ヨハネの黙示録2章

2-3章は、共通の構造を持つ。それぞれの手紙は、次の同じような構成となっている。(1)書き送れ:復活の主からの委託、(2)復活の主の描写、(3)復活の主からの称賛のことば、(4)非難されるべき点、(5)どのようにして正すべきか、という矯正のことば、(6)招きのことば、(7)挑戦のことばである。2章は、四つの教会へ書き送られている。

まずエペソにある教会であるが、エペソは、アジア最大の都市である。シリヤのアンテオケやエジプトのアレキサンドリヤとともに、東地中海3大都市の一つとされる。しかしそれだけに、クリスチャンが礼拝を捧げ、教育と伝道を進めるには難しい町であった。「右手に七つの星を持つ方」つまり、右は、権威と力の象徴、星も指導力の象徴であるから教会のリーダーシップを真に握っておられるキリストから、エペソにある教会へ称賛のことばが語られている。行い、労苦、忍耐、誤った教えを受け入れなかった識別力、その信仰の正当性が称賛されている。イエスはそれらを知っている、という。そしてしかし初めの愛から離れてしまった、と非難されている。愛を失ってしまったわけではない、離れているのである。実際、イエスが「知っている」と称賛したのは、エペソの人たちの愛の「労苦」だ(2節)。それはしなくてもいい苦労をすることを意味する。そういうものがなくなってしまった。燃えるような、濃ゆい愛がなくなってしまった、ということである。そこで5節。まず思い出せ、と言う。いったいどこからおかしくなったのか、そして悔い改めて、初めの行いに立ち返りなさい、と。6節のニコライ派は、正確に何を、誰を指しているのか、その教えの内容も不明である。おそらく偶像礼拝や不品行、不道徳という形で人々を滅ぼすような教えを言っているのだろう。

次にスミルナにある教会へのメッセージ。スミルナは、BC600年頃に、一度滅亡した町で、290年頃に再建された。そして再び栄えて、アジアの華とか冠と呼ばれて、それが後の10節、冠を与えるということばとつながってくる。「初めであり終わりである方」その中間に今の私たちの歴史がある。歴史を始め、今も歴史を支配し、やがて今の歴史を終了させる神からのことばとして「苦しみと貧しさとを知っている」という。苦しみは、スリプシス、物理的な圧力で砕かれることを意味する。厳しい労働、心労、逆境、迫害といった様々な圧力、つまり迫害が意味される。また貧しさは、プトーケイアで、極度の貧しさ、全くの無一文を意味する。社会でクリスチャンとしての筋を通そうとして、生活上、商売上の不利益に遭遇する(黙示録13:15-17)問題があった。しかしその苦難は、10日の間、つまり限られている。まもなく終わるものであるから、恐れずに死に至るまで忠実であれという。冠は、ステファノスで勝利のしるしを意味する。

第三の教会はペルガモン。サタンの王座がある、つまり、クリスチャンが生活し、また伝道活動をするには、あまりにも困難な地域であった(13節)。実際ペルガモンは皇帝礼拝や様々な偶像崇拝の中心地であった。彼らは、こうした難局にあって妥協の道を歩んでいた。イエスは、直截に「自身の罪に立ち向かうように」と手紙を書き送る。「鋭い両刃の剣を持つ方」、つまり裁き主であるイエスが、心を変え、意識を変え、そして生活を変えるべきことを求めている。もし、妥協し続けるなら、「わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう(16)」という。そして悔い改めた者には、「隠れたマナを与える(2:17)」という。「白い石」は種々の説がある、キリストの祝福が意味されている、と理解して間違いない。

最後にティアティラにある教会。ティアティラは、製造業と商業中心地として繁栄していた町である。毛織物、亜麻布、染色物、服地、革製品、焼き物、陶器、青銅の品、そして奴隷、多岐わたる貿易組合が存在していた。「燃える炎のような目」心の深い所にある思いをも見抜く裁き主の目を意味する。「足は光輝く真鍮のような神の子」真鍮は、銅と亜鉛の合金。力と卓越性を伝える。その方が「あなたの愛と信仰と愛と奉仕と忍耐」を知っているという。しかし、問題は、自称女預言者とされるイゼベルが教会に害毒をまき散らすままにしていることだ、という。イエスは、誤った教えや罪深い行為に立ち向かい、それ除き去ろうとせず、むしろ黙認している教会を問題にしている。勝利を得る者には、イゼベルに代わる支配の権威が約束される。

これらは、キリスト者を落胆させるためではなく、むしろ励ますため。傷つけるためではなく、彼らを本当の意味で助けるため、主のために無用ではなく、有用な者とするためのことばである。

ヨハネの黙示録1章

ヨハネの黙示録は難解な書と思われることが多い。しかし、それは、当時のユダヤ人にはわかるような書き方がなされている。つまりユダヤ人の文化や旧約聖書に親しんでいれば、それほど難しい書物ではない。

まず、これは「イエス・キリストの黙示」である。ヨハネが創作したものではなく、キリストが明らかにしてくださった黙示である。しかも、ヨハネは幻を通して知ったことを、語り伝えている(2節)。彼は語られたことばを聞いてではなく、自分自身が見たすべてのことを証したのである。

なぜか、それは、私たちの幸いのためである(3節)。「朗読する者」は単数形、「聞く人々」は複数形が使われる。つまり黙示録は、公の教会の集会で読まれるように書かれた。そしてただ聞くだけではなく、心に留めるために書かれた。心に留めるは、ギリシャ語で、テーロー。守るという意味。従うという積極的な姿勢で心に留めるということである。

4節、アジアは、当時ローマの支配下にあったアジア州を指す。今日ではトルコであるが、そこに位置する七つの教会へ宛てて書かれた。しかしユダヤ人にとって「七」は完全数である。また「御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」(2:7、11、17、29、3:6、13、22)という命令の繰り返しから見て、当時のアジアだけでなく、世々の教会全体を象徴的に意味していると考えられている。つまり、現代の私たちに対しても語りかけてくるものがある。

それらの教会に、「今おられ、昔おられ、やがて来られる方」から挨拶が送られる。「今おられ」は今も父なる神が万物の支配者であることを意味する。「昔おられ」は、父なる神が創造なる神、創造主であることを言う。「やがて来られる方」は、やがて歴史を閉じられる義の裁き主、実際には再臨の御子イエス・キリストを意味する。だから、ここでは三位一体の御子イエスの神性が明らかにされている。また「その御座の前におられる七つの御霊から」は七を完全数と取れば、完全な神である聖霊ご自身からということ。こうして5節三位一体の神から挨拶が送られることになる(4,5節)。完全な神からのご挨拶である。

その神と私たちにどんな関りがあるのか。6節。キリストが私たちにしてくださったことが列挙される。

①私たちを愛してくださった。

②私たちをその血によって、罪から解き放ってくださった。

③私たちを王としてくださった。

④私たちをご自分の父である神のために祭司としてくださった。

ここに神をほめたたえる根拠がある。

そしてそのキリストは、加えて約束されたとおりに、目に言える形で再臨される、という。その時には、すべての人が、主の正しかったこと、そして裁き主であったことを認めるようになる、という。アルファは、ギリシャ語の最初、オメガは、ギリシャ語の最後の文字である。最初で最後つまり、主は、永遠の主であり、主のことばに偽りはない。主のことばに注意深く耳を傾けべきことが促されている。

さて、ヨハネはこの啓示を受けた時に、パトモス島にいた。パトモス島は、銀山のあった島で、人が住むような場所ではなかった。彼は、キリスト教信仰の故に、迫害を受け、島流しにされていたのである。それはまさに「イエスにある苦難」であったが、同時に、それは御国に与ることとされる(9節)。すでに90歳近い年齢となっていたヨハネにとってそれは、あまりにも過酷な環境であったにもかかわらず、ヨハネはそこで御国の祝福を見出していた。そしてそれが「忍耐」の時であることを心得ていた。苦難にあっても動じないヨハネの姿が印象的である(9節)。

そこでヨハネは幻の内に、イエスに出会っている。イエスは、七つの教会、七つの燭台の真ん中に立っている。この「七」も完全数、全体を現す数字として理解したらよいのだろう。「燭台」は20節で、「教会」と言い換えられているので、全世界の教会の中心にイエスが立っておられるイメージを伝えている。そしてイエスの御姿を7つの直喩(~のような)で比ゆ的に語ろうとしている。「その頭と髪の毛は、白い羊毛のように雪のように白く」(14節)は、御子の完全な純潔さを「その目は、燃える炎のよう」(14節)は、主の厳しさを伝え、ヨハネはこれら比喩を通して、イエスの素晴らしさと卓越性を伝えようとしている。そしてこの、圧倒的な神の栄光を前に、ヨハネは神の前に深い畏怖を抱いている。実に、神の前に立つということは、極めて厳粛な経験である。それは恐れ多い、地に伏す経験である。しかし、神は私たちに友のように語られる「恐れるな」と。

ヨハネは、今見ていること、そしてこれから後起こると語られる二つのことを書き記すように語られる。黙示録は、当時のユダヤ人、そして今の私たちに対する二重のメッセージを持っている。だからこそ、今の私たちも耳を傾けるに値するものである。そして耳を傾けるなら、幸いであるとされる。なぜなら時が近づいている。歴史の幕を開けられた主が、歴史の幕引きをする時が近づいているからである。これから心して黙示録を読ませていただくこととしよう。

ユダの手紙

教会には、信仰を伝える努力と同時に、信仰の純粋さを守るための努力がある。つまりこれは正しいこと、これは間違っていること、と教えていく努力がある。結局信仰は、価値、考え方の問題で、私たちが拠って立っているのは、聖書の価値なのだから、聖書の価値を互いに共有することが重要なのだ。ユダがこの手紙を書き送った教会は、聖書の価値とは違う考え方に影響されていた。彼らは、信徒の仲間に入り、愛餐の席に連なっていながら、真理を曲げ、否定し、神の恵みを嘲笑する者たちであった。こうした偽教師の運命は、以下のように記されるが、このあたりは、ペテロの手紙第二2章の内容とよく似ている

①エジプトから救い出されても信じない人々は滅ぼされた(5節)

②自分の領域を守らない御使いは、永遠の暗闇に閉じ込められた(6節)

③ソドム、ゴモラは、永遠の火の刑罰を受けた(7節)

語られていることは、あまりピンとこないし、今の教会とは関係がないように思われることもあるかもしれない。しかし、彼ら偽教師の本質的な問題は、神様を畏れないことにある。神の戒めに耳を貸さないことにある。神は、申命記6章にて、私たちが神の戒めに聞き従うことが幸せの法則そのものであることを語っている。そういう意味では、私たちも、神を畏れておらず、高慢になり、神の恵みを放縦に変えている現実があるのであって、そこに気付かない限り、私たちはこのユダの手紙のメッセージの深さを理解することもできないだろう。

続いてユダは、そういう問題が私たちにはあることを理解させた上で、どのように、信仰の純粋性を保つ問題に対処するのか、戦っていくべきかを語っていく。

第一に、そのような背教は、当然起こることと心得よう(17-19節)。教会の中で、指導者に不従順であること、また、教会を分裂させるような問題は、当然起こることである。それは、自分の不敬虔な欲望を野放しにする者が現れるからである。クリスチャンと称しても、その中身は色々である。時代が悪くなればなるほどに、識別の目を働かせなくてはならない。

そこで第二に自分の信仰を育てることである(20,21)。神により頼んで、ますます自己ベストの信仰を進ませることである。1年前の自分と比べて、どれほど信仰が進んだのか。あの人よりはまし、そんな生き方ではなくて、今日、自分の信仰は1年前の自分、2年前の自分とどれだけ違うか考えてみることだ。どれだけ、聖霊によって祈るようになったのか。どれだけ、神の愛に生きるようになったのか。どれだけイエス・あわれみを待ち望むようになったのか。いつでも神の恵みの中にあって、私たちの信仰が進んでいくことへの関心を失わないことだ。

そして第三に、不信仰と不敬虔の者たちを救い出すことである(22、23)。自分のことだけを考える信仰に成長はない。疑う人々に、心から同情し、その人を敵とみなさず、いつでも暖かく受け入れてあげるのだ、という。火の中からつかみ出すようにして助けてあげなさい、しかし、罪に巻き込まれてはいけない、それではもともこうもないのだから、罪は忌み嫌うことである、と勧めている。そういう意味で、教会に切り捨てはない。識別の目は働かせるが、排除するのではない。包み込んで、主の力によって、主のものとされる、命が刷新される場が、教会なのである。神のみことばに生きる時にこそ、私たちは成長する

ヨハネの手紙第三

ガイオの教会には難しい問題が起こっていた。しかし、興味深いことは、今日もこの手紙の中に出てくるような人々がおり、同じような問題があることだ。

ガイオはヨハネによって救われた、特別な関係にあったのだろう(4節)。ヨハネは「愛するガイオ」(1節)、「愛する者よ」(2、5節)と呼んでいる。この時ガイオは、体の調子を崩していたようである。ヨハネは健康の回復を祈っている(2節)。しかしガイオは霊的には健康であった。ヨハネは、そんなガイオを素直に喜んでいる(4節)。

ガイオは、真理のための同労者であった(8節)。ガイオは、神のことばを牧会している人々を支援した。ヨハネの手紙第二では、ヨハネは、「選ばれた夫人」に偽りの教師をもてなしてはいけないと警告を与えている。しかし、ここでは、まことの牧会者、巡回伝道者をもてなすように励ましている。ガイオは、彼らに自分の家庭を解放しただけではない。お金や食べ物を提供したり、衣服を繕ったり洗ったりし、旅を支援した。それは一緒に主の働きに参加するためである。神の民が神のしもべたちを適切に支援するならば、それは失われた者に対する力強い証しとなる(7節)。ガイオのような霊的に健康で、神のことばに忠実で、真理を促進するために自分の持てるものを分かち合う人々が必要なのである。

しかし、残念なことに教会の皆がガイオのようであるわけではない。ガイオの教会には困った人がいた。デオテレペスであるが、彼は、古くからのクリスチャンであったのかもしれない。自分は先輩であり、様々なことを誰よりもよく知っていると思っていたのかもしれない。しかし上に立とうとするその姿勢がそもそも問題であった。彼の傲慢さの故に、教会では、多くの人が傷つけられ、痛んでいる状況であった。10節「意地悪いことばで私たちをののしり」というのは、「私たちに対して間違ったむなしい訴えを起こす」という意味である。指導者に対して間違ったむなしい訴えを起こす人がいる。問題は、そのような訴えを真に受ける人々によって教会がさらに混乱したことであった。不信感によって陰で語られることばに耳を傾けることほどナンセンスなことはない。本人の前で話せない訴えには耳を傾けないことである。むしろ、そのことを本人の前で話させ、本人と一緒に話し合わせるように仕向けることだ。陰で物事を大きくしたり、代弁者となったり、自分の不満を一緒に撒き散らす便乗攻撃をしてはいけない。組織の秩序を乱さない最低の心構えである。デオテレペスは、ヨハネを拒否し、ヨハネと交わる人々を拒絶した。神の愛を教えられている人が残念なことであるが、争い、分派を作っていく、これが人間の現実である。ヨハネは、読者にデオテレペスに倣ってはいけないと警告する。

そして、もし何か模範を得たいと思うなら、デメテリオにこそ従いなさい、いう。確かにデメテリオは、模範とする価値のある人物であった。彼の歩みと働きには矛盾がなかった。ガイオと同様、デメテリオは、真理の内を歩み、神のことばに従う人であった。これは二人が完全だったというわけではない。むしろ主に栄光を帰す彼らの生活に矛盾がなかったということである。

私たちに必要とされているのは、より多くのガイオやデメテリオのような人、そしてより少ないデオテレペスのような人だろう。地域教会を健康的な者にする人として成長させていただきたいものである。

ヨハネの手紙第一5章

イエスを主と告白し、信じることで私たちの内側に生じる最も大きな変化は、神を愛する心が生じることだ。それまで神など認めもしなかった。信じもしなかった。そんな私たちが神を認め、神を受け入れ、神に信頼する、そしてやがて神を慕い求めるようになる、それが救いである。ヨハネは、神を愛することは、神の命令を守ることで、その命令は重荷とはならない、と語る。神を信じる時に、神を愛する思いが生じ、神に従順な者とさせられていくからである。

さてヨハネは、こうした信仰は、根拠のないことではない。確かな証言に基づいている、という。つまりイエスが、まことに神の子であることを証言するものが三つある、という。水と血と御霊である。当時の読者にはこれで十分理解できたのであろうが、現代の私たちには唐突でよくわかりにくい。実際水と血については様々に解釈されてきた。宗教改革者のルターやカルヴァンなどは水は洗礼で、血は聖餐式を示す、とプロテスタント教会の二つの聖礼典に結び付けて解釈してきた。そこで、第二に水はきよめを、血は贖いを示すという解釈がある。第三にアウグスティヌスが示したもので、水と血はキリストが十字架につけられ、やりで脇を突かれたとき流れ出たものを示すとキリストの死の現実に結び付けるものがある。最後に、テルトゥリアヌスが提唱した水はキリストの洗礼で、血は十字架の死を意味するとキリストの生涯の出来事に結び付けて解釈するものがある。ヨハネは、イエスが実在の神の子であったこと、つまりまことの神であったことを語ろうとしているのであるから、最後の解釈が最もふさわしいのではないだろうか。キリストが神の子と公に認められた洗礼、そしてその使命に応答し、贖いを目的とする十字架の死が、イエスが信ずべき神であることを明確に語っているのである。そしてそのことをわからせてくれるのは、聖霊の働きである。確かに、キリストの洗礼と十字架の死という歴史と、聖霊の働きを通して、神はイエスが神の子であり、イエスにいのちがあることを証している。その神の証を直に受け入れるならば、私たちも永遠のいのちを得る。もちろんそれは量的な長いいのちという意味以上に、私たちが永遠の神とつながって生きることを意味している。

大切なのは、信仰者がこのいのちを意識しているかどうかである。ヨハネは、「あなたがたが永遠の命を持っていることをわからせる」(13節)と言うが、今のいのちではなく、永遠のいのちに生きていることをもっとよく理解していく必要がある。というのも、永遠のいのちに生きている、つまり、神との深い結びつきで生きているのであれば、私たちは確信を持った祈りをすることができる(14節)。そこで祈るべきことがある。自分の利益のために祈るのではなく、兄弟のために祈ることである。特に、神から離れていく人々のために祈ることである。罪に陥っている人を見たならば、その人を批判したり、排斥したりするのではなく、その人がしっかり自らの罪に向かい、勝利できるように祈ることだ。「死に至る罪」とあるが、キリストの十字架にあって赦されない罪はない、と聖書は断言しているのだから、どんな罪も赦されるはずだろう。むしろここは、キリストの十字架の罪の赦しを知りながら、また味わいながら、もはやその赦しを受けようとしない罪と考えるべきだろう。キリストにある恵を受けようとしないで罪を犯し続ける、そういう人は決して赦されることがない、ということだ。人は、大きな罪、小さな罪という区別をする。しかし、永遠のいのちの観点からすれば、死にいたる罪と死に至らない罪があるだけである。死に至る罪は、イエスの十字架を拒否することに他ならない。

神を愛することがクリスチャンの人生そのものである。大切なことは、心の内に神を愛する心があるかどうかである。神を知っている、と言いながら、神を信じていると言いながら、神を愛し慕う心がないならば、それは、偽預言者や偶像崇拝者と同じなのである。神を愛し、神のいのちに生きる、いつも朝ごとに、そのことを覚えて歩みたいものである。