レビ記22章

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日は、祭司が、祭司のために聖別されたものをどう取り扱うか、が語られていますが、それは、私たちが聖別された聖餐にどう与るかに通じる内容を持ちます。また聖別されるべきものは、どうあるのか、についても、私たちの心が探られるところでしょう。主に私たちの魂が引き上げていただけるように。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

22章も続けて祭司に対する戒めであるが、21章で語られたことは、祭司自身が、神のパンを扱うその職務の故に聖さを保つべきことであった。22章では、祭司のために、聖別し、分かち合われたものを慎重に扱う、ということである。著者は言う。「イスラエルの子らの聖なるものは慎重に扱え。わたしの聖なる名を汚してはならない。それは彼らがわたしのために聖別したものである。わたしは主である」(2節)。三つの点から、祭司のために聖別されて分け与えられたものを慎重に扱うことが教えられる。
1.聖別されたものを受けるために(22:1-9)
 第一に、祭司の汚れによって、聖なるものを汚すことがあってはいけない、ということである(1-9)。どのような時に祭司は汚れているのか。4節以降、具体的に、神との交わりを断つ種々のケースが語られる。それらはすでにこれまで見てきたものであるが、ツァラアトに冒された場合(13章)、漏出のある場合、精をもらした場合(15章)、そのような場合は、聖別されたものを自由に食べることができない。まして祭司は、自然に死んだものや裂き殺されたものを決して食べてはいけない(17章)と教えられる聖別されたものは聖別された心で受けることが重要なのである。
確かに今日、万人祭司である聖徒が、神の聖別されたものに与ることを具体的に考えると、それは聖餐に与ることを考えさせてくれる。聖餐のパンもぶどう酒も聖別されたものであり、それを受ける時には、私たちは自分自身を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲むように勧められている(2コリント11:27-31)。そして聖別されたものに、ふさわしく整えられているというのは、美しくも氷のような聖さに立つことではなく、何よりも自分自身では自分を何一つ聖めえず、ただ、イエスの十字架にある罪の赦しを切に祈り、イエスの罪の赦しを心に受ける他なし、とイエスと共に神の前に立つ心を持つことである。聖別されたものを受けるに必要なのは、主に聖別していただくことである。
2.聖別されたものを受ける範囲(22:10-16)
 第二に、聖なるものを分かち合う範囲を間違えることによって、聖なるものを汚してはならない、と語られる(10-16)。祭司は、聖なるささげものを食べることができた。祭司の家族もそれに与ることができた。しかし、祭司の同居人にはそれができなかった。祭司の娘が家を出たなら食べてはならない。しかし、離婚されて子どももなく家に戻ることになれば、それは問題がない。これは、今日で言えば聖餐の範囲について語っていると考えることができる。聖餐の意味は、罪の赦しの確証、神の愛の確認であるとすれば、神の愛をまだ知らない者、神の愛を認めて、イエスの十字架にある罪の赦しを受け入れる告白をしていない者は、これに与ることは難しいということだろう。それらは聖別された者であり、キリストにある罪の赦しを受け、新生し、神の子とされた者らが受けるにふさわしいものである。聖餐はキリスト者のみの特権である。そのようなものとして聖餐の時を過ごさねばならない。
興味深いことは、あやまって食べた時に、その償いの方法が教えられていることだ。あやまって食べてはいけないのであるが、それで終わりではない。神の法則は常に愛に基づく。聖であることを語りながら、それが愛によって実行されることを語っている。
3.聖別されるべきささげ物(22:17-33)
 最後に、聖別されるべきささげ物について語られる。それらは、欠けのあるものであってはいけない、という。私たちは神に対して最善のものをささげなくてはならない。神は私たちに、ご自身の最愛の御子イエス・キリストをささげてくださったことを忘れてはならない。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです(2コリント8:9)。」
とパウロは語ったが、神は私たちに最善をなしてくださっているのに、私たちは、あまりもの、二の次のものをささげている、ことがあるだろう。
献金の原則は喜んでささげられるものをささげることである。それは心を見られる神の前に、嫌々ながらささげてもしょうがないからである。しかし、喜んでというのは楽にということではない。この程度だったら楽にささげられるというものではない。それは、時間のささげ方にしても同じである。今は余裕がないから、と個人で祈る祈りの時間も、礼拝に出席する時も後回しにしてしまう、これがまさに自己流の自己肥大の信仰生活なので会って、このように神を二の次にする人生は、神に最善のものをささげて生きていることにはならない。神に最善のものをささげて生きることには、神の国と義を第一にする人生である。それは、栄光の主を認め、そのために心遣いをし、よくよく選び抜かれたもの準備されたものをおささげしていくことを意味する。
 なお、犠牲動物の母親とその子を同じ日に殺してはならないという定めは、むやみな残酷行為を禁止する(28節)。たとえ犠牲に供せられる下等動物であれそこに愛情を忘れない。それが神の民としての法である。神にささげることにおいて、最善を尽くす、そして愛情を忘れない。大切な原則である。それによって、人々は神がどのような方であるかを理解するからである。理性的にはわかっても、何か違う、人を認めていないと思うようなあり方は、違うのである。わたしたちがいかにささげるか、それ自体が、神の栄光を人々に示すことになる。

レビ記21章

レビ記21章 祭司の聖別
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。キリスト者は聖であることを求められても、聖別するのは主であることを覚えなくてはなりません。自ら聖さを意識するあまりに神の与えられる聖さとおおよそ違う、自己満足的な聖に陥ってはならないのでしょう。主の聖さに与る生涯へと導かれたいものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.祭司の定め
これまでは、一般的にイスラエルの民が、神の民として、個人生活においても共同体生活においても聖でなければならない、と語られてきた。ここでは、祭司の場合、なぜ彼らが聖でなければならないか、が語られる。それは、祭司の主要な職務が、主への食物のささげもの、神のパンを献げることにあるからだ(6節)。その理由は、繰り返されている(8節、21節)。神の前に出て、民のとりなしをするのであるから、その働きのゆえに、聖でなければならない、身を汚してはならない、という。
「主への食物のささげ物、香ばしい香り」(9、13、17節)については、すでに2章で解説したが、古代においては、神に崇敬の念を示すために、ささげ物において神に食物が提供されるという考え方があった。しかしイスラエルにおける主への食物は、そのような物質的な意味ではない(詩篇50:8-15)。あくまでもささげ物に象徴される霊的な意味こそが大事にされた。つまりささげ物を携える者の感謝の気持ち、信頼、献身、神への愛が、神に受け入れられる、神にとって香しいささげ物なのである。
ところで、21章、22章と呼んでいくと、繰りかえされるフレーズがあることに気づかされる。「聖別する主である」ということばであるが、8節、15節、23節、そして明日読む、次章22章の9節、16節、32節に6回出て来る。それが一つの意味段落を導いている。だから1-9節は、祭司の葬儀と結婚について、10-15節は大祭司の場合、16-24節は、祭司の身体的条件となる。
1.祭司の慶弔事(21:1-9)
そこで、祭司が弔事に関わる場合、まず死人と接触してはならないとされる(1-6)。というのも、死は罪の罰として人を汚すからである(民数19:11-13)。父、母、息子、娘、姉妹の場合は例外とされるが、妻の場合については何も言われていない。それは妻が、近親の者というよりも、一体の者という特殊な立場にあるためなのだろう。「頭をそってはならない、ひげの両端をそり落としてもいけない。からだにどんな傷もつけてはならない。」(5節)とある。旧約外典『エレミヤの手紙』(6:31)に、死を悲しむ異教の祭司の行為として描かれているが、そうした異教の習慣を真似てはいけない、とされる。
次に、祭司の祝い事、結婚についてであるが、祭司が結婚する場合は、貞淑な女性、離婚されたことのない女性でなければならない、とされる(7-8節)。その理由は、祭司が聖なる職務を務めるからであると二度繰り返されている。興味深いことは、8節、「あなたは」とあることだ。つまりこれはイスラエルの民のことで、民は、祭司の聖さを守るために協力しなくてはならない、という。今日でいえば、信徒は、牧師がその職務を全うできるように協力しなくてはならない、ということだろう。牧師の職務も牧師だけの努力で守られるわけではない。信徒の協力あってこそ成り立つものである。
2.大祭司について(10-15節)
10節からは、祭司は祭司でも、大祭司についての定めである。大祭司については、先に述べた祭司の定めよりもさらに厳しいものである。まず、大祭司は、人の死に際して、「髪の毛を乱したり、装束を引き裂いたりしてはいけない(10節)」つまり、悲しみの感情を外に出してはいけない、と戒められる。聖所から出て行ってはならない、という命令も(12節)死人に関連したものであり、死人に敬意を払おうとして聖所を離れてはいけない、ということである。つまり、総じてどのような死に接しても、その死に感情的にのめり込むことは許されなかった。また結婚に際しては、同民族の処女とでなければ結婚できないと制限が加えられる。
3.祭司の身体的条件(21:16-24)
17節以降、犠牲動物が無傷のものでなければならないのと同様に、それをささげる祭司も身に欠陥があってはならない、とされる。身体的欠陥とは、目や足が不自由であること、手足の長さに不釣り合いがある者、骨折した結果外観が正常ではない者、せむし、肺病などである。ユダヤ教では、サンヘドリンの議会が、祭司を検査し、任職後も定期的に検査を実施したという。ただ、このような人たちは、祭壇に仕えることはできなかったが、その聖なるいけにえの肉にあずかることは可能だとされた(レビ2:3、10)。彼らは神との交わりから排斥されるわけではない。特定の職務、祭司職には立つことができないとされる。これらは、一般の人には関係のないことであったが、民もこれらを理解して祭司を聖く保つ務めがあり、さらに祭司の資格審査には長老が加わる必要もあったので、すべてのイスラエル人にこうして、祭司の資格が告げられる結果になったのだろう。
後の時代、これらは、文字通りに厳格に守られたようである。実際イエスは、良きサマリヤ人への譬えの中で(ルカ10:31)、祭司とレビ人が、瀕死の人を見ながら、助けようとせず、道の反対側を通り過ぎて行ったことを語っている。しかし、イエスは、それを是としたわけではなく、むしろ、神の愛、憐れみ深さを実行していない人の例として語っている。となれば、これをどう読むべきなのか。私たちの模範、私たちへの主の期待として読むには、あまりにもハードルが高いばかりか、その実行は、人間性を失わせる、と思わされるところではないか。確かにイエスは、あわれみを犠牲にしてまで聖さを保つことには意義を唱えていた。大切なのは、繰り返される鍵語「あなたがたを聖別する主」ということばだろう。人間を聖別し、人間に聖さを与えるのは主であり、人間ではない。人間はどうしても杓子定規にルールを守り、自分の聖さを作り出そうとするものだろう。しかし、人間が自分の努力で生み出す聖は、せいぜい、あわれみを犠牲にした聖さであり、美しくも氷のように冷え切った聖さなのである。人間は悩むがゆえに人間なのであり、聖さと愛のバランスの中で悩みながら、愛に基づいて行動し、神に聖を着せていただく者ではないだろうか。そういう意味では、神のパンをささげるための完全な祭司、大祭司は、歴史上イエスを置いて他に存在したためしはなく、この方に、21章で要求されている完全な聖が実現されていたのだ、と読むべきなのだろう。つまりレビ記21章は律法的に読むのではなく、予型として、約束の救い主イエスにおいて実現し、イエスの十字架の故に実現している祭司としての条件である、と読んでいくのである。そして、今日万人祭司と言われる私たちも、神のパンをささげる、つまりとりなし手としての働きがあるのだから、当然、この箇所における聖さを追求するように求められているのであるが、神の期待に副おうとしても副いきれない、あるいは全く副っていない現実を覚えながら、しかしそのような弱く欠陥だらけの私たちをも、イエスの十字架にある罪の赦しをもって聖を着せてくださる、聖別してくださっている、ことを覚えて歩ませていただきたいものである。

レビ記20章

20章 主の掟と定め(異文化との分離)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日の箇所は、18,19章の繰り返しでありながら、罰則が加えられているのが特徴です。それだけ、神の律法に生きることが徹底されている、というべきでしょう。しかしそれは、神の民としての新しい歩みの目標を示すだけではなく、そのような歩みを導かれる生ける素晴らしい神がおられることを証することに力点があるのです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.偶像崇拝に対する罰則(20:1-8)
モレク礼拝や種々の性的な罪については、すでに18章にて、また霊媒についてはすでに19章に取り上げられている。どうも、この20章は繰り返しのようにも思われるが、よく読むと、戒めのみならず厳しい罰則を加えているのが特徴である。つまり、20章は、18,19章で取り上げられた聖い行動について、規定が破られた場合の罰則を語るものである。というのも他の近東諸国では当たり前のようにされていた事柄もイスラエル人には罪深い行為であることを示し、聖さを教えようとしたためであろう。
 モレクは、アモリ人の神であり、子どもや幼児を犠牲として偶像にささげ、生きたままに焼き殺す恐るべき慣行であった。このような嘆かわしい罪は、石打に値するという。その刑を執行するのは「この国の人々」である。これが一体何を意味するのか、刑を実際に執行する「立法上の議会」、影響力を持った集団、土着住民など、種々の説がある。ともあれ、このような行為を知りながら目をつぶり、黙認することも、神は許されない(1-5節)。
 また霊媒や口寄せ、いわゆるイスラエルの民が住まう近隣の国民が未来をうらなう方法を真似る者も同様の処罰を受ける(6-8、27節)。こうして、個人として、共同体として聖くあらねばならぬことが繰り返される。だからキリスト者になることは、この世の習慣にどっぷり浸りなんとも思わずにいる自分の現実に気づくことから始まると言える。知らず知らずに、世の中の慣行が当たり前だと思って歩んでいるものである。日本人には日本人の文化があり、異文化に接触して初めて、自分の行動が、必ずしも当たり前ではないことに気づかされたりするようなものであるが、キリスト者として成長しようと思うなら、聖書の文化をよく理解しなくてはいけない。聖書の文化に自分自身を研ぎ澄ます思いがなかったら、なかなか信仰は深められない
2.性的な罪への罰則(20:9-27)
父や母をのろう者(9節)、近親姦、同性の性的交渉、獣姦、という種々の性的な罪も、必ず殺されなければならないと厳罰が宣告されている(10-21節)。近親姦については、すでに18:6-23禁じられている。しかしここでは、その罰が述べられている。こうした戒めが語られる背景は、一つは異邦人の慣例があったのみならず、ユダヤ人の結婚が近親関係として近い人との間で結ばれるのが一般的であったため、血縁として受容できる範囲を明確にする必要があった、と考えられている。
 ともあれ戒められるだけではない、厳罰が下される、その根拠が、「わたしは、あなたがたをわたしのものにしようと、諸民族の中からえり分けたのである」(26節)ということなのだろう。しかも、「わたしはあなたがたを聖なる者とする主である」(8節)と語られている点が重要であろうかと思う。
 つまり、イスラエルは、選ばれ、約束の地カナンへと向かっていた。彼らはその約束の地において、固有の道徳的、霊的な聖さを持つ生活を営むことを期待された。それは聖いまことの神を証しするためであった。だから、神の民として、神を適切に礼拝する方法が教えられ、また聖なる生活に生きる方法が教えられた。これはキリスト者もまた同じである。キリスト者もまた生き方において聖なるものであり(1ペテロ1:14-15)、肉の働きを避け(ガラテヤ5:19-21)、神に従い、神の栄光を表すことが期待される。
 こうしてレビ記は私たちにとって一つの型を提示する。私たちも、約束の地、天の都に与るべき選び出された民であり、その地にふさわしい、固有の道徳的、霊的な聖さをもって日々歩んでいる者である。しかもそうするのは、私たちの自己満足のためではなく、証しのためである。私たちを通して、神の栄光の素晴らしさが証しされて、共に天へと向かう人々を巻き込んでいくためなのだ。
 神の掟と定めは行動のための指針である。違反の可能性を持つ者へ警告を与えられる。さらに神はただ単に、掟と定めを与えられるお方ではない。それらに沿って生きることができるように、力を与えられるお方である。神は聖を望まれるだけのお方ではない。私たちを実際に聖なる者としてくださるお方である。パウロは言う。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、そのよい行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)そういう意味では、キリスト教信仰というのは、単に倫理道徳的な人生を生きるように教える宗教なのではなく、神がそのように歩む力を与えてくださるし、そのように恵みをもって歩ませてくださる生ける神がおられることを世に証ししていくものである。今日も、神が備えてくださる歩みを進めさせていただきたいものである。

レビ記19章

19章 主の十のことば(十戒)

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。キリスト者は、生活の聖いさを求められるのですが、それは実際的には、様々な関係や課題を悩みぬくところにあるのかな、と思うところがあります。聖い生活をしていると思ったら、もう聖くない。そんなところがあるのではないでしょうか。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

 種々の戒めが語られる。ざっと読んで、まとまりのない戒めのように思えるが、実は、ユダヤ人の目から見れば、これらの内容は十のことば(十戒)に対応するものである。つまり、4節は第一戒、第二戒、12節は第三戒、3節は、第四戒、第五戒、16節は第六戒、29節は、第七戒、11-16節は、第八戒、第九戒、18節は第十戒という具合に。これらは、十戒をさらに説明しているのである。
1.宗教上の義務(19:1-10節)
さて、「わたしはあなたがたの神、主である」(2節)が強調され、「地のならわしをまねてはいけない」から積極的に、「主であるわたしが聖であるから、あなた方も聖なる者とならなければならない」と言い換えられている。まねてはいけないのではない、自分自身から愚かさをそぎ落としていくだけではだめで、むしろ積極的に神の聖い価値に与っていく、神の聖い価値に生きていくことが勧められる。そこで十戒がさらに具体的、実践的に説明されている、と考えてよいだろう。
そこでまず3節「自分の母と父を恐れよ」と聖さは家庭から始まる。両親を敬うことは、神に対する愛の行為そのものである。そもそも聖さは、何よりも今ある関係性の中でこそ育まれるものである。聖さは、個人的、孤立的に確立されるものではない。今ある関係性と離れて確立されるものではない。神が与えられた関係(実際の家庭、神の家族としての教会という家庭)を大事にしながら、そこで悩み抜くことなくして自らの救いを完成することはない、ということだ。家族というのは、逃れられない関係であって、そのような関係を否定して、その人自身の本当の成熟も救いもない。
また主は「安息日を守らなければならない」と命じられる。今で言えば日曜ごとの礼拝を守っていくことである。その昔は、聖日厳守、聖日死守などという言い方がなされたが、今ではそんな言い方もあまり聞かれない。いつでも礼拝の時は与えられているからだ(ローマ12:1)。しかしながら、礼拝は神が召しだした時と場に赴くことが基本である。そして大切なのは、「安息日」を守るのではなく、主との「安息」を守るのである。その日に教会へ行かなくてはならない、というのではなくて、その日に、神とお会いし、神とのよき時を楽しむ、という心を持つことだ。神の臨在が確かであれば、聖日を守ることが本当の喜びとなる。そして私たちの聖さは、神を第一に拝するところに現されていく。
4節、偶像礼拝はいかなる形でも禁じられる。「偶像」はヘブル語でエリーリーム。「意味のないもの」「実態のないもの」を意味する。確かに、木や石で造られた偶像に実体はない。そうしたものを神として拝む虚しさは、よくよくわからなくてはならない。が、日本人には、わかりにくい部分である。
さらに、私たちの聖さは儀式的に適切であることをもって現される。定められた手順に従ってなされなければならず、そういう意味では、私たちの礼拝のありようも、どんなに豊かな内容を持つようであっても自己満足的であってはならず、神の定めのとおりに、神の期待されるとおりにささげられる必要がある。私たちは完全に聖書的であることをもって聖いとするのである。そして、神の民の貧しい者へ配慮する心も聖さの内である。困窮する人から搾取してはならず、人は必ず血の通う方法で取り扱われなければならない(9-10節)。
2.自分の隣人の愛(19:11-18節)
そういう意味では、家庭のみならず、あらゆる人間関係において、神の聖さは、考え抜かれなければならない(14-18節)。隣人は、愛すべきものであり、憎んだり、恨んだり、中傷したりしてはならないのである。愛は多くの罪を贖う、と言うが、今の隣人関係を否定して、私たちの幸せは決してありえない。偽りや欺き、しいたげやかすめとり、不親切、不正、中傷、憎しみがあるところに、神の聖さもない。ただ、そのように言われても、私たちの憎しみ、恨みは、無意識レベルの出来事である。大切なのは、キリストの救いにより頼むことであろう。キリストを信じるというのは、一度信じてそれでよしというのではなく、何度も悔い改め、罪赦され、新しくされる、繰り返しの歩みである。
3.様々な規定(19:19-27節)
最後に、諸習慣において(19-37節)神の聖さを意識していくべきことが教えられる。異種混合が禁じられる。また異教の習慣である血が完全に抜き取られていない食物、易、まじない、霊媒といった迷信的行為、入れ墨をしない。老人は大切にし、外国人には親切にし、商売は公正に行う。理性的に考えれば、当たり前に言われていながら出来ていない事柄である。神を信じる者は聖霊の助けによってこれらのことをなし、神の聖さを証しする。

レビ記18章

18章 異教的習慣からの分離(近親姦,同性愛,獣姦)
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日の箇所は、儀式上よりも倫理的な汚れを意識し、神の民としての高い倫理に生きるように教えられているところです。しかしどんなに倫理の高嶺を目指しても、不完全な者であることを覚えなくてはなりません。ただ主イエスの十字架の憐れみの中に、霊的に、倫理的に前進するように許されていることに感謝するまでです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1.基本的原則(18:1-5)
これまでは儀式上の汚れについてその掟とさだめを語ってきたが、18章では、道徳的な汚れについてのそれらを語っている。「あなたがたは、自分たちが住んでいたエジプトの地の風習をまねてはならない。また、わたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地の風習をまねてはならない。彼らの掟に従って歩んではならない(3節)・・・あなたがたは、わたしの掟とわたしの定めを守りなさい。人がそれらを行うなら、それらによって生きる。わたしは主である」(5節)と語られる。
つまり神の民としての道徳基準についてその基本原則が語られ、同時代の他の国の習慣と対比されている。彼らは、過去の慣わしを引きずるのではなく、また新しい土地での習慣に染まるのでもなく、上からの掟とさだめに倣うように教えられた。イスラエルの民にとって、それは、エジプトやカナンの文化風習と区別された生き方をすることであって、具体的に、当時の周辺諸国に見られた近親姦(6-18節)、不倫(20節)、人身犠牲(21節)、同性愛(22節)、獣姦(23節)をイスラエルの国から除き去ることであった。
確かに、神を信じて生きるということは、これまでの生活にただ毎週礼拝に通うという宗教儀式を加えることではない。それは、神に親しんで、神のみこころにかなう品性や人格を養い育てつつ、新しい人生を生きることである。それは体裁上よい人となるというのとも違う。純粋に内面の実を結ぶことに他ならない。したがって近親姦が戒められているのは、それが、不妊や異常児の誕生を招き安い遺伝的な危険を持っているからだけではなく、また、テント生活の遊牧民には起こりがちな一時の激情の結果による性的搾取やそれに伴う家族間の苦悩を防止するのみならず(18節)、神の聖さを着せてくださるその恵みに与ろうとするためである(19:2)。
2.違法な性的交わり(18:6-23)
実母は当然ながら、継母、姉妹、異母姉妹、孫、継孫娘との結婚と性的関係が禁じられている。しかしこれはイスラエル人にとっては新しい内容も含んでいる。というのも、アブラハムは異母姉妹と結婚しており(創世記20:12)、アムラムも、叔母のヨケベテをめとりアロンとモーセを産んでいる(出エジプト6:20)。主に従う倫理観は、私たちの世的な慣わしを超えたところにある。イエスも、「彼らのまねをしてはいけません」(マタイ6:8)と言われた。世の風潮や習慣がいかであろうとも、神の民として生きる倫理がある。同様に、同性愛(22節)が戒められる。同性愛については、神学的にこれを理解するための少なくとも、全的に受け入れる立場から全く拒否する立場まで、段階的に四つの立場があるが、ここでは単純に「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない」と戒められている。
大切なのは、人間の罪の現実は、生まれつきのものであることだ。エレミヤが「豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができるだろう(エレミヤ13:23)」と語ったように、不倫、不品行、盗み、どん欲、よこしま、欺き、ねたみ、高ぶり、愚かさといった人間の罪の現実は、神の力なくしては解決することができない。それらは人間の意志ではコントロール不能な、内側から湧き上がってくるものだからだ。医学的、生理的に変えがたい現実がある。イエスの十字架と復活の望みがあればこそ、どんな罪人にも救いの希望がある。
3.原則の確認(18:24-30)
ここで中心となるのは、主の民は主の戒めを守ることである。主を愛するとは言うが、実際生活は全くそれにそぐわない生き方をしてしまうのが人間の常である。性倫理の点においては、全く乱れはないとしても、他の点で、妬みや高ぶりの点で全くどうしようもない状態にあるのが人間である。性の掟とさだめはモーセの十のことばからすれば、その一つに過ぎない。性の掟と同列に、安息日の定めがあり、父や母を敬う掟があり、さらに、むさぼりへの注意が語られている。主に従う生き方が完全にできたならば、クリスチャンは本当に尊敬に値する存在になるのかもしれないが、実際には、クリスチャンとは言えども、世の人々の目には、自分たちと何ら変わらない俗人に見えていることもあるだろう。つまり人間は、不完全であることから逃れられないのである。しかし、そうであっても、完成へ向かう、主に向かっている真摯な姿勢があるかどうかなのである。ともすると、主よりも自分の都合や、自分の関心、自分の欲望を優先させてしまう、この世の生活と変わらぬ現実がある。色々と言い訳をする前に、主にある者として、いつでも自らを仕切り直しをして生きていく勇気を持ちたいものである。