ヘブル人への手紙3章

キリストが何をしてくださったのか。私たちを栄光に導くために、十字架の道を歩み、完全な贖いを成し遂げ、今や私たちのとりなし手となって、天の右の座に着いてくださっている。この天の召しに、私たちが与っていることを覚えて、主イエスに信頼しよう、とヘブルの著者は呼びかける。そして、み使いとイエスの比較において重要だったのは、その至高性にあったのだが、続いて、著者はモーセを取り上げ、その大祭司としての忠実性を比較し、イエスがモーセに勝る者であることを力説し、イエスに対する深い信頼を促すのである。

本来イスラエルの大祭司であったのは、モーセではなく兄のアロンであった。しかし、神の御前における真の弁護者として忠実にその使命を全うしたのはモーセである。金の子牛の偶像崇拝に陥った時にも、民をとりなし、民の為に嘆願したのはモーセであった。神はそのモーセの働きを忠実であると認め(民数12:7,8)、それゆえにイスラエル史の中においては、偉大な存在である。しかし、そのモーセとて、イエスの忠実さにはかなわないのである。モーセの役割は、約200万人とされるイスラエルの民を、エジプトから導き、約束の地カナンへと向かわせるために、神のしもべとして働くことであった。しかしイエスはそれ以上である。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟」という海辺の砂のような、数えきれない神の民を罪の滅びの淵より導きだし、新しい都エルサレム、永遠の安息へと向かわせるために、仕えておられる。そのイエスを認め、イエスの声をよく聞きなさい、ということになる。

私たちは、かつてモーセに導かれて荒野を彷徨っていたイスラエルの民同様に、今はまだその安息にはない。しかしやがて私たちはまったき安息を得る。それは、身体的、精神的、霊的、関係的な安息を得る素晴らしいものである(黙示録21:3,4)。かつてのイスラエル人は、その安息に入ることができず40年彷徨っていた。それは教訓とされなくてはいけない。同じ失敗を繰り返してはいけないのである。
だから次の聖霊の警告に耳を傾けることにしよう。

(1)昔のイスラエル人のように心を閉ざしてはいけない。心を鋼鉄のように堅くして、神の導きに文句を言ったり、反抗したりしてはいけない(8節)。信仰を持って踏み出していながら、この歩みに主の祝福はない、間違った道を来てしまったなどと思うようなことがあってはいけないのである。

(2)不信仰に凝り固まって、イエスから離れることのないように、自分の心を見張りなさい(12節)。不信仰であってはならない、というのは、まさに今日、この日において、ということである。今日、この日、一瞬一瞬の積み重ねである。今不信仰に気づいたなら、その不信仰の連続性を断ち切らなければいけない。そして信仰の連続性に変えるのである。

(3)日々、互いに励まし合い(13節)。信仰は、個人的な営みでありながら、同時に、共同的な営みである。私たちはやはり互いの励ましを必要とする。互いに信仰を支え合う心を持たなければならない。互いに声を掛け合って、天の召しの素晴らしさへと向かっていくことが大事なのである。天国は一人で、自力で入れるところではない。

(4)最後まで忠実でありなさい(14節)。荒野の試練に疲れ果ててはならず、荒野の現実に目を奪われすぎてもいけない。私たちは今ここを通過しようとしているだけであり、約束の天の都に入ろうとしているだけなのだ。

(5)神を信頼しよう(19節)。今日、この日、神に聞き、従うという姿勢を大事にし、しなやかな心でもって信仰の歩みを前へと進めて行きたい。かつての荒野の民は失敗した、しかしあなたがたは神の召しに応じていくように、と語る。今気づかされたなら、今神に応じなさい、と。今日この場で、心を新たに、神の徒となる志を持たせて頂こう。

ヘブル人への手紙2章

「聞いたことに心を留めよ」という。それは、キリストのみ使いに勝る高さを覚えるからこそである。古い啓示である旧約の律法は、み使いの仲介によって伝えられたが、神の最終的な啓示は、御子イエスによって与えられたのであるから、それ相応しい応答が必要なのである。実際、福音の真理や教えは、生死にかかわる最も重要なものである。実際、旧約の律法に対する違反と不従順は、厳しい処罰を伴った。となれば、ましてみ使いに勝るキリストの救いの言葉をないがしろにするなら、その当然の結果を受けることになるだろう、というわけである。

日本人の信仰は二階建て信仰であるという。二階は牧師の書斎であって、牧師が学んだことを分かち合う場である、あるいは礼拝の場であるという。そして信徒は一階に住んでいて、一階と二階には、細い階段があるのだという。だから毎週日曜日になると二階に上って行って、そこで牧師の説教を聞き、ああいいことを聞いたと一階に下りて行くやいなや、二階とは全く別の日常生活が始まってしまうのだという。聞いたことが心に留められない。そんな現実がある。聞いたことは聞いたでよしとするのだが、普段の生活はその聞いたこととはまったく別の原理で動いてしまうのである。聞いたことをしっかり心に留め、押し流されないようにする自覚的、意識的信仰が私たちに求められていることである。

福音は主によって語られ、聖霊をもって証しされた。まさに、ペンテコステの時に、また、初代教会の宣教の働きの中で、その福音のメッセージは確かなものとして使徒たちによって証されたものである(3,4節)。神が全霊を注いで伝えようとされたものであるが故に、私たちはこれに真摯に向かい合わなくてはならない。

そこでヘブルの著者は、5節から、キリストのみ使いに対する優越性について、さらに述べていく。先の1章では、キリストは神の子であり、み使いは、キリストに仕える者と定められていたことを語っていたが、ここでは、キリストが世界の統治者であることを明言している。旧約時代において、世界の統治はみ使いに任されていたことを私たちは思い起こさねばならない(申命32:8)のである。しかし、新約の時代に入り、それは、しばし低くされた方、イエスに帰せられたのであり、万物がイエスに従うものとされている。

大切なのは、その万物の支配者であり、創造主であるイエスが自らを低くされたことの意味である。それは、語られただけではなく、実際に、獲得された救いである。つまり、イエスはマリヤより生まれ、私たちと同じ血と肉をとり、私たちの生活を味わい、十字架にかかられ、低くされた。そして、語られた通りの罪人の贖いを成し遂げてくださったのである。しかもその福音は、罪人がキリストの恵みにより、兄弟姉妹として迎えられイエスの高さに引き上げることを明らかにしている。み使いではない。キリストが低くしてくださったところから再び戻られる同じ高さに、私たちも引き上げられ、キリストの栄光に与るのである。キリストの救いは、それほどに素晴らしい内容を持っているのである。

十字架の話はよく聞く。復活する話もよく聞く。しかし高挙された話はあまりされない。イースターにおいて大切なのは、復活し、高挙されたこと。神が栄光と誉れの冠を授けられて神の右の座にあること。勝利者となったこと。しかしその勝利者であるイエスが、その高さに、私たちを招いてくださっていることに、そのさらなる素晴らしい福音のメッセージがある。

実にイエスは、その高さに戻られながら、私たちを兄弟と呼ぶことを恥とされないとも言う。

また、イエスが自らを低くされたと言う時には、私たちの敗北の低さに立ってくださったということでもある。完全に、私たちの敗北の状況に降りてきてくださった。そこから復活の道があることを示してくださったということが大切だ。神が助けてくださるのは、アブラハムの子孫である。試みられている者である。弱く、敵対し、罪人とされている者である。神に対する信仰や忠実さを捨て去るように試みを受ける中で、卑しめられ、弱くされている状況にあって、この自らを低くし、勝利をもって、私たちをとりなしてくださっている方を覚えることは、実に大いなる励ましとなることである。今日も私たちには、主の大いなる関心と深い愛が注がれていることを覚えて歩ませていただこう。

ヘブル人への手紙1章

神が本当におられるとしたら、私たちは何によって知るであろうか。実際、人間をお造りになり、天地万物を創造した神がいるとしても、その神についてどんなに想像を膨らませたところで知り様がない。人間は造られた有限の者であれば、これをお造りになった無限のお方を知るというのは、ありえないことである。神ご自身が、ご自分について、何等かの方法で明らかにしてくださるのでなければ、私たちは、神について知りえない。逆に言えば、神が沈黙されるなら、私たちは、神を知りたくても知りえない、堂々巡りの思索の迷路にはまり込むだけである。

ヘブルの著者は、神は昔、預言者たちによって、ご自分について語られたが、この終わりの時、つまり今の私たちの時代にあっては、御子によって語られた、という(1、2節)。これは、専門的に特別啓示と言われる。つまり旧約聖書と新約聖書によって神は、ご自身を知りたいという人々に、そのなんであるかを明らかにされたという。だから、私たちが神について知ろうとするならば、まず、神の啓示のことば、聖書に向かわなくてはならない。神は、神秘的な思索の中にではなく、体験的な何かの中にでもなく、聖書を読み解くことによってこそ知られるのである。そして旧約聖書と新約聖書は、約束と成就の関係において読み解くことができるのであり、それは、キリストを中心としている。

では、このイエス・キリストという方はどういう方なのか。ヘブルの著者は、以降、キリスト論を展開するが、まずその初めからイエスの神性について説明しようとする。キリストは、

1)万物の相続者、創造者(2節)

2)神の栄光の輝き、神の本質の完全な現れ(3節)つまり、人格と行動すべてにおいて神であることを示された方である。実際「わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)」とイエスの言葉が聖書には収録されている。

3)万物の保持者(3節)、つまり宇宙を統御しておられる

4)贖罪を成し遂げ高挙されている(3節)つまり、私たちの一切の罪の罰を帳消しにし、天に戻られた。

しかし、御子についてこのような信仰を持つというのはいったいどのような意味を持つのだろうか。実のところ私たちは、日曜日ごとにイエスを賛美しイエスを愛している、信じていると信仰告白をする。しかし、イエスが神であるというのは、イエスを自らの主とすることである。つまり、イエスを何者にも勝る存在として認めることに他ならない。だが、しばしば私たちはイエスをそのようには見ていない。それは当時のヘブルの著者も同様だったのだろう。だから、ヘブルの著者は、当時の読者が価値を置き、尊崇する事柄を一つ一つ取り上げ、それらに勝るキリストを5節以降語ろうとするのである。

その第一に、ヘブルの著者はみ使いを取り上げる。イエスは御使いに勝る存在である、と(4-14節)。当時のユダヤ人は天使を崇敬した。彼らは、天使は神の敵を罰し、神の裁きを執行する恐るべき存在であり、かつ信者を守る存在であると考え、そのような天使を敬ったのである。しかし、人間を超えるそのような存在よりもはるかに勝る存在がイエス・キリストであり、キリストをこそ敬い、畏れるべきであるとする。実際、旧約聖書によれば、御使いがイエス・キリストを礼拝したではないか、と論じている(6節)。御使いは霊的な存在であるが、イエスのしもべに過ぎなかった(14節)。日本人なら御使いよりは、死者の霊、あるいは先祖を崇敬するところだろう。しかし先祖に勝る崇敬すべき存在があると敷衍して考えたいところである。

また、イエス・キリストの様々な奇跡や教えを見聞きした人の中には、イエスを御使いのような超自然的な存在であると考える人たちもいただろう。そのような人々に、この手紙の著者は言う。御子イエスは、御使いよりも勝る存在である、と。この世には、本当に恐れるべき、敬うべき唯一の超自然的な存在があるという。私たちが恐れるべき超自然的な存在は唯一イエス・キリストである。そしてそのキリストが、神について私たちの知を満たし、私たちの信仰を導く伝達者となられたのである。キリストにこそ耳を傾けていきたい。