コリント人への手紙第二5章

パウロは、天幕を作り、その収入で宣教活動を続けていた。1節は、そのパウロの経験に基づくたとえである。つまり、地上の幕屋は、私たちのからだのことを言っている。私たちの魂は地上の幕屋に借り住まいしている。それはやがて、壊れるものであり、「天の本当の住まい」を着る日を待ち望んでいるのである。だから、この幕屋にある限りは、2節「うめいて」、「ため息をついて」(詳訳)、「もう飽き飽きしている」(リビングバイブル訳)。パウロは、体の衰えを感じていたのかもしれない。また迫害や苦難の中にあって健康を損ない、思うようにならないからだを引きずりながら宣教をしていたのかもしれない。いずれにせよ、彼はうんざりしていた。ただ、彼は肉体の牢獄から解放されたい、と言っているわけではない。彼は、「死ぬはずのものがいのちによって呑み込まれるために」と言う。あるいは「天からの住まいを上に着たい」と言う。つまり、新しいよりよい体が与えられる信仰と希望に生きているのである。彼は望みなき人間ではない。神を信じる者は、永遠のいのちに生かされているので、肉の身体はやがて衰え、朽ち果て、塵に帰っていくが、備えられた新しい建物、新しい身体を受けて行く。それは神が御霊によって保証されていることである(5節)。

このパウロの願いは、前の4:16-18から「重い永遠の栄光」について語るものである。だから、4:18の「見えないもの」は、8節「主のみもとに住む」ことと言い換えられている。つまり9節、主にお会いして、主に喜ばれる時のことを言っている。人間は死んでそれで終わりではない、ということだ。しかしそれは、栄光への途上にあることばかりを意味するのではない。やがて、神の前に立つことになる、というのは裁きへの途上にもあることを意味する。やがて私たちは、神の判決を待つ身となる。それを思う時に、人生は厳粛にならざるを得ない。今のこの世の生活は、永遠の生活のあり様を決めるのである。私たちは思い永遠の栄光をぶち壊すような生き方をしているか、それとも、その時を獲得する生き方をしているかいずれかなのである。

パウロが語っているのは、神の恐ろしさではない。むしろ、そのような見通しで人生を生きているのであればこそ、主にお会いする日を覚えて、主に喜ばれることを願いつつ、宣教活動をしているのだ、ということである。パウロの弁明が続いている。パウロは、3章で推薦状のことを語っていた。パウロがユダヤの教師としての推薦状を持っておらず、パウロの語ることは、いかがわしいという者たちがいた。そうした批判を意識して、パウロは、またもや、自分を正当化しているのか、というと「そうではない」とする(12節)。パウロは、ただ自分の純粋な宣教を理解してほしいと願っているのである。そしてそのように願っている相手は、パウロを直接非難する人々ではない。「あなた方に私たちのことを誇る機会を与え」とあるように、敵とパウロの間で迷っている人たちである。パウロが語ることは大丈夫だ、信頼に値する、ということを、どのように語ったらよいのか迷っている人々に、パウロは言葉を与えているのである。

だから、14節から、さらにパウロは、自分の動機の純粋さを、別の言い方で語ろうとするのである。「神の御前に立つ厳粛さ」だけではない「キリストの愛が私を捉えた」と。「キリストの愛」というのは、「パウロのキリストへの愛」なのか、「キリストのパウロへの愛」なのか解釈の分かれるところであるが、ここは、先の神の御前に立つ厳粛さに対比し、後者ととらえるべきなのだろう。実際パウロは、「一人の人が死んだ」という事実に触れる。キリストが十字架によって示された全ての人への愛が、パウロの宣教の決定的な原動力となった、ということだ。キリストは、パウロのためだけに死んだわけではない。自分も含めたすべての人のためへの犠牲であった、という事実をパウロは深く認識している。14節「すべての人のために」というのは、「すべての人の身代わりに」という意味なのか「すべての人の利益のために」という意味なのか、ここも議論の分かれるところであるが、「すべての人が死んだ」というのであれば、「すべての人の身代わりに」と取るべきだろう。しかし、15節、キリストの死が、私たちを、「死んでよみがえった方のために生きる」という新しい原動力を引き出すとしたら、それは「すべての人の利益のために」をも意味して間違いはない。いずれであってもよい。むしろパウロが言いたいことは、パウロの宣教を力強く動機づけたのは、キリストの圧倒的な愛そのものである、ということだ。この愛に触れた以上、パウロは今までのパウロではいられなかった。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という確信に生きざるを得なかったのである。かつては自己充足感を得ようとする不順な動機で生きていたかもしれない。しかし、そういう自分は既に死んだ。今は、神に新しい命を与えられ、新しい使命を持たされて生きている。その新しい使命は、和解の務め、神と人を和解するように導く聖霊に仕える働きにつくことである、という(19節)。

改めてここで神を信じる、信仰を持つことの意味を考えてみよう。そこには少なくとも三つのことがある。一つは、神を認め、神との新しい関係に入れられることである。神を認める前は、ひたすら自己肥大の世界の中で私たちは生きていた。他者を思いやることは教えられていても、他者との比較の中で結局自己を選び取って生きているのが私たちである。しかしそこに、他者でも自分でもない神を認め、神に仕える人生の選択肢が出てきたのである。

次に、イエスを認め、イエスの十字架を受け入れた時から、私たちには新しい実質的ないのちが与えられた。永遠のいのちは、単に長いいのちなのではない。永遠の神と共に生きることで、私たちは、世の中のことをもっと大きな視野から見ていくようになる。他人にもっと大きな気持ちで接するようになるだろう。永遠の神と共に生きることは、私たちの人生に豊かさと深みをもたらすのである。

最後に、パウロがここで強調していることであるが、私たちには新しい人生の目的が与えられる。自己充足、自己実現ではない、神の愛を語り伝える、和解のことばを持ったキリストの使節として生きる目的である。神を知ることにより、この世界を義と愛と聖さによって支配される神にお仕えする素晴らしい特権に自分が召し出されていることを理解するようになるのである。

かつてパウロは、キリストを人間的な標準で見ていた。つまり、回心前のパウロは、イエスを偽キリストと見て、その信奉者は根絶されなければならないと見ていた。しかし、キリストの愛に照らされて、事実は逆であったことを悟るようになる。イエスはあわれみ深い救い主であると悟るようになった。った。事実、パウロは、このイエスのあわれみをうけて、使徒と任じられた。そのキリストの愛が、深く彼を捉えて離さないのだ。

キリストは、パウロに違反行為の責めを負わせなかった。つまり過去の罪の罰を彼に課すことはなかった(21節)。これは重要なことである。しばしば、何か不幸なことがあると、それは過去の特定の罪のためだと考えてしまうところが人にはある。神の前で罪滅ぼしをさせられているのだ、と。しかし、神はそのような細かい方ではない。神は、私たちの罪をいつまでも覚えていて責めるようなことはされない。というのも、キリストにその罪の罰のすべてを負わされたからだ(21節)。これは大変重要で、素晴らしいメッセージである。無駄にしてはならないものである。キリストが、神ののろいを私たちに代わってすべて受けるようにしてくださった、ということは、逆に言えば、私たちが神の義を得る結果をもたらすことである。キリストは、神との関係を正しくし、神ののろいではなく祝福を受けるようにしてくださった、ということである。キリストの十字架の業の素晴らしさ、その愛の深さに、パウロは心を馳せている。そして自分が、今度はその務めに任じられている、と言う。

私たちには和解の務めが委ねられている、新しい人生の目的が与えられていることを覚えて、歩ませていただこう。

コリント人への手紙第二4章

パウロは、先の3章で新しい契約に仕える務めの素晴らしさを語った。それは、律法に心を責められ苦しみ、悲しむ者に対して、キリストにある新しいいのちと義を伝える、光栄な働きである。本来パウロは、そのような働きには全くもってふさわしくない者であったが、ただ神のあわれみによってその働きに任じられたのである。自分からしゃしゃり出たわけではなく召されたのである。となれば、どんなに困難があり、苦難を味わおうと落胆する必要もない。むしろ、求められるのは誠実さである。神が、全てをお膳立てし、全てを導いてくださる働きに召してくださったのだ、という自覚があるならば、そこであれこれ器用に立ち回ることを考えたりする必要もないし、人に媚びへつらって、言いたいことも言えないような思いになる必要もないし、ただ率直に、神の御前で働きを進めるとよいのである。

ただ、そのように、良心的に宣教者として歩みつつも、救いに応答する人は、少ないことがある。耳を傾けてくれない人がいたりするものだ。その場合には、聞く者の側に原因がある、と考えればよい。宣教に問題があるのではなく、この世の神に思いをくらまされて、福音を拒む者の頑なな心が問題なのだ。

大切なのは、私たちはキリストにあわれみをもって召され、キリストを語っていることだ(5節)。私たちはキリストのしもべに過ぎない。その働きは、キリストに主導権があるのであって、キリストがある人に、神の栄光を知る知識を輝かせ、ある人には、輝かせないようにする働きに召されているのである。私たちはキリストの運び屋である、というべきだろう。

私たちは、粗末な運送屋に過ぎない。土の器のようなトラックの中身には、キリストという宝を積んでいる。そしてこのキリストという宝を、荷下ろしして、紹介すれば、神のみこころによって救われるべき人が救われていく。私たちの力によるものではない。私たちの福音宣教で実を結ぶとしたら、それは、私たちの力ではなく、神から出たものだということが明らかになるためである

だから、たとえ四方八方から苦しめられ自分が弱められようとも、死に至らせられようとも、神のいのちに変わりはない。むしろ、私たちの弱さや死を通して、ますます神のいのちは輝き豊かにあらわされるのだ(11節)。

確かに、アブラハムの例もそうであった。彼は神のあわれみを受けて、行くところを知らずにして出ていった。彼に求められたのは、神の召しにただ従うことであった。彼は年老い、肉体はますます衰えていった。そして彼が思うような、神の祝福はなかなか起こらないように見えた。しかし、彼の生殖的能力が全くゼロとなった、つまり死せる体になった時に、イサクが与えられた。重要な点ではないか。私たちは自分が弱められれば、もう自分の働きはダメである、と考えやすい。もっと力があれば、もっと能力があれば、といつでも自分の何かでこの働きが持っていると考えやすい。しかし、力がなくても、能力がなくてもよい。神が召してくださった働きについている以上、神がそれに責任を負ってくださる。だから、弱められる時にこそ神の素晴らしさがいよいよ現れるのである。だから背伸びせず、ありのままに、純粋に、自分に委ねられた福音を伝える努力をすればよいことになる。そして自分が死に直面するような危険にあったとしても、それは、イエスを証する最高の機会である、と考えるべきだ。12節は、ピリピ人の手紙1:21「私にとっては生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」を思い出すことばである。実際、このコリント人への手紙第二が書かれたのは、エペソでの投獄や、獣と戦った経験(1コリント15:32)もまだ記憶に新しかった頃である。パウロは、迫害の困難の中にあって、どんなに死に瀕しようが、それが、いよいよ、キリストの復活のいのちの可能性を増すばかりであることを語る。

だからこう考えよう、すべては、あなたがたのために起こっていることだ。そして恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ち溢れ、神の栄光が現れるようになるためだ(15節)。

こうしてコリント人への手紙を読む時に、いかにパウロが、自分を神のしもべとして、徹底して位置付けていたかを思わされるところである。私たちが思い悩むのは、自分が何物かと考えるところにある。私たちはしもべに過ぎない。大いなる特権に召しだされたしもべである。大事なことは、見えるもの、この世のもの、終わるものではなく、見えないもの、天に属するもの、永遠のものに目を注ぐことである。神が召してくださり、神がやがてその働きに報いてくださる時が来る。その時にこそ目を注いで歩むことだ。別の言い方をすれば終末的なビジョンをしっかり持って歩むということだろう。神が見えにくい時代にあって、はっきりと神の栄光を覚え、神のしもべとして歩む、その戦列にしっかりと加わることなのだ。

コリント人への手紙第二3章

当時教会を巡回する教師には、推薦状とか、紹介状を持つ制度があった。いわゆる人物証明が必要だったのである。ここでパウロが推薦状についてあえてとりあげるのは、かつてのパウロのように最高法院からの正式紹介状を持ったユダヤ人教師のためであった。彼らはかつてパウロが教会をぶち壊そうとしたときのように、パウロの働きを破壊するためにやってきていたのである(使徒9:2)。実際、コリントのある人たちは、そんな彼らの活動に惑わされていた。そして、パウロがコリントに赴いた時に、そのような推薦状を持参していなかったことを、問題にし始めたのだろう。おそらくパウロに敵対する者たちが、パウロを攻撃する材料として、推薦状がないことを問題にしたのだと思われる。

そこでパウロは、自分に推薦状は不要であると言う。そもそもコリントの教会を創設したのはパウロである。いまさら、何故推薦状が必要とされるのか、コリント教会の人々の性質と生活の変化を見れば、パウロが神に遣わされた働き人であることは一目瞭然ではないか、というわけだ(2節)。こうして、パウロは、自分には、最高法院ではない神によって与えられた推薦状がある、とする(4節)。

そしてパウロは、この議論を丁寧にまとめようとする。というのも、コリント人の回心と成長こそが、自分の推薦状であると語ることはいささか自画自賛のようにも受け止められかねない。推薦状などいらない、私の実力を見よ、と言っているかのようでもある。また2:6で、パウロは、「このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか」と質問をしている。当然、パウロの敵は、推薦状を持ちうるそれなりの人物の人と主張するだろう。そして今日のキリスト者の中にも同じように考える人も少なくないのではないか。ある程度の水準を持った神学校を出て、よく知られた教師の元で勉強をしている、などそのように考える傾向のある人はいる。しかし、パウロは、このような務めに対するふさわしさは、私たち自身の能力ではなく、神の力を受ける能力にある、とする。つまり、コリント人の回心と成長は、自分の実力によるものではなく、神が与えてくださった力によるものなのだ、と言い直しているのである。私たちは宣教を進めるために私たちの力の粋を尽くすのではない、御霊の力の粋が尽くされるように、御霊にただ仕えていくのである。私たちにもし、能力があるとしたら、それは、神が与えてくださったものであって、私たちのそれではない、というわけだ。

それにしても、こうした神の力を委ねられる、ことによって働きが進められるというのは、なんとも、身に余る光栄ではないだろうか。私たちはダビデのように何者なのか、と言わざるを得ない(詩篇8編)。そこで、パウロは、その身に余る光栄である新しい契約に仕える務めを、古い契約に仕える務めと対比して語ろうとする。今ある働きがいかに栄誉に富んだものであるかを語ろうとしているのである。

まず、最初の7-11節は、出エジプト34:29-32の解釈で、律法の付与とそれを伝えたモーセの栄光について触れている。つまり古い契約も輝きを持っていた、のである。しかし、太陽が昇れば、電気も要らないように、新しい契約はより大きな輝きを持っているとする。なぜなら、それは死に仕える働きではなくいのち御霊に仕える働きである(7節)。人を罪に定める働きではなく、人を義とする働きである(9節)。そして一時的な消え去る働きではなく永続的な働きである(11節)

続いて、12-18節においては、出エジプト33-35の解釈で、古い契約の時代には、モーセの顔に覆いをかけて、栄光が消え去るのを隠そうとしたが、今やその必要がないことを強調する。そして同時に、そこから連想して、神の栄光を見ることを妨げる覆い、つまり罪の障壁があることを指摘する。それは、キリストによって取り除かれるものだ(14節)。しかし、「人が主に立ち返るなら」と、主に注意を向けるように促している。

パウロの回心は、まさに神のあわれみによるもので、パウロがキリストに関心を持ち続けた、キリストのことを考え続けて生じたというものではない。しかし、パウロは自分の人生を振り返り、自分がいかに無知であり、愚かな敵対行為をしていたかを思わずにはいられなかったのだろう。パウロの心は敵対者と論争をしようというのではなく、敵対者に対する思いやりと愛に満ちている。彼もまた、かつての私であると。だから、私のように突っ走る前に、立ち止まって、主に立ち返って欲しい、この程度の警告で、キリストの新しい契約に仕える働きに目覚めて欲しい、ということではないか。

実に、人の心には、光を愛すると同時に、闇を愛する心がある。目があっても見ようとしない、問題がある。大切なのは、罪の赦しを語るイエスに心を向けなければ、神の救いの計画を知ることも受け入れることもできない。覆いを取り除くのは、キリストの御霊の働きであるが、本来人が気づくべきことである、悟るべきことである、とパウロは願うのである。御霊に仕える働きの戦列への招きの思いがそこにある。

 

コリント人への手紙第二2章

パウロは、コリント教会の問題を解決するために、既にコリントの教会を訪れていた(2コリント7:5)。しかしその結果は、事態が改善されるどころか、ますます悪化する散々たるものであったのだろう、もう二度とあのような訪問はしまいと決心した、という(1節)。彼が、再度、コリントの教会を訪問すると言いながら、その約束を果たせなかったのは、理由なきことではなかった(2コリント1:15-16)。神に立てられた使徒パウロですら、物事をうまく解決に導けず、苦慮し悲嘆に暮れたことがあった。ただ、彼は諦めず、俗に「涙の手紙」と呼ばれ、今や私たちが読むことのできない三番目の手紙を書いていた(4節)。つまり関係がこじれ、教育的に関わるにはあまりにも絶望的な状況に陥ったからといって、もう何も言えないと手をこまねいていたわけではない。教会が教会として理解してもらうべきことを、理解してもらうように努めていたのである。そしてそれは、親的な愛による行為であった、と回想している(4節)。

さて、その手紙は、功を奏したようである。だが、物事は単純ではないことがしばしばであるように、この場合も、行き過ぎがあったようだ。パウロが語ることは受け止められ、教会に混乱をもたらしている男に処罰がなされたようであるが、教会はさらにこの男を排斥しようとしていたようである。そこで、パウロは、教会がこの男をまず赦し、愛するように勧めている。パウロが譴責したのは、傷つけるためではなく助けるためであった。罪人を打ち叩いて働きを封じ、人畜無害な人間にしてしまうことではなく、彼を変え、整え、神の栄光に満ちた奉仕へと見も心も向かわせる親切心によるものであった。しかし、コリントの教会の人々は、問題点に気づくや否や、この人を赦さない、村八分にしようという行動に出たのかもしれない。犯した罪が白日のもとにさらされ、非難されるだけでも十分処罰を受けたのであり、徹底して、叩き潰し、立ち直れなくなるまで攻撃することがあってはならないのだ。聖書的に赦し、信じ、慰め、回復させていく、それが教会らしいことである。

だから、教会は、赦す時には、主の御前でその人を赦さなくてはならない。いつでも神との関係において物事を考えるべきであり、主にあって、赦しを確認しあうことが教会らしいことである(9節)。また、教会は、教会のためにその人を赦さなくてはならない。それは、悪魔の策略に陥らないためである(11節)。悪魔は、いつでも教会を破壊しようと狙っている。攻撃的な信徒は教会を破壊するための、サタンの道具とされやすい。サタンに利用されないためにも、私たちは、愛し赦すことに成長しなくてはならないのである。赦したならば、もうそのことはきっぱりと忘れることである。

さて、このコリント第二の手紙が書かれたのは、既に述べたように、悲しみの手紙が書かれた後のことである。諦めないパウロは、自身の心情を吐露する涙の手紙を書き送り、それをテトスに持たせ、テトスもコリントの教会を説得したようである。パウロは、自分が再度訪問をしなかったのは「思いやり」によるものだ、と語っているが(2コリント1:22)、それは決して口先ではない。実際パウロは、テトスを遣わした後、エペソを去ってトロアスに移動し、コリントへ向かう心構えを持っていたのである。だが彼はテトスを待った。一般に市販のどの聖書地図も、第三回伝道旅行のルートは、一直線で辿るように描かれているが、実際には、パウロは、エペソ・コリント間を幾度か往復し、落ち着きのない心で過ごしていたことになる。

だが、その時を思い返して、今やパウロは、神に感謝をささげている。というのも、パウロが心配する以上に神がコリントの教会を心配し、コリントの教会を建て上げ、完成されるように働かれていた事実があったからだ。実に教会を成長させるのは神である。コリントの教会はパウロが設立したものであるが、パウロが完成するものではない。教会はキリストの教会である、キリストがこれを最後まで完成される。その事実にパウロは思いを寄せている。解決不可能な状況に陥りながら、これを解決に導かれる神がいる、その神の勝利を思う時に、パウロは、ローマ帝国の凱旋の行列と、世界を征服するキリストの未来の勝利を思わずにはいられなかった。既に一章においてパウロは、コリントの教会がパウロの戦列に加わることを期待していることを述べている。その戦闘はやがて、ローマ帝国の凱旋のような勝利の凱旋をもたらすものである。戦役は終了し、世界はキリストの平和で満たされ、黙示録7:9、14:1にあるように、キリストの軍隊は勝利の帰国を果たすのである。

当時、ローマの凱旋は、第一に官吏と上院議員、次にラッパ手、そして征服地からの戦利品、征服地の絵、征服された砦の模型、生贄、そしてその後に鎖につながれた捕虜、つまり敵の王族、指導者、将軍たち、そして鞭を持った囚人係、音楽隊、香を持った祭司、そして将軍、将軍の家族、そして軍隊という順に行進した。パウロが心に描いていた凱旋の行列は、そのようなものである。そしてパウロは香を持った祭司に注目している。その香の香りは、もはやこの行列が終わったら処刑される他のない哀れな捕虜にとって、それは死の香りであるが、勝利者には香しい勝利といのちの香りである。つまりパウロは、コリントの教会に、その凱旋の列に加わるべく、戦列に戻ることを勧めているのである。キリストの勝利は確実である、いつまでも教会の内部でごたごたしている時ではない。戦列に戻れ、というわけである。

だが、コリントの教会の人々の中には、まだパウロを疑う人々がいたのだろう。パウロは、神のことばは確かであり、自分は混ぜ物をして語っていることはない(17節)と弁明している。神のことばが何を語っているのかに、注意深く耳を傾け、神の戦列に加わる者とさせていただこう。

コリント人への手紙第二1章

パウロの手紙は、当時の手紙の書き方に沿ったものであるが、ここでは、コリントの教会で問題視されるようになっていた自らの使徒性を強調し、さらに、コリントの問題を解決するために遣わされたテモテの名を加えている。

既に述べたことであるが、この手紙は、コリント教会との衝突が解決し、和解ムードになった際に書かれた最後のものである。パウロは、コリントに宛ててエペソから4つの手紙を書いているが、今日聖書に収められ私たちが読むことができるものは、二番目に書かれたコリント人への手紙第一と、最後に書かれたこのコリント人への手紙第二のみである。最初に書かれた「厳しい手紙」と、パウロがエペソ滞在中に直接訪問し関係が益々悪化し、決裂した後に書かれた「涙の手紙」はもはや失われており読むことはできない。最初の手紙とともにテモテを仲介者として遣わして以来、パウロは心を砕き祈り、時間を割き、手を尽くして教会の問題解決に関わり続け、まさに神のあわれみによってその問題が解決に導かれていった時に、パウロは、再び、ふりだしに戻って、テモテを送ったころの自分の信仰について分かち合おうとする。

つまりパウロが、3節より展開していることは、神への感謝であり、宣教における神の慰めを思うことであり、様々な問題で、痛み、緩み切ったコリントの人々を再び、宣教の最前線へと導きだそうとしている。実際、パウロは、コリントの人々と宣教の苦しみについて分かち合おうとしている。慈愛は、受けるに値しない者に注がれる神の恵みを意味する。慰めは、単なる一時しのぎの慰めではなく、耐えがたき時を耐え抜く力である。パウロは、神の慈愛と慰めを得ながら、コリント教会との衝突の苦しい時を乗り越えた、と言っているわけではない。むしろ、アジア宣教の苦しみを示唆する(8,9節)。パウロは何もそのことについて語ろうとはしないが、実際、コリント教会と衝突していた間、エペソで宣教を果敢に進めていたのみならず、実は投獄され獣と戦ったり(1コリント15:32)、アルテミス神殿の暴動に巻き込まれたり、と想像を絶する宣教の苦難の中に置かれていた。そうした中でコリント教会の牧会の労が報われて、コリント教会の内部的な問題が整理され、宣教の使命に立ち戻る準備ができた今、パウロは困難な宣教の前進のために協力を求め、その苦労を共にするように呼び掛けている(11節)。

大事なのは、私たちの頑張りではない。たとい自分の無力さを痛いほど思わされ「死を覚悟する」(8,9節)状況に追い詰められたとしても、神の慈愛と慰めに目を向け神に委ねるなら、そこには可能性がある(詩篇116:8)。自分ではない、死者をよみがえさせてくださる神は、私たちの思いを超えた働きを導いてくださるのだ。そして、そのキリストの慈愛と慰めの豊かさを味わい知るならば、その経験を人に分かち合うことができる(4節)。確かに、私たちが人の助けとなるのは、私たち自身が、神の力に助けられてこそである。「肉的な知恵によらず、神の恵みによって行動する」ことがパウロの信条であった。

さて、15節からパウロは、コリント訪問を遅らせた理由について語り始める。おそらくパウロを軽率で、前言をいとも簡単に翻す、いい加減な男だ(17節)と非難する者がいたのだろう。問題は解決したようであっても、実際火種は残るものである。人が人を誤解し始めてしまうと、誤解を解きほぐすことは非常に難しい。一旦物事を思い込んだ人の心を変えることは至難の業である。しかし、パウロは、そんなことには動じなかった。パウロは、自分はそんな男ではない、むしろ、行くと言いながら行かなかったのは、前回の訪問が決裂し、散々な結果であったので、お互いにとって良い時を見計らっていただけだ、と(23節)理由を述べている。そして、よく考えずに「はい」とも「いいえ」とも返事をしてしまう、いい加減な男の語ることそのものが信用でるのか、とする声に、自分が語ったことばが「はい」であると同時に「いいえ」になるような揺らぎはない。まして、神の子キリストについてもそうであるし(19節)、神は、やると語ったことを約束どおり果たされたのだ(20節)、というわけである。

パウロとしては、まだ火種の消え去らぬ状況にあるコリントを訪れて、再び厳しい口調で争うことは避けたかったところであろう。パウロの関心はコリントの教会を支配することではなく、健康的に立て直すことであった。そのための協力者としてあることをこそ、パウロはモットーとした。主の教会を建て上げる、真実なしもべとして自らの動機の純粋さに注意したパウロの姿に教えられる(12節)。そして、私たちの信頼性が、私たちの語ることの信頼性に影響を与えるとしたら、やはり私たちは常に、「誠実と真実なる人格の成熟」を目指さなくてはならない。