言い切るぐらいに豪胆な人間でありたいものだ。一々、自分の身に起こる不幸に驚いてはならないのである。不幸を不幸として受け止めてもなおこの先に、神様の祝福のご計画があると考えてよい。
確かなところ、逃亡者のダビデには、助け手が与えられた。しかしそれは、神がつくってくださった逃げ道である。問題を抱え込みながら、その問題に耐えていく時を過ごすための逃げ道であって根本的な解決ではない。しかし神は、ある時、つまり根本的な解決が来るまで逃がし続けてくださる。神は、ヨナタンにダビデをいつくしむ心を与えられた。またミカルに追い詰められたダビデを救う心を与えてくれた。ダビデの居場所がわかられた際にも、神は、追っ手に混乱を与え、ダビデが失われないようにしてくださった。かつて王としての召しを確信させた預言の霊は、今や、混乱を与え、行く手を阻む霊となったのである。神の御計画は、神ご自身が守り導かれる、ということを意味しているのだろう。
ともあれ、苦しいことがあっても、慌てずに、神がそれをどうおさめられるのかがわかるまで、待つことなのだ。主の御計画が決定的に見えてくるのはまだ先のことである。

1サムエル記18章

<要約>
おはようございます。聖書通読は進んでいますか。中断した人も諦めずに、また再開しましょう。聖書の世界の素晴らしさがわかっていけば、通読は止められなくなります。そのためには、忍耐を持って、一歩一歩と聖書の世界の奥へ奥へと進むことです。今日は、ダビデの祝福と試練の始まりを読んでいくこととしましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1. 器の小さいサウル
 ゴリヤテを倒したダビデは一躍英雄となった。ただの羊飼いの若者が、王族の一員となっていく。イスラエルの女たちは歌った「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」ダビデの勝利からすれば当然のことであろうが、サウルには、この評価を適当に受け止める度量はなかった。サウルは「ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ」と激怒する。サウルは、自分から人気が去ったことを意識したのである。少なくともサウルは、はじめイスラエルの誰からも愛され認められていた。ところが、彼以上に信頼を集め、認められる人物ダビデが登場するやいなや、サウルは猜疑心と嫉妬心の塊と化し、それはやがて殺意に転じた。
程度の差はあるだろうが、サウルの器の小ささは私たちと無縁ではない。一度自尊心が傷つけられて怒りが燃え上がってしまったり、嫉妬心が燃えてしまったりするならば、なんとも手がつけられない行動をとるものだ。問題は、自分の欠点や弱さ、過ち、起きてしまったことを、素直に認めて受け入れることができないことだろう。本当の自分はそうじゃないのだ、自分はもっと評価に値する人物なのだ、と思い続ける。現実的に自分がどういう人間であるか、ということを薄々感じていても、傷ついた心の故にそれを受け入れられないのである。自分の心の深奥、水面下を見つめ、本当の自分の姿をありのままに受け止めていけるかどうかが、人間的な成熟さを示している。
2.サウルの解決
サウルは、再び、ダビデの琴を必要とした。ダビデは、勇士ではなく琴弾きとして呼び出されている。しかし、ダビデは二度に渡ってまともに殺意をぶつけられている。サウルは、ダビデの隙を狙って壁に彼を槍で突き刺そうとした。また、娘を妻にする代わりにペリシテ人との争いをけしかけ、あわよくば彼を葬り去ろうとした。しかし、サウルがダビデを排斥しようとする一切の試みは、逆効果となるばかりであった。
それは、主がダビデとともにおられ、サウルとはともにおられなかった、からである。サウルはダビデを恐れ、ダビデの敵となり続ける他なかった。しかし、本来ならば、アベルを妬んだカインのように「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4:7)という、神のことばを思い起こすべきであったのだろう。サウルは、神の聖霊を受けていた。預言者の一人に数えられたこともある。しかし、主と心を結び続けることのできない人であった。つまり、神がサウルとともにおられなかったのではなく、サウルが神とともにあることを求めなかったのである。
私たちにとっても大事な点である。なぜならヨハネも言うとおり、神の愛は、十字架においてはっきりと示されたのであり、だれでも主の名を呼ぶ者と共に神はおられるからだ。主の名を呼ぶ者は主の祝福を期待すべきである。自分が弱く思わされ、劣等感に襲われ、人をねたみそうになっても、そのために主に見捨てられることはない。むしろ、こんな私のために十字架の愛を示してくださった主を離れまいと心に決めることだ。「自分は神に見放されている」と思い込んでいるなら、決して新しい幸せな人生を始めることはできない。「神は私たちを幸せにしてくださる。愛する者に善を拒まれない」という確信を持ち続けることである。そして過去の嫌な出来事は進んで忘れる、つまらないことをうつうつと考える習慣はやめることである。いつもキリストにある新しい心の習慣、赦しと愛の心の習慣を育てていくことである。そして、なかなか身に付きにくいそのような習慣が自分の心の習慣となるまで、忍耐を持って、時を過ごし、神に教えられていくことである。そのための最もよい方法は、教会の集会に欠かさず出席すること、礼拝に出席すること、祈り会に出席すること、そして何よりも、1人神と良き時を過ごし、絶えず神の心に触れることである。今日も主に信頼しよう。