ヨハネの黙示録11章

1節、「立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々を測りなさい」1,2節については、ルカ21章22節を背景としていて、エルサレムが異邦人に踏みにじられる、神殿破壊のこと、と文字通りにとらえる説がある。しかし、この手紙が書かれたのは、AD1世紀も末、既にエルサレムの神殿はローマ帝国に破壊されていた(AD70年)。それ以降ユダヤ人は散らされ、離散の民となっていった歴史がある。
その出来事を考えると、ここで使われている聖所、祭壇ということばは、象徴的に理解すべきなのだろう。共同訳では、「礼拝している者たちを数えよ」となっており、その方が分かりやすい。つまり、神を信じる者、救われた者を数えよ、という。ただし、異邦人、つまり神を信じない者に対してはそのままにしておけ、という。神を信じる者、救われた者が、踏みにじられるような状況が起こる、というのだろう。
3節「わたしがそれを許すので、わたしのふたりの証人は、荒布をまとって千二百六十日間、預言する。」神がそのような状況を許される。しかしその中で、キリスト者が証人として立ち続ける、という。1月を30日として数えれば42カ月、3年半である。旧約聖書では、証言が有効になるためには、必ず二人の証人がいなくてはならない、とされるが、そのような意味のある二人なのだろう。荒布を着るのは、しばしば悲しみ、嘆きを現わしている。それは、彼らが世の終わりまで述べ伝えなくてはならない福音のメッセージの厳粛さを意味している。つまり、福音の中には喜びをもたらす内容のみならず、それを受け入れない者に臨む災いと来るべき裁きを語らなくてはならない、悲しみを併せ持っている。だから荒布を来て伝えなければならなかった。
4節、「彼らは、地を治める主の御前に立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台である。」これは明らかにゼカリヤ書4章を背景としている。ゼカリヤ書では、行政の最高責任者であるゾロバベルと大祭司ヨシュアを指していたが、黙示録ではモーセとエリヤと理解する説がわかりやすい。つまり、モーセは死んで葬られ、エリヤは死なずに天に上っている。キリストの再臨の時には、モーセに例えられる殉教者のよみがえりと、エリヤに例えられる地上に生きている人がそのまま天にひきあげられる出来事がある、というわけだ。そういう意味で、二人の証人はモーセとエリヤによって象徴される今この世にある教会の活動を意味している。けれども、二人の証人に耳を傾ける者はいない。むしろ二人の証人はいのちを落としてしまう。つまりここでは、鋭い悔い改めのメッセージを語る教会が迫害を受け、打倒され(7節)、それを世の人々が、喜び祝うようなことが起こることを語っている(10節)。ここには、エステル記のイメージが重ねられている。
しかし、それは、永久なのではない。時が満ちるまでである。「三日半の後、いのちの息が神から出て二人のうちに入り、彼らは自分たちの足で立った。見ていた者たちは大きな恐怖に襲われた。」三日半というのは、イエスのよみがえりの期間のことである。つまり、教会はたとえどんなに激しい迫害にあったとしても、そのまま途絶えてしまうことはない、というのだ。必ず、復活し、そのメッセージの真実さが証される。11節のことばは、エゼキエル37章、枯れた骨の谷の奇跡を描いた、有名な章を思い起こさせる。迫害者たちの喜びと祝いも束の間、彼らは自分たちがした愚かな現実に目を覚まされ、キリスト者が伝えたメッセージの確かさに驚愕することになる。大地震が起こり7000人の人が死ぬ。当時のエルサレムの人口は約10万人と言われたので、そのうちの7000人は7%、かなりの数である。そこで、彼らはもはや神を認めざるを得なくなるのである。
 結局この「二人の証人」は、全体のイメージとして、神の御手によってキリスト者に起こる新しい出エジプトについて語っている。世には不正や矛盾が蔓延ることがあるだろう。そういう中で、正しく生きようとする者に苦しみは多い。まことの真理である神の御言葉に生きようとする者はましてである。しかしその苦しみ、迫害はいつまでも続くわけではない。神はそのすべてから救い出してくださる。神はキリスト者の骨をことごとく守り、その一つさえ折られることはない。悪は悪しき者を殺し、正しい人を憎む者は、責めを負うようになるだろう(詩篇34:19-21)。
物事は必ずよきに正され、神は正しい裁きをなさるのだ。キリスト者の命も労苦も決して無駄にはならない。それは実を結ぶ(ヨハネ12:24、25)。福音伝道は決して合理的にはいかない。けれども、いのちを削るような努力に、実が結ばれる。忠実な教会に対する神の励ましが語られている。

ヨハネの黙示録10章

再び視線は天に向けられ、そこで起こっていることが語られる。一種の挿入部である。特に重要な第七の災いを際立たせ、クライマックスに向かって緊張感を高めている箇所である。そこでヨハネが語っていることは、教会にはなすべき務めがあり、耐えるべき苦難があるということだ。
1節、「もう一人の強い御使い」は5章2節を連想させる。この御使いは、「永遠に生きる方をさして」誓う(6節)。彼の足は、一方は海に、他方は地に下ろされている。それは、全世界を支配下にした、つまり、地と海のすべてにかかわるメッセージを持っていることを意味する。 前の御使いが大きな声で叫んだように、この御使いも叫ぶ。その叫び声に「七つの雷」が続くが、それは、雷のような「主の声」(詩篇29篇)を示しているのだろう。実際、七つの雷は、鳴っただけではなく、意味のあることを語っている(4節)。しかし、それを書き留めることは許されていない。封じて、書き記すなとされる。旧約のダニエルが、一定期間メッセージを封じられたことを思い起こさせるところである(ダニエル書12:4)。
「もはや時が延ばされることはない」共同訳では、「もはや時がない」となっている。この時はギリシア語でクロノス、経過する時間としての時。もはやこれ以上、時間、クロノスは存在しない、つまり終わりが来たということ。神の忍耐はついに限度に達した。1-6番目のラッパを通して悔い改める機会は十分に与えられた。もはやこれ以上の延期はない。6章10節の「いつまで(6:10)」という聖徒たちの叫びは、黙示録の中心となる箇所であるが、その問いに応えて、神はもはや時が延ばされることはない、時が来た、という。
 その時、神の奥義は成就する(7節)。奥義は、ギリシア語でムステリオン、いわゆるミステリー、隠された秘儀を意味する。それは、あらゆる国の人々に伝えられる福音の奥義を意味する。それは代々に渡って長い間隠されていたが、今や、イエスによってすべての国の人々に知らされたものである。しかし、一般の奥義理解は異なる。それはごく限られた人しか達することのできない知識で、当時のグノーシス主義という異端はそのように考えて、他の人たちが知らない特別な知識を得たと主張するところがあった。だが聖書の奥義は秘儀ではあるがもはや秘められていない。また、パウロによれば、奥義は単に福音、つまりキリストにある罪の赦しと救いを語るのみならず、異邦人とユダヤ人が一つとされること(エペソ3:1-5)の二面性を有している。それは、7章9節で述べられたあらゆる民族、国語、部族の者がキリストにあって一つにされる、教会の完成について語っている。そのような天にある祝福の時が、もはや延期されることはないというのであるから、これは、慰めと喜びの知らせでもある。
 9節、「取って食べよ」という命令形は、昔の文語訳では「食い尽くせ」つまり完全に消化して自分のものとせよ、という意味である。「腹には苦いが口には甘い」というのは、エゼキエル書の表現(3:1-3)で、エレミヤも同じ経験をしている。神のことばを食べるとそれは楽しみとなり喜びとなった(エレミヤ15:16)。しかし、黙示録の方では、単に甘いだけではなく、苦さもある。それは、悔い改めない不信の世に対する神の怒りと裁きのメッセージを持っているからであろう。つまりそのメッセージを受け入れる者にとっては救いを約束する福音のことばで、甘い(詩篇19:9-10)が、拒否する人には、厳しい罪の告発となり、災いを告げるものだから苦いものとなる(2コリント4:1)。
 ただし、これは宣教者ヨハネのお腹の中で苦くなっている。となれば、神のことばの真の説教者は、罪人への告発を忠実に告げるが、喜んで語るのではない。悲しみの中で語るということだ(エレミヤ9章)。心が神の愛に満たされるほど、「わざわい」を告げることは苦みとなる。福音を語るのはそういう面がある。自分にとってよいからといって、伝える相手も喜んで受け入れてくれるとは限らない。それは、本当に残念で、悲しく、苦い経験である。
 しかし聖書は語る「もはや時が延ばされることはない」時がいくらでもあると思えば、時を無駄にする。生き方がいい加減になってくる。それが人間でもある。命にも限りがある、与えられている時間にも限りがある。だからこそ、苦さに耐えて敢えて語ることも必要になる。実際、神のことばに望みを抱くことができる人々はいるものだ。語る機会を恐れないようにしよう。

ヨハネの黙示録9章

第五のラッパが吹き流された。その時の状況は、先の四つのラッパによって生じた出来事よりも多くの紙面が割かれている。一つの星が天から落ちた。それは無機質な物体ではなく、生き物である。鍵を手にしていて、底知れぬ穴を開くとある。古代のユダヤ人は、死人や悪霊の住む場所として、底知れぬ穴があると考えていた。だから、そこから出て来たいなごは、悪霊のようなものと考えるべきなのだろう。何とも不気味である。彼らは、さそりの持つような力を持っていて、人間を食い荒らすのである。しかも彼らが苦しめるのは、クリスチャンではなく、神を信じない人々である。ただ、それは、5ヶ月という限定的な苦しみである(5節)。生命を奪うまでには至らないが、逃れることのできない悲惨な苦痛である(6節)。
 さて「そのいなごの形は、出陣の用意の整った馬に似ていた。頭に金の冠のようなものを着け、顔は人間の顔のようであった。」「女の髪のような毛があり」歯は獅子のようで、鉄の胸当てをつけている。このいなごは人々を苦しめるが、自分は傷つかないということだろう。11節の御使いは、サタンたちかもしれない。それを王にいただいて、というのは、サタンが権力を握ってということだ。彼らの名はヘブル語でアバドンつまり滅び、注釈に、破壊の意味とある。ギリシャ語でアボリュオン、つまり滅ぼす者。注釈に破壊者の意味とある。ともあれこのあたりはヨエル書(1:1-5)の知識があればかなり理解しやすい。つまり、そこでも食い荒らすいなごのイメージが描かれている。しかしそれは昆虫のいなごではなく、イスラエルを征服しようとするアッシリヤ帝国を象徴的に語っている。ユダヤ人は、侵略者や征服者を、このような非常に不気味なイメージで語る文学的な伝統を持っていたのである。だから黙示録のこの記述も、文字通り不気味な怪物が現れるわけではなく、歴史上に繰り返される侵略や、戦争のイメージを語っていることになる。ただ、ここで大切なのは、苦しめられるのはクリスチャンではないこと。つまり、クリスチャンを弾圧していた人が逆に弾圧される構図である。実際、歴史上に、そういうことはある。他国を蹂躙したドイツも日本も、敗戦の憂き目にあったようなものである。
 ともあれ、七つのラッパに伴う災いの意味が、細かいことはわからなくても、あれやこれやと思い当たることがあって、ああ、これも人類史の衝撃的で破壊的なシーンの数々である、人類史は終息に向かっている、という歴史観をヨハネは示していることになる。だが、ヨハネはただ人類の歴史が終息に向かっていることを言いたいわけではない。封印に伴う災いの記事の後に、さらに詳しくラッパに伴う災いの記事を重ねて書いたのは、同じことを冗長に繰り返しているだけではない。
 注目すべきは、ヨハネが出エジプトのイメージを借りて、第二の災いを詳しく書いた点である。つまり、旧約の知識前提のあるユダヤ人ならば、この記事から出エジプト記の十の災害を思い起こしたであろう。それは、イスラエルの叫びに応じて神が送られた災いである。それと同じ構図が、ヨハネの黙示録にもある。正しく生きることが決して報われない、愛することが報われない、無駄死にだと思われる状況が起こり、殉教者たちが我慢できなくなって叫んでいる。これに答えて、神は、7章で、約束の勝利の日、苦しみが報われる日の光景を見させてくださったのだが、8章からは、殉教者の叫びにこたえて七つの災いが送られることを予告されるのだ。そして、この裁きが出エジプトの繰り返しであると丁寧に解釈し、説明しているのである。「新しい出エジプト」のテーマがそこにある。ユダヤ人の間では、非常に馴染みがあり、大切にされてきた考え方である。神は、時を延ばすことなく、もうすぐ新しい出エジプトを開始してくださるという期待をここに抱くことができる。黙示録は、未来を語りながら、今の私たちに希望を与える。
ヨハネの黙示録10章

ヨハネの黙示録7章

 黙示録を一読すると、これが非常によく構成の整った書であることがわかる。6章以降16章までの様々な災いについて、一定のパターンがある。一つは、7つの封印に伴う災い。二つ目にラッパに伴う災い、三つ目に鉢に伴う災い、三つの災いが、それぞれ七回繰り返される7部形式のパターンがある。8章を理解する鍵は、このパターンを認識することにある。
まず、7つの封印の話。これは6章から8章の5節まで続く。封印が開かれるたびに、災いが起こる。それは、6章でも触れたが、侵略、戦争、飢饉、疫病、そして終末のファイナル・シーン、様々な衝撃的なシーンの組み合わせで、人類史を要約している。問題はその後の、ラッパに伴う七つの災いの話(8:6-15:8)、そして、鉢に伴う七つの災いの話(16:1-20)である。これらは同じものを三つの角度から見ているに過ぎない。ドラマで言えば、最初に、主題歌と共に番組の要所となるシーンが出てきて、その後に本番が始まり、ドラマ終了後、もう一度主題歌とともに印象的なシーンが繰り返される、そういう流れと同じだと考えてよい。
 つまり最初に、人類の終末に向かう歴史を特徴づける印象的で破壊的なシーンが、七つの封印が解かれるたびに語られる。それは、終末最後までを簡単になぞっていく予告編なのである。続いてこの8章からが本篇。実際、巻物の封印が全て解かれたということは、巻物が開かれて、そこに書いてある内容の全てわかるということだから、七つのラッパに伴う災いのシーンは、最初の7つの封印に伴う災いのシーンを詳しく描写するものである。それは、実際に8から15章まで、長く複雑な書き方をしている。そして最後の、七つの鉢のシーン。これは3回目の繰り返しであり、一番印象的な部分が繰り返されることになるというわけだ。強烈的な書き方で、一章でまとめられる。
 以上を押さえた上で1節から見て行こう。「子羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。」7つ目の封印が解かれた。これまでは予告編であり、封印が解かれる度にこれから起こることが予告された。ここからは本編であるが、その最初に、聖徒の祈りに応える形で、ラッパが吹き鳴らされ神の裁きが開始されることに注目される。パウロはローマ書の中で、「復讐はわたしのもの、私が報復する(12:19)」と神の言葉を引用し、神の怒りに委ねることを語っている。そして、「悪に負けてはいけない、むしろ善をもって悪に打ち勝ちなさい」と勧めているが、その際に、善を行うなら、「彼の頭上に燃える炭火を積むことになる」と語っている。まさに、この燃える炭火が今や、神によって地に投げつけられた、と考えることができるのではないか。長らく応えられることのない祈りが、あることだろう。しかしそれは、燃える炭火を積み、やがて最後の報復という形になって応えられるのである。つまり、神の前に見過ごしにされる祈りというものはない。神はそれを金の鉢に蓄え続け(5:8)、祭壇の火で満たしてから、報復を成し遂げられるのである。祈りは、決して空しく立ち消えることはない。祈りは確実に積み重ねられるのである。目には見えないが、生きておられる神がいる以上、人の祈りには何らかの結果が生じるものだ。「なぜなら、あなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださるからだ(箴 25:22)」ということば真実である。こうして7節からいよいよ、神の業が開始される。
7節、「血の混じった雹と火」は、出エジプトと関係する。黙示録を解釈する場合には、当時のユダヤ人が持っていた知識的な前提から見て行くことが大切だ。彼らの知識的な前提を知らないで黙示録を読むと、どうしてもおかしな、荒唐無稽なお話として理解し、解釈してしまいがちだ。普段の聖書通読の成果が問われるところで、ここで出エジプトを思い浮かべた人は、かなり聖書の読み方にセンスがある。ともあれ、この箇所は出エジプトの十の災害を思い起こさせる。第一のラッパに伴う災い、これは出エジプトの雹の災害に一致する(9:13-35)。第二は、ナイル川が血に変わり魚が死んだ災い(7:14-25)、第三は、同じことを別の角度から述べている。第四の災いは、エジプト全土が暗闇で覆われた災い(10:21-29)に一致する。第5の災いは、出エジプト10:12-15の災いに一致する。そして災いの程度は、6章8節では、地上の4分の1であったが、ここでは3分の1となり、だんだん強くなっていっている。
13節は、一種の挿入部。「災いが来る。災いが~」三回繰り返される。「一羽の鷲が中天を飛びながら」、「中天」というのは、天文用語では「子午線」つまり、天の頂きを意味する。すべてを見通せる所であり、誰もがその鷲を見ることができる位置。そこからわざわいが宣告されるという。神の警告はいつの時代にも明瞭になされている。「残りのラッパの音によって」と、残されている時はあるが、それはあと三人のみ使いがラッパを吹くだけの期間である。時は確実に縮まっていることは確かだろう。時代の流れをよく理解し、悟り、いよいよ神にお会いする準備をさせていただきたいものである。

ヨハネの黙示録7章

聖書では、しばしば数字の4は、全体を指す。御使いは霊的で、目に見えない形を持たない存在である。そのみ使いが、四方の風を押さえている。何かを抑止している。また、2節、さらにもう一人の御使いが登場する。わざわざここで生ける神の印と断っているのは、命のない、造り物の偶像に対比してである。その生ける神の印が額に押される(3節)。額は一番目立つところで、文字通り額に印を押された者の数を言っているのではなく、神の民とされたことがはっきりわかる者の数が、という意味だろう。その数144,000人、これも実際の統計的な数ではなくて象徴的な数として理解すべきものである。たとえば12部族をあらわす12の二乗、それにさらに完全数10の3乗をかけると144,000人となる。全てを包括する完全数であって、限られた数の人々、一定数の人々という程度の意味で受け止めておいた方がよい。
「イスラエル」これは民族的な意味ではなく、霊的な意味で使われている。というのも、この時代にはすでに文字通りの12部族は、明確に区別される形では存在しなかった。イスラエルの子孫という表現そのものが民族的な意味よりも、霊的な意味を持っていると取る方がよい。だからリストの最初にユダ族が出てくる。ヤコブの長男はルベンであるから本来はルベンから始まるべきものだ。それがルベンを差し置いてユダから始まるのは、この部族からメシヤが出たものだからである。そしてどの部族からも、12,000人。実際の部族構成数には差があるからどの部族からも12,000人というのは不公平でもある。だからこれも、歴史的なイスラエルと取るよりも霊のイスラエルのことを言っていると理解すべきなのだろう。もちろん、霊のイスラエルイコール教会と単純に理解するのではなく、歴史的に、神の民とされたすべての者と理解すべきであり、そのように集められた者の数は非常に多い(9節)というわけだ。
その救われた者たちが御座の前に立って、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神と、子羊にある。」面白いことに声は単数である。大勢が叫んだのに、声が単数というのは、声を合わせて一つにして叫んだということ。彼らは、まさに子羊であるキリストの権威を認めた者たちなのである。
14節の主は、13節の長老の一人を指している。つまり主と言えば必ず、神を指すのではなくて、一般的敬称として用いられる例である。「長老様、あなたこそご存じです」ということだ。そこで、その長老の質問は、修辞的な疑問文になっている。答えはわかっていて、あえて疑問文の形にして、より印象を強める手法である。集められた者は、キリストの権威を認めたのみならず、キリストの血で聖められた者たちである。だから彼らは聖所に仕えているとされる(15節)。「聖所」はギリシア語でナオス、外庭を含めた神殿全体ではなくて「至聖所」である。聖所で昼も夜も神に仕える。そして御座についておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。ヨハネは、この幕屋を張られる(スケーネー)ということばを用いてイエスの降誕を言い表した(ヨハネ1:14)。御子イエスは、おのれを空しくして、私たちの間に住まわれた、という。また黙示録21:3「見よ。神の幕屋が人とともにある」同じ幕屋だが、ここでは一時的な意味というよりも、神の永遠の臨在が強調されている。つまり、ここは、新天新地、天の御国のことが描かれている。21章でさらに詳しく描かれる終わりの祝福を先取りして教えているのだ。6章と8章の裁きと患難の叙述の間に、クリスチャンたちを励ますビジョンとして語られている。世の戦いを終えて天に召された勇敢な信仰の戦士たちが整列しながら凱旋してくる様(4-8節)と、彼らの戦勝パーティが繰り広げられようとしている様(9-17節)が描かれているというわけだ。クリスチャンにとって、やがて神の前に立つことは、恐怖の裁きの座に引き立てられることではない。それは勝利の凱旋、戦勝の祝宴に参列することである。いつも、その日を覚えて気持ちを引き締めて歩みたいものである。