創世記34章

再び神がヤコブに現れる。神は、べテルに移り住み、祭壇を築くようにとヤコブに仰せられた。神のご計画はベテルにあった。「住みなさい」は定住せよという意味である。ヤコブはシェケムに留まっていて、既にそこに、エル・エロヘ・イスラエルという新しい祭壇も築いていた。しかし、それは形ばかりのことであった。それは、ヤコブの子らシメオンとレビの残虐な行為によって、ヤコブの家族がシェケムに住めない状況になっていよいよ明らかにされた。実際ヤコブは、まさに土地の人々によって根絶やしにされる危機を感じていた。そのような状況で、ヤコブは神の声を聴いていく。追い詰められなくては、真に神の声を聴くことができない、人間の愚かさがそこにある。
シェケムは、エフライムの山地にある古い町で、そこには古代からの聖所もあった。アブラハムの最初の滞在地もまたシェケムの近く、モレの樫の木のある所である。ヤコブにとっては、住み慣らしていきたい最良の土地であったのかもしれない。しかし、神がヤコブに定住を求めたのはべテルであり、シェケムではなかった。私たちの思いと神の思いは異なることがあり、しばしば、私たちは神のみこころを教えられながらも、形は似ていても、別の選択をしてしまうことがある。神はそんな私たちを、みこころへと引き戻される。
どうも、神のみこころを無視して歩むところに祝福はない。ただ罪の実が生じるだけである。ヤコブは、改めてそのことを教えられたのだろう。ヤコブとヤコブの家族は、神の御心に沿わぬもの、異国の神々を取り除く決心をしていく。「苦難の日に私に答え、私の歩いた道にいつも私とともにおられた神」にのみ信頼を注ぎ、より頼んでいく決心をする。再び神がヤコブを守り、ヤコブをシェケムから脱出させた。「神からの恐怖が回りの町々に下った」(5節)というように、ここでもまた神の哀れみのゆえに、一方的な神の恵みのゆえに、守られていくヤコブの姿がある。神のあわれみは永久に尽きることがない。
ヤコブは再びベテルに戻り祭壇を築いた。かつては兄エサウから逃れて、でのことであったが、今度は、シェケムの人々から逃れてである。逃げるだけのヤコブ、けれども神はそんな弱さを持ち、愚かな罪人のヤコブを支えられる。そして再びヤコブに祝福の契約を更新する。
興味深いことに、ヤコブはここでイスラエルと自らを名乗るように命じられている。神の祝福にどこまでも寄りすがろうとした時を思い起こさせている。もしヤコブが、この新しい自己意識にしっかり生き続けていたならば、あるいはシェケムのような事件も起こりえなかったのかもしれない。ただ霊的に鈍いのはヤコブだけではない。信仰の父と言われたアブラハムも、長い時間をかけて神への信頼を築き上げている。実に、神の祝福を見出すことに疎い、私たちの霊性の低さが、私たちを多くの迷いの中に入れているのだろう。パウロは、「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように(エペソ1:17)」と祈ったが、私たちは本当に、神を知る聖霊の働きのために祈り、祈られる必要があるのだ。
最後に、ラケルの死をどうとらえるか。ヤコブは、神の御心に沿うことのなかった自分の歩みを悔い改め、再び神にのみ寄り頼んで歩みを進めようとした。しかし、その後に続いたのは、最愛の妻ラケルとの死別である。人生の歩みを進めていく時に、どうも、自分の意を挫くようなことが多くあるものではないだろうか。約束の地で初めて与えられた男の子ベニヤミンに対する喜びもあったと思われるが、ラケルを失うことは大きな痛手であったはずだ。ヤコブはラケルがつけた名前を言い換えた。それは「幸いをもたらす子」を意味した。最大の不幸を受けたと思いつつも、そこから幸いが始まる、ヤコブの信仰があるのではないか。全能の主を信じ、常に前向きな歩みをさせていただこう。

創世記31章

 ヤコブは、ラバンのもとで20年の時を過ごした。それは、決してヤコブの思うようなものではなかったことだろう。ヤコブは、幾度も報酬を変えられたのである(7節)。当初男子の相続者がいなかったラバンの娘たちは、当然彼女たちの相続分を持っていた。しかし、どうもそれは失われたようである(14節)。また、娘たちは言った。「彼は私たちを売り、私たちの代金を食いつぶした」(15節)と。これは、ラバンがヤコブとかわした娘たちとの結婚の取り決めについて語っている。つまり、ヤコブが妻たちのために働いた14年間の労働は、妻たちのためではなく、ラバンのためのものとして搾取されていた、ということだ。ヤコブは、自分ではないラバンの財産が膨大に増加するのに貢献してきたにもかかわらず、低い報酬で使われるにいいだけ使われてきたのである。その事実は、娘たちにも気づかれて、娘たちの信頼を失わせる結果となった。ヤコブは、そうした主人の横暴に泣き寝入りするしかない状況に置かれていた。なんと悲しいことではないか。そしてヤコブは、神の時を待つ他なかった。ベテルで現れ「あなたを守り、捨てない」と語ってくださった神が、約束の機会を与えられるのをひたすら待ったのである。そして状況の変化とともに、神がヤコブに現れて語られた。
神の言葉を受けてヤコブは立ちあがった。しかし、ヤコブの行動は、成すべき正しいことを間違ってしたようでもある。というのも、ヤコブは、逃げるようにして出る必要はなかったからだ。かつて、エサウのもとを逃げ去った時と同じ過ちをヤコブは犯そうとしていた。祝福の神がともにおられ、神が語られ導かれたことであれば、堂々と立ち去るべきであった。しかし、これまでのラバンとの関係を考えれば、ヤコブは穏やかに自分が出て行けるとは思えなかったのだろう。つまり、ヤコブの問題は、神ではない、人を恐れたことである。難しい人間関係にあっては、「恐れ」ではなく「信仰」こそが大切である。だから、策略をめぐらすよりも、公明正大に交渉すべきことが大事なのである。神が全てのカギを握っておられるからだ。状況を考えれば、ラバンにすべてが有利であったことは言うまでもない。しかし、それでも神は、感情を害したラバンからヤコブを守るように導かれた。
さて、ラバンが気づいた時には、ヤコブはすでに三日の道のりを進んでいた。しかしラバンは、ヤコブを追って、七日目に追いついたとある。問題は後回しにはできるだろうが、避けて通ることはできない。必ず向かい合わせられる。ラバンは、ヤコブが別れに際して非常識であることを責めた。そしてヤコブが逃げた動機については、「あなたの父の家が本当に恋しくなって」(30節)と皮肉を込めている。ラバンは夢に現れたヤコブの神が「事の善悪を論じないように気をつけよ」と語ったことに自らを抑制せざるを得なかったのである。だが、ヤコブは盗まれたティラフィムの件のゆえに、ラバンをとがめて、20年間の待遇の問題を持ち出している。事の善悪を論ずるようにけしかけたとも言えるかもしれない。そんな状況でラバンがあくまでも神に告げられたとおりに、すべてが自分の所有であることを宣言しかけつつも、神の名において、この事態を収拾しようとしていることが興味深い。ラバンはヤコブの挑発に乗ることはなかった。むしろ、主のことばに従って、敵意をもって、ヤコブを追うことはない、と契約を交わしている。しかしこの契約の提案は、まさに神がラバンに促したことであり、神の憐れみによる措置であったというべきであろう。だからラバンは変わらないままであれ、ヤコブは、先のエサウの時のように「感情を害した兄弟」をそのまま残して立ち去ることはなかった。神が守りとなり、神の恵みの中で、成長させられていくヤコブがあった。
 こうして見ていくと、すべてヤコブの本当の尻拭いをしているのは神であることを思わされる。ヤコブは愚かさを繰り返している。それは、決してヤコブが単純に愚かだ、というのではなく、不本意な形で愚かにならざるを得なかった部分もある。そんなヤコブが刈らねばならないものを、神が代わって刈ってくださり、物事を先に進めているところがある。神は、人間に100%人生の責任を取らせるということはない、ということだろう。むしろ人間が負いきれない部分を理解し、それなりに働いてくださる、と理解すべきである。
だから、私たちは、実際の所多くの失敗をしながら、多くの問題を引き起こしながら、何とか守られて生き延びていることがある。それは、背後に、恵み深い、神が働いてくださっているからである。神は人の思いに働かれるお方である。人間的に考えたら恐れるしかない状況で、神が確かに働いてくださる、そしてみ業をなし、私たちの人生を守り導いてくださる。神を信頼し、人を恐れず正しきことをなさせていただこう

創世記32章

伯父ラバンのもとで20年の歳月が流れた(31:41)。ヤコブは伯父ラバンの息子たちに、妬まれるようになったばかりか、ラバンの態度も明らかに変化した。ヤコブは、神にカナンへ戻るように、と語られる(31:3)。聖書は、ヤコブが「自分の持ち物を全部持って逃げた」(31:21)と語るが、故郷で彼が受け入れられる保障も何もなかった。かつて怒り狂ってヤコブを殺そうとしたエサウのもとに帰ることも難しい選択だったのである。この時エサウは、イサクと共にまだヘブロンに住んでいたようである(36:6,7)。だから故郷に戻るには、エサウと和解することが必須であった。そこに兄のエサウが四百人のしもべを引き連れて迎えにやってきた。武力を率いて無言で近づいてくるエサウほど不気味に思われたものはなかったであろう。ヤコブは兄の仕返しを思い恐れた。かつてヤコブがしたことを思えば、それはしごく当然なことである。
さてマハナイムは、ヤボクの北に位置し、現在のキルベト・マハネーであろうとされる。そこでヤコブは神の使いたちに出会う。かつてカナンから旅立ち、孤独な逃避行を始めた時のこと、ヤコブは不安と恐れの中で、はしごを上り下りしている御使いたちに慰められた。そのベテルの体験を彷彿とさせる出来事である。ただ、ヤコブの恐れは、取り除かれなかった。ヤコブは、近づいてくるエサウに戦略的に対応しようとした。彼は計画を立て(7-8節)祈り(9-12節)、また思いついては計画を変更し(13-21節)祈った(22-32節)。そしてさらにエサウを目撃するや否や計画を変更している(33:1-3)。戦略は、神に信頼することと対立するものではなく、祈りと共にある。ヤコブは主に与えられた頭脳を疎かにはしなかったのである。またヤコブの祈りに教えられる。まず彼は、自分が神の恵みを受けるのに足りない者であることを素直に告白している(10節)。神に何も要求できない、罪人であることを認めている。しかし同時に、ベテルの経験に訴え、神の契約を掲げて、自分の恐れに満たされた心をありのままに語り、神の守りと祝福を求めている。彼の祈りは契約に基づく祈りなのである。
ヤコブは、550頭の贈り物を用意した。それはなんとしてもエサウの好意を得ようとするヤコブの計画であった。群れを二つに分け、一つの宿営が仮に打たれても、もう一つの宿営は逃れられるように、と考えたのである。しかし、神はその計画よりも、ご自身の業により頼ませる道を選ばせた。
その日の夜、ヤコブは、皆にヤボクの川を渡らせると、独り川の北岸に残ったのである。そして「ある人」が夜明けまで格闘した。「ある人」は神であるとされる(28,30)。格闘は、ヤコブのもものつがいがはずされ、足が不自由になったとあるように体と体をぶつけ合う、肉体的な戦いであった。しかし、それ以上に、ヤコブの神を慕う心と不信、依存と反抗の相克を物語る霊的な戦いでもあったが、夢ではなかったのである。神はヤコブと勝てない状況に置かれている。不思議な表現である。しかしそれは、神がヤコブよりも弱かった、というよりも、弱いヤコブの執拗さに勝てなかったことを意味している。ホセアが言うように、「ヤコブは勝ったが、泣いて願った」(12:4)のである。ヤコブは自分の弱さを認め、人間的な立ち回りや器用さが、全く通用しない窮地にあって、神の祝福なくして、これ以上は一方も先には進めないと、とことん神によりすがったのである。自分の弱さをとことん知った彼は、ただ神の祝福に頼らざるを得なかったのである。「あなたは神と戦い、人と戦って、勝った!」と勝利を譲ってくださる、慈しみと恵みに満ちた神を求める以外になかったのである。
この経験を通してヤコブは、完全に神がなさることに自分を任せることを学んだ。だからヤコブは自分の策を捨て去り、群れの後ろからではなく(21節)、群れの先頭に立って進む道を選んだ(33:8節)。そして、ヤコブはこの戦いで「イスラエル」という新しい名を与えられていく。それは「神と争う者」という意味であり、後に契約の民の名となった。また、神との格闘の故に得た祝福の素晴らしい経験を記念し、その場所を「ペヌエル」と名づけた(31節)。太陽が昇った。まさに新しい出発を照らす、希望の光であったことだろう。
窮地は機会である。それは神が真に祝福の神であることを知る、重要な時である。真に神にすべてをゆだね、神が動いてくださることを知る時である。私たちの予測する結果がすべてではなく、神の出される結果があることを知る時である。神に生きるその計り知れない可能性と祝福を覚えて、今日の一日も歩ませていただこう。

創世記30章

ヤコブの人生はある意味で散々であった。二人の妻は、自分たちの女奴隷をも巻き込んで、女の幸せをかけて相争うのである。気が滅入るような家族間の争いの中で、ヤコブは、そもそもの原因はラバンにある、と忌々しく思うこともあっただろう。最初から自分が望んだラケルだけを妻にしてもらえれば、こんなことにはならなかった、と。
しかしながら、29:31以降、30章に続く物語の焦点は、二人の妻、レアとラケルが、この事態をどのように感じ、どのように解決しようとしたかに当てられている。いみじくもヤコブは、「私が神に代わることができようか」(2節)とすべての解決は主にあることを語っているが、問題は、二人のどちらも神に解決を求めず、ただ、自分たちの人間的な思いや努力を優先して解決しようとしたことにある。その姿勢は、彼らの義祖母サラに通じるものがある。ヤコブ家にとっては、信仰によって子を得たという霊的遺産は、どうも受け継がれていなかった部分がある。ともあれ、彼らは、人間の可能性の中で物事を考え行動した。しかし実際のところ、嫌われていたレアは、特別に神の恵みを受けたが(29:31)、ラケルは、神に敵視され、無視しされていたわけではない(22節)。常に神は、私たちに対して善であり、よきことをしてくださるお方である。大切なのは、神の時を待つことである。ただ、そのように神を信頼できるまでには、霊的な訓練と成熟が必要なのであり、まさにこのような異常事態に思える状況であっても、それが神の容認しておられる所で起こっていることであり、神が霊的な訓練の機会として設けられた時なのだ、と考えるべきなのだろう。私たちの日常性の出来事が皆、霊的成熟に向かうための訓練そのものである。
「恋なすび」は妊娠促進の薬効があると信じられた薬用植物である。ラケルは神よりもその効果に頼ろうとした。しかし、結果は逆であり、恋なすびを手放したレアがもう一人の子を得ることになる。神は恵み豊かで、私たちによいものを拒まれない、といついかなる時も、日常の困難にあって、まず神により頼んでいくことが、最善の解決策であることを学ばなくてはならない。サムエルの母、ハンナが同じような試練でどのように対処したのかを思い起こしたい。
家族の人間関係の中に試練が生じるのは辛いことである。家族は逃れることができない、生涯付きまとう関係だからだ。ヤコブは、妻たちとの関係に悩むのみならず、義父ラバンとの関係に悩んで行く。ヤコブを騙し、ヤコブを利用しつくそうとするラバン。そんなラバンに対してヤコブが考え出した脱出の道は、「自分自身のために自分だけの群れをつくることであった」ただそんなヤコブの心を見抜けないほど、ラバンも間抜けではなかった。彼は、ヤコブの提案に対して、そこにごまかしが起こらないように、自分の息子たちにヤコブの群れの管理を任せている。ヤコブは賢く提案したものの、明らかに不利な立場に置かれてしまっている。しかし事態はそれでも、ヤコブの望むとおりによい方向へと動いて行った。それはヤコブが当時信じられていた方法、つまり選択受精という方法を用いて6年間で成功したようでもあるが、実際には、後にヤコブ自身が認めるように(31:9)神がこれを祝されたためである。成功のために神が働いてくださった部分があるために、ヤコブは富み、多くの群れと、男女の奴隷を持つようになったのである。全てよき祝福は上から来るのである。
私たちは真実ではなくとも、神は真実である。永遠に抜け道のない袋小路に迷い込んだと思えるような、まさに望み得ないところでなおも神の善であることを信じていく、それが私たちに期待されていることである。だから、常識的に物事を考え、なせることは何でもなしたらよいだろう。しかし、常識的に行動する中で、常識を超えた神のみ業がなされる可能性をいつも考えておくべきである。というのも、八方塞がりの時に、本当に必要なのは、私たちの思いを超えた神の助けそのものであり、それがある、と期待し続けることだからだ。
私たちは、単なる人ではなく、神の子である。神は試練を通して、子である私たちをご自身に近づけ、ご自身のみこころに導いてくださっている。神の子として成長するために(2テモテ3:17)、神がしばし試練の時を許されることがある。多くの場合、人は、苦労することは悪いことだし、不幸なことだと考える。けれども、苦労があることと幸せであることは別次元のことである。だから苦労があっても本当は幸せだ、ということがある。苦労の中に、人は一人ではなく、神が共におられ、神の私たちの思いを超えた働きと助けがあることを悟るからである。ここがわかれば、人生はもっと楽しくなるものなのだ。

創世記29章

 ベエル・シェバからハランまで約800キロメートル。長旅の末、ついにヤコブは、伯父の住む町にたどり着いた。そこに井戸があった。井戸は人と人との自然の出会いの場であり、そこでヤコブは伯父の娘ラケルに出会う。それは偶然というよりも神の祝福のご計画に基づいたものだった。ラバンの家に迎えられるとヤコブは、「事の次第のすべてを話した」。ヤコブが自分のありのままを語ったのは、もはやエサウを騙した古い自分とはお別れして神の祝福を受けた子として、誠実な歩みをしたいと思ったからなのだろう。
しかしながら、人間の世界はそんなに甘くはない。自分が誠実になったからといって、誠実さが返ってくるとは限らない。自分が新しく生き直したいと思っても、世の中がそれを許さないことがある。人間は皆自分と同じように考え行動してくれるわけではない。ラバンは、ヤコブの誠実さを評価したが(14節)、逆にこれを利用した。ヤコブにとって、本当に彼が誠実さを愛する人となるか否かを試す時が経過することになる。そしてヤコブは、持ち前の粘り強さをもって、敗者に甘んじ、静かに逆転の時が来るのを待ち、神の豊かな報いに与ることになる。すべての良きものは上から来るのである。
当時花嫁の父は、「花嫁料」を受け取るのが普通であった。花嫁は、財産や奴隷のように売り買いするものではないが、貴重な家族の構成員を失うことに対する代償として支払われるもので、普通、50シェケルの銀で支払われることが多かった。もちろん銀でなければならないことはなく、ヤコブのように労働で返すこともあった。そこで、ヤコブは7年ラバンに仕え、ラケルを妻として求めたが、ラバンは長女のレアを妻として与えた。長女を先に嫁がせるのがルールであるとしても、ヤコブは騙されたのである。ラバンに対する信頼は見事に裏切られ、ヤコブはラケルのためにさらに7年間ラバンに仕えなければならなかった。騙した者が騙される者となっていく。ヤコブは臍を噛む思いであったことだろう。しかしながら、全ての人に、ラバンのような人が必要とされているのは言うまでもない。そしてこの物語は、最終的な決定が、ヤコブでもラバンでもなく、目に見えない神にあることを明らかにしている。正しいことをなさる神がおられるのだ。必要な報いと裁きを行ない、必ず帳尻を合わせられる神がいる。そのような神がおられることを覚え、恐れなくてはならないし、悪はどんな悪でも避けなくてはならないことを教えられる。だから、人を利用しようとしてはならないし、人を利用する者に出会い、その足かせを逃れることができないようなことがあるならば、全ての決定を握る神の助けが必ずあることを期待してよい。たとえそれによって損失を受けることがあっても、その損失を取り返そうと焦ったり、争ったりする必要もない。事実、争いに解決はない。むしろ、神の恵みは豊かであることを知るべきだろう。私たちの思いを遥かに超えた恵み豊かな神に全てを委ね、平安の内に歩むことだ。神は、失った時も、機会も、ものをもすべて償ってくださる。それによって、試練の時が実りあるものとなるのである。
そういう意味では、夫に愛されないレアもまた、神の愛のまなざしの中に置かれていたことを覚えなくてはならない。ヤコブはラケルを愛した。ラバンの策略によって押し付けられた妻であるとすればなおさら、ヤコブにレアに対する愛情が湧くのは難しい相談であったことだろう。しかしそんなレアの人生とはなんであったのか。思うようにはならないのが人生であるとしても、人の悪意に振り回された、あまりにも理不尽な人生である。だがレアは、真っ先に子を産む祝福に与り、数ある子どもたちの中でも、祭司となるレビ族と王を排出するユダ族の母となった。人間ヤコブは、目に好ましいラケルを選んだが、神は、見た目も劣り、嫌われた女レアを選ばれたのである。
普通の物語として読むならば、人間が愛されたい、認められたいと人に願うならば、それがどんな悲劇を生むのか、この物語は示している。しかしそれ以上に、これを神の物語として読むならば、この物語は全く望みのない者を選んでくださる、神のご性質を示すものであることがわかる。神は、窮地に陥ったヤコブを、そして悪意に振り回されたレアを見過ごしにはされなかった。すべての帳尻を合わせ、すべての人に公平を帰する神がおられることを覚え、その神の前に正しく歩むことを、今日も求めていきたい。