テモテへの手紙第二1章

第一の手紙同様に、いささか親愛なる弟子テモテに対してはいかめしい切り出しである。しかし、そこにパウロは、テモテに最も伝えたい自らの確信を言い含めた、と言えるのではないか。第一の手紙では、神の救いとキリストの望みであった。第二の手紙では、キリストイエスにあるいのちの約束である。私たちの信仰は、まさにキリストのいのちを中心とする、そのいのちに生きる約束に心を止めて歩むことだ。テモテに必要なのは、まさに、このキリストとのいのちある関係に生きることであった、と言えるだろう。

テモテは、エペソの教会で非常に苦しんでいたようである。4節「あなたの涙」とあるが、テモテの心には悲しみがあった。そんなテモテを思いやりながら、パウロは勧める。

第一に、神の賜物を燃え立たせよ(6-7節)という。エペソの教会の難局を乗り越えるために必要なのは、新しい賜物ではない。それは既に与えられている賜物を燃え立たせることである。実際初めの手紙でも、パウロは「あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません」(1テモテ4:14)と勧めている。大切なのは、既に与えられた賜物を燃え立たせ、用いることにある(6節)。テモテは臆病になっていた。へこみ過ぎて、心打ち砕かれるような状況にあって望みもない気持ちになっていた。物事に対処する力が必要だった。くじけずに正しいことを行い続ける愛が必要だった。どんなに煽られても、動ぜずに、自分を律して立ち続ける健全な霊が必要だった。だが、テモテのそうした不足を補う「力と愛と慎みとの霊」はすでに与えられていた(7節)。信仰を持って、それらを用いて主の働きに臨んでいけるかどうかが問題であったのである。

おそらくテモテは、パウロを恥じる誘惑にさらされていたのであろう(8節)。実際、パウロを支持する者は誰もなく、皆に見捨てられていた状況にあった(4:16)。迫害や偽教師の働きの中で、テモテは、難しい舵取りを迫られていたようである。そこでパウロは、「神の力によって」自分と労をともにするようにと呼びかけている。福音宣教は、人間的な力ではない、ただ神の賜物である力によってのみ、勧められる働きである。それは、まさに恵み深き主の導きによる働きなのである。

パウロは、自分の立場を弁明する。パウロの今の苦しみは、ひとえに、福音を伝えようとする試みの中で生じている。福音は、神の計画と恵みによるものであり、それは永遠の昔から与えられていた。それはキリストの十字架と復活によって、人の死を打ち滅ぼし、命を与える。その福音の宣教者のために苦しみに与ることは、名誉ではあっても、恥ではない。そしてパウロが投獄され、もはやその試みが、中断される、あるいは無に帰せられるような事態が生じたとしても、神が、永遠の計画と恵によってその働きを完成させてくださるはずである。12節、「私のお任せしたもの」は、文字通りには、「私が預けた物」を意味し、パウロにとってそれは、宣教の働きの結果と理解されるものである。となれば、へこんでいるテモテに、パウロは自ら牢獄の囚人として終わらなければならない、つまりあらゆる努力が破綻するように見えかねない状況にあって、働きの結果を委ねている心境を語り、テモテにも結果はどうであれ最善を尽くすように、語っていることになるのだろう。なお、新改訳の欄外注に記されているように、このことばについては、二つの解釈の可能性がある。つまり、「パウロが神にお任せしたもの」と取る以外に「神がパウロに任されたもの」と取る可能性である。しかし、パウロが委ねられたものは、福音宣教になるのだから、神がそれを最期まで守ってくださる、ということは、結果的に同じ意味になるだろう。福音宣教も、その働きの結果も、神の御心に導かれて、主の再臨の日まで守られていくのである。

だからこそ、信仰と愛をもって、委ねられたものを守っていく。つまりパウロから聞いたことを健全な教えのことばの手本として、しっかり持っていなさい、と勧められる(13節)。「手本」(13節)ということばは、「型、作成者の下案」を意味している。初代教会の時代には、はっきりとした教理があった。それによってあらゆる教えが吟味される。それをただ神の聖霊の力によって守るように、という。聖霊の力、神の力が強調される。

フゲロとヘルモゲネがどんな人であったのかはわからない(15節)。おそらくパウロに敵対し、テモテを擁護しようとしなかった教会の指導者たちであったのだろう。アジアの信仰者たちは、パウロを恥とした。それはキリストを恥じることであった(16節)。パウロにとっては本当に暗い時期だったことだろう。デマスは彼を見捨てて行き(2テモテ4:10)、パウロの仲間は遠い宣教地へと旅立っていた。そして偽りの教理が教会には広まっていた(2テモテ2:17-18)。そしてパウロはローマで囚人となっていた。しかし、そんな中で、ローマに来てパウロを助けたいと心から願っていた一人の人物がいた。オネシポロである。彼の名前には、「利益を生む」という意味がある。彼は、エペソの教会の執事であったようだ。オネシポロは、エペソからローマへと旅をし、大変な苦労をしてパウロを探し出し、その居場所を突き止めた。獄中にあることは、不毛の日々を送ることである。しかしそんな時を過ごすことがあっても、神が、私たちの働きの結果を守り導いてくださることを覚えて、今なせることに力を注ぎたいものである。

1テモテへの手紙6章

5章に続いて、牧会者として奴隷に対する関わり方を教える。ある歴史家は、ローマ帝国に住む人々の半数は奴隷であったと考えている。しかしこれら多くの奴隷は教育を受け、文化的であったが、法的にはまったく人間とは見なされていなかった。キリストにある救いと自由を語る福音のメッセージは、奴隷の心を捉え、多くの者たちが信仰を持つようになったという。しかしそれによって、ある奴隷は、キリストにあって新しく見出した自由を、主人に対する不従順の言い訳とし、福音の名誉を傷つけるようになってしまった(1節)。そこでパウロは、奴隷に対して、ますますよく仕えるように勧める(2節)。なぜなら主にある兄弟姉妹という新しい関係から両者は共に益を受けるからである。

次に、偽りの教師に対して(3-10節)。パウロは、偽りの教師について警告することから、この手紙を書き始めた(1:3)。また彼らの危険な教えのいくつかを明らかにしてきた(4:1)。そうした教えが教会に入り込んで、教会が混乱することは避けなければならない。彼らは、先に結婚を禁じたり、食物を断つことを勧めたりするような者であった(4:3)。ここではより根本的な問題、彼らが「主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教え」(3節)に同意しない問題を指摘している。つまり彼らは、キリストではない自分自身を誇ろうとする高慢なやからである(4節)。そして、彼らの関心はこむずかしい議論と論争を引き起こすことで、真理に立とうとするものではない(4節)。さして、さらに彼らは、「敬虔を利得の手段」と考えていた(6節)。つまり関心は牧会ではなく、宗教的なビジネスにあった。パウロは、まことの教師、つまりテモテが集中すべきことを明らかにする。それは「満ち足りる心を伴う敬虔である」富は満足をもたらさないし(6節)、残せない(7節)。そもそも、私たちの基本的な必要は容易に満たされる(8節)。そして富への欲求は滅びと破滅に至る(9-10節)。金銭を求めることには罠である。神の働き人は、確かにその働きから報酬を得るべきであるが(5:17-18)、報酬は、神が用意してくださるものであり、実際の牧会においては、何よりも心が聖い満たしを得ることに心を注ぐべきだ。パウロは、偽教師にどう対処せよとは言わない。むしろ偽教師に関わるよりも、11節、「しかし、神の人よ」と、関わりではなく、あなた自身の存在によって対処せよ、という。正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求める、それが、教会に入り込もうとする偽教師に対する最善の対処である。「正しさ」は、「人格的に完全であること」、「敬虔」は「実践的な敬虔さ」である。「信仰」は「誠実さ」、「愛」は、他人のために犠牲を負うアガペーの愛である。「忍耐」には、困難なことがあってもくじけないで「ねばる」意味がある。「柔和」は、弱さとは違う。「統制された力」とでも言うべきものだ。ともあれ、敬虔な存在をもって信仰を守るために戦うことが勧められる(12節)。16節は、パウロの回心の経験を彷彿とさせる。「近づくこともできない光の中に住まわれる」パウロがイエスと出会い、捕らえられた決定的な瞬間に悟らされたことであった。それが、パウロの働きを決定的に方向づけた。その神の使者であり、しもべであるという自覚のもとに、パウロの働きは展開されていくのである。イザヤも、モーセも同様であったことを思い起こしたい。私たちはまことの生ける神のしもべ、働き人なのである。

金持ちたちへの関わりが語られる(17節)。謙遜であるように。そして先に述べた富の罠(9-10節)に足を救われないように、富ではなく富を与えてくださる神にこそ望みを置き、分け与えるようにと語る。そして天に宝を積むことである(ルカ16:1-13)。

最後にパウロはテモテに教えに忠実であるように、と言う(20-21)。そして偽の教えを避けなさいと言う。余計な議論に深入りしないことである。ただ委ねられた福音に生き、それを証することに注力することだ。これをパウロはテモテのみならず「あなたがた」(21節)と、長老全員に書き送る。主の恵みによって、その働きが進められるように、と。

テモテへの手紙第一5章

本章からは、牧会方法、いわゆる一人一人への関わり方について語る。第一に高齢者に対して。彼らには、自分の母か父のように、また若い女性には、純粋に姉妹のように関わるように、と語る。教会は神の家族であると考えるのがよい。第三にやもめに対して(3-10節)教会はその働きの初めから、信仰を持った未亡人のために配慮を示してきた(使徒6:1、9:39)。しかしながら、教会は、本当に必要のある人に配慮し、自分たちの資源を浪費しないように注意すべきである。つまり、もし未亡人が教会の支援を受けるなら、それにふさわしい資格がある。つまり子どもも孫も身寄りがない、ということ。当時の社会は、社会福祉が発達しておらず家族の責任は大きかった。しかし今日ですら、家族の負担は軽減されても、責任が放棄されてよいわけではない(8節)。

そこでパウロは、教会の世話を受ける人の条件として、第一に忠実な信仰者(5b-7)である。第二に、60歳未満ではない(9a節)。再婚する可能性がない、つまり身寄りを持つ可能性がない、ということだろう。第三によい結婚の証しを持つ(9b)。自ら離婚した女性ではない。第四に、よい奉仕者としての評判を持つ(10節)。「子どもを育て」とあるが、もし自分の子どもであれば、死別したことを意味する。子どもが生きていれば教会は彼女を支えなくてよいだろう。だから、これは、遺棄された身寄りのない子どもたちを助け神様を知るように育てたことを言っている。そういう意味で、彼女たちは教会のために奉仕した人々である。

次に若い未亡人に対する勧め(11-16節)。60歳以下、いやそれ以上に若い女性たちであっただろう。旅行中の事故、病気や戦禍、その他の理由によって女性は若くして未亡人になることがあった。パウロは、そうした女性は対象としないようにと命じる。一つは、再婚するチャンスがあるからだ。さらに時間をもてあまし、罪を犯しかねない(13節)。むしろ、若いやもめに期待されるのは、結婚をして家庭を持つことである。「家庭を治め」(14節)は、文字通りには「家庭を支配する」である。妻は家事全般をやりくりし、夫は妻がそうすることを信頼して委ねなくてはならない(箴言31:10-31)。ただ単純に贅沢を求めて働くだけの社会進出であってはならないのだろう。

最後に長老への関わり。長老は今日の牧師と同じに考えてよい。複数の牧師がいてテモテはその関係に苦労していたようである。パウロがワインを勧めたのも、こうした背景の中で、テモテが胃の調子を崩していたためなのかもしれない(23節)。飲酒よりも医薬的な目的である。

ともあれパウロは、三つの助言を与えている。第一に敬意を払うこと。パウロは旧約律法(申命25:4)を引用しながら、長老たちが、その働きに基づいて適切に扱われるべきであるとした。「二重の尊敬」(17節)は、「惜しみない報酬」と訳すことができる。先のやもめの問題に関連して考えれば、まず、教会のために骨折っている人々のために、教会の資源の適正配分を優先する、ということになる。第二に、長老の懲戒は慎重に行うことである(19節)。うわさや憶測で罰してはならず、事実関係を明確にすることである。だから、すべてのことをオープンに(20節)、偏見なくありのままに取り扱うようにという(21節)。大切なのは、神は正しいことをなさる、ということだ。善い行いも、悪い行いも、神は正しく取り扱われるのである。疑わしきは罰せず、神の裁きに委ねることも大切だ(24,25節)。敬虔なリーダーシップは、神の祝福を導き出すものである。私たちが必要とし求めるものは、そういうものである。

テモテへの手紙第一4章

パウロが、牧会者の心得として語ってきたことは、おおざっぱな言い方であるがまとめるなら、まずは祈り(2章)、そして敬虔さ(3:1-13)、生ける正統信仰(3:14-4:5)ということになるのではないか。

牧会者が守るべきもの、注力すべきものは、教会が真理の柱であり土台である、ということだパウロは、キリストの栄光とその教会の将来の展望を示したが(3:16)そこが大事にされなければならない。しかし、教会においては、キリストの栄光ではないものが中心となり、その将来展望も失いやすいのである。すでにパウロはそうした動きがあることを警告していたが(使徒20:28-31)、実際にその通りのことが起こっていたのだろう。

良心の麻痺した偽善者である偽教師の問題があった(2節)「あなたがたは実によって、彼らを見分けることができます」(マタイ7:15-20)とイエスは言われたが、偽教師は口で語っていることと実際にやっていることが違う。真の神の僕のしるしは、正直さと高潔さ、そして有言実行にある。神の真理に立ち、神に従うことを真面目に求めている人である。また彼らの特徴は、結婚やある種の食事を禁じる、二つの禁止命令の実践にあった。しかし聖書の信仰は、禁止命令の実践ではない。むしろ、キリストにある罪の赦しを得て、神の恵みの中に入れられているのであるから、すべてを感謝し、喜びつつ歩むのが基本である。事実神は、私たちの喜びのために一切の被造物をお造りになったのである。

パウロは、このように偽教師の働きがある中で、教会が、神の家族、神の集会、真理の柱として守られていくように、心がけるべきことを語る。

一つは、教育である(6a節)。「信仰」には冠詞が付されている。キリスト教の教理体系を示唆している。交通標識には、二種類ある。危険性について警告する標識(例えば「落石注意」)と、目標を明らかに示す標識(例えば「東京まで30キロ」)である。牧師は危険について警告を発すると同時に、正しい教理、つまり何を信じ、従っていくべきかを教える必要がある。そのために、牧師自らが神のことばによって養われていなければならない(6b節)

二つ目に、世俗的な年寄り女がするような空想話を避けなさいという(7a節)。パウロは、テトスに「ユダヤ人の空想話」について警告している。第二テモテへの手紙の中でも、同様の警告をしている(2テモテ4:4)。ある英訳では、「神抜きの神話と年寄り女がするような話」と訳している。つまり、キリストの中心性から私たちを引き離してはいけない。そしてむしろ、救い主である生ける神に望みを置く(10節)、敬虔の鍛錬にこそ(8節)、意を注ぐべきである。私たちはやがて主の御前に立つ。主と再会する、その希望に生きているのであるから、すべてが底に収れんされていくような生き方でなければならない。終末的な信仰にあって生きている。

11節からは、テモテに対する直接的な助言となっている。弱気のテモテに対して、「命じ、教えなさい」とあるように、断固とした態度を取るように指示している。そしてまずは模範となるように教えている。いつも正直で愛があること、そして神に信頼することにおいて忠実であること、さらに、心も体も聖く保つことである。また、聖書を朗読し説教し、教育することが勧められる。それらは聖霊の賜物である。神は、牧師に説教と教育の賜物を与えられる。またその働きを遂行する熱意も与えられる。主に与えられたものを軽んぜず、心を砕いてしっかりこれに取り組むことである。そうすれば、すべての人にその働きは認められるようになるだろう(15節)。

また、人を牧会するためではない、自らを教えることに意を注ごう。どんな牧師も自分が到達しえない高嶺に人を導くことはできない。「私にあるものをあなたにも与えよう」とペテロは語ったが、これが信仰生活と宣教の基本原則なのである(使徒3:6)。「よく教える」ことは牧師の資質の一つであるが(1テモテ3:2)、よく教えることのできる人は、よく学ぶ人でもある。成長する牧師(あるいは教会員)は、神のみことばを学ぶ者でなくてはならない。人を教える前に、まず自分自身の魂に配慮し、自分を教え、成長する者であろう。

テモテへの手紙第一3章

牧会者として、第一の務めは祈りである。続いて第二の務めは、日常性における証、というべきだろう。使徒たちの時代の教会組織はきわめて単純で、牧師(長老、監督)と執事に分かれていた(ピリピ1:1)。主として前者は教育を(1テモテ5:17)、後者は運営を(組織化と教会政治)を担当していたようである。大切なのは、その職務に志す者の資質であった。パウロは、もし長老、監督、牧師として仕えることを熱望するならば、以下の日々の実践が大事である、と語る。

①サタンや未信者に攻撃されたり批判されたりするものがない(2a)。②厳格な道徳観をもっている(2b)。③あらゆることにおいて節制があり自重することができる(2テモテ4:5)(2c)。④慎み深い態度を持ち、仕事にまじめである(2d)。⑤考え方や生活がよく整っている(1テモテ2:9)(2e)。⑥快くもてなす力がある(2f)。⑦教える能力がある。これは、次の執事との資質の違いで際立った部分である。執事には、聖書の教えがよくわかっていることが大切(9節)であるが、監督は、聖書を教える力、聖書から真理を語り、助言する力が必須であった。監督にこの力が欠ける時に教会は弱体化を避けられない。なお、その力は、学ぶ力でもある。学ぶことに怠惰な指導者は、教えることにおいても尊敬を得ることができない。⑧酩酊するような者ではいけない(3a)。⑨論争好きであったり、争ったりしない(3b)。⑩金銭に無欲である(3c)。⑪金銭以外のことについても強欲ではない(3d)。⑫穏やかである(3e)。⑬平和を求める(3f)。⑭家庭にあってよき長である(4-5節)。⑮信者になったばかりではいけない(6節)。⑯教会外の人々に不要な非難を受けることがない(7節)。

次に執事であるが、その起源は、使徒6章に遡る。最初の執事は、使徒たちを援助するために任命された。今日の地域教会において、執事は、牧師長老がみ言葉と祈り、そして霊的な監督に専念することができるように、彼らの働きを支援していく。執事の資質は以下のとおりである。①誠実さが第一である(8a)。②噂話や悪口を言わない(8b)。③酒に溺れない(8c)、④不正な利をむさぼらない(8d)。当時の執事は、家庭訪問に従事する機会が多かったため、③と④の心掛けは特に重視されたのであろう。⑤単に実務的能力があるだけではなく、霊的な確信を持っている(9節)。⑥以上の実践が確認されている(10節)。⑦やはり良き家庭の長である(11-12節)。

なお、11節の婦人執事は、執事の妻ではなく、女執事と考えられる。確かに、バプテスマや訪問とかの付き添いなどにおいて女性の働きが求められた。しかしその働きもまた、日々の良き実践に基づくものでなければならなかった。そしてこのような執事の職務を忠実に果たし得る者は、教会内においてよい影響力を持ち、自らも一層深い霊的成長を遂げ、確信に満ちた歩みができる、というわけだ。

14節からは、新しい段落となる。実践を確認され選ばれた人が、教会をどのように建てあげるべきかを語っていく。その初めに、指導者がよって立つ信仰の土台についてパウロは確認する。

教会は、神の家である。明らかに建物ではなく、霊的に整えられた者の家族的な集まりである。また、霊的な真理の拠り所である。キリストの福音が明確に語られる場である(15節)。確かに、と、パウロは、その真理を要約する。これは当時流布していた賛美歌であったのではないか、と考えられているが、ここに十字架と復活についての直接的な記述はない。しかし言い含められているとも考えられる。教会は、その家族愛をもって世の光とされる場である