レビ記5章

皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。昨日、3章の記述で質問がありました。交わりのいけにえの動物は、「傷のないもの」と繰り返されているのに、先生は「欠陥のあるものでも」よかったと書いている理由は何か?と。確かに、原則は傷のないものですが、一部、交わりのいけにえの中でも進んでささげるものについては、体型が基準に合わないものでもかまわなかったのです(レビ22:23)。修正しておきました。丁寧に読んでくださってありがとうございます。皆さんのフィードバックにより、完成度の高い通読ブログになることを願っています。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.罪のためのいけにえ(5:1-13)
 最初の1-13節は、4章の続きであり、「罪のきよめのささげ物」の規定である。先の4章では、どのような人々がこのいけにえの対象になるのか、ということが論じられたが、ここ1-6節は、その罪の具体例が三つ語られる。一つは、証人として立つ立場にありながら証言しない場合(1節)、つまり人間的な弱さの故に、証言すべき時にそれができなかった問題である。具体的に、アカンが思い浮かべられる(ヨシュア7:19)。二つ目に、汚れたものに触れた場合(2,3節)、彼がその罪に気づくなら、償いのいけにえをささげる必要が生じる。三つめは、軽々しく誓う行為についてであって、後でその発言の重大さに気づかされた場合である。
いずれにしても大切なのは、罪に気づかされ、心責められるようなことがあれば、即告白しなさい、そして罪の贖いをしなさい、と教えられていることだ。罪は、よく知っている戒めを故意に犯すことばかりではない。私たちは、弱さの故に、これが罪かもしれないと思いながらも認められないでいて、後でじわじわとそのことに責められることがあるものだし、いや、その時は気にせずにいても、後でやはりこれは罪だったと気づかされることがあるものだろう。しかも人生何十年も経ってから気づかされる、こともある。しかしそうであっても、自らの姿勢を改めることに、遅すぎることはない。いつでも、気づいたのなら、その罪を告白し、罪の贖いをしなさい、という。神のいけにえを持ち寄り、悔い改めることが大切なのだ。具体的に言えば、いつでもその罪を神の前に、祈りの中で告白し、その罪の赦しのために十字架でいのちをささげてくださったキリストを覚えることである(1ヨハネ1:9)。神はすべての罪を赦し、きよめてくださる。いつまでも罪の呵責の中に自分を押しとどめていてはいけない。神が、関心をもっておられるのは私たちの過去ではなく、これからである。神は、私たちが赦しの中に心を新しくし、新しい人生を歩むことを期待されている。
2.ささげ物の例外(5:7-13)
7-13節は、ささげ物の例外について語っている。つまり、罪のきよめのささげ物は、貧しい者も献げられるように配慮されている。鳩を買う余裕のない者は、小麦粉でこれに換えることができるのだ。小麦粉は、極貧者の場合のみに例外的に許されることであり、油、乳香は添えられない。それは、穀物のささげ物と区別されるためであるが、こうしてすべての人は罪のきよめのささげ物をささげ、罪赦される特権に与る。
3.神の所有権を犯すことへの代償のささげ物(5:14-)
続く14節からは、6:7までが一区切りで、「代償のささげ物」の規定となっている。罪のきよめのささげ物と代償のささげ物にどんな違いがあるのか。実際には、ほとんど同義であり区別は難しいとされるが、ヘブル語の原語では、ハッタースとアーシャームと異なっている。あえて区別するならば、アーシャームは、神と隣人に対する償いに強調を置くことばである。実際、代償のささげ物では、他人の権利、つまり所有権などへの侵害が意識されている。だからエリコの分捕り物を着服したアカンの罪や他人の妻に手を出す姦淫の罪にこの言葉が用いられているのである。そして、実際のささげ物は、金銭的に評価に値するものをささげ、さらに、その五分の一の償いを加えなければならなかった。つまり十分の一の倍を返すということである。貨幣による価値(重さ)尺度によって、罪を清算しようとする、しかも、奉納者自身の値積もりではなく、神が定めたある一定の水準でそれをするがこのささげ物の特徴であった。代償のささげ物では、犯人の事情よりも、犯した侵害に十分な償いと補償を払う義務が重要なのである。
神は、私たちがいつまでも罪に悩まずに、即告白し、悔い改め、キリストの十字架のもとに来るように招いてくださっているのだが、罪の赦しそれ自体はそんなに簡単なものではなかった。私たちは、救いはただだ、と言ってしまうが、実際には、ただではない。簡単に、イエスの十字架の罪の赦しを考える所に、やはり、罪の自覚の弱さ、罪の赦しの恵みに対する感覚の深さに欠けているのだろう。そのような意味では、イエス・キリストの犠牲がいかに尊いものであったかを十分覚える必要がある。私たちの弱さのために、償わなければならない罪がどれほどあるかと考えてみれば、そら恐ろしい内容になるが、神の子キリストが、永遠のいけにえとして十字架にかかり、人々を罪から救うために血を流してくださったことで、「赦される(18節)」イエスが私たちのためにしてくださったことの偉大さをしっかりと覚え、イエスの犠牲を指し示し、赦しの恵みを深く味わいたいものである。神の罪の赦しの内に希望を抱いて歩ませていただこう。

レビ記4章

4章 罪のためのいけにえ
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日はレビ記4章、罪のきよめのささげ物です。かつては全焼のささげ物に含められていたものが、モーセの時代に分化されて、その意図が明確にされています。その意図をよく考える時に、人類が素晴らしい祝福にあることを思わされるところです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.ささげ物の位置づけ
 先の全焼のささげ物にしても、まじわりのささげ物にしても、必ずその祭儀儀式の中には、罪の贖いに始まる部分があった。しかしどちらのささげ物も、その中心は罪の贖いにあるのではない。それらのささげ物は、特定の犯罪行為と結びつくものではなかったし、そのためにささげられる物でもなかった。つまり、私たちが神と交わりを持つ前に、贖いを要するという私たちの状態を踏まえた手順が加えられていたのである。
 しかし、このささげ物は、あるはっきりとした犯行のために、つまり特定の罪の赦しを意識して定められたものである(4:1-5:13)。しかも、アブラハム、ノア、ヨブの時代には、このようなささげ物はなかった。彼らのささげ物は全焼のいけにえに代表されるものであり、モーセの時代、五種類のささげ物に分化し、さらに今日と明日読む、二つのささげ物、罪のきよめのささげ物と代償のささげ物は、私たちの日常性の中に特定の事柄、罪の赦しのためには、なだめがなければならない、という精神を最も明確に表すそなえ物として新設されたと言ってもよいだろう。そして、このささげ物が定められたためにこそ、私たちは、多くの安堵と、主の恵みを深く思うのである。
今日読み進む、罪のきよめのささげ物は、まさにキリスト教というのは赦しの宗教であることを改めて思わされるものである。過って罪を犯した場合、無知の故に、衝動性の故に、あるいは無意識の故に犯してしまった罪については、罪のためのいけにえによって神の完全な赦しを受けることができる、と聖書は語る。
 長い人生の歩みの中で、私たちは自分の罪深さを思うことがあるだろう。普通は、そのような罪深さを思っても、あまり深く考えないようにするものだろう。むしろ人はそのような罪深い者なのだから、過ちにまで拘ってもしょうがない、と思うものではないか。自分の罪がわかるというのは、心の成熟の故でもあるのだが、あんなことをして人に迷惑をかけた、傷つけた、配慮がなかった、そんなことをまともに考え始めたら、実際やっていけないし、人間破綻する他ない。だから人は、ある意味で、学歴や地位や身分、家柄によって、そんな弱い自分たちの現実を覆い隠そうとするのだし、それらが全く通じない現実に直面すると、恐れ退く以外にないのである。
しかし、聖書は、それは真に私たちを大事にされる神と出会う大切な瞬間であることを示す。神は私たちの学歴も、財力も、容貌も全く問題にはされない。神は、私たちが自ら受け入れがたい、私たちの心の現実と向かい合われる。私たちは自分が裸で何も持たない者であり、愚かさと無知と衝動性に塗ったくられた生涯を送ってきたことを考えると、自分を呪いたくなることもあるのだが、神は呪われるのではなく赦される、という。いかに罪深い人生を歩んできたかということに気づいて、もはや自分の人生に祝福などあり得ない、受けるべき罰をできるだけ軽くしてもらい、罪滅ぼし的な人生を送ることが、ふさわしいのだと思われる時も、後ろ向きになってはいけない。むしろ、聖書は、罪のためのいけにえを持ち来たれ、罪は赦されるのだから、と言う。神は、赦される。神は、清算される。私たちはいつまでも、自分で自分を赦せずにいることが多く決着がつけられないが、神はそうではない。しかも、罪のためのいけにえはすでにささげられている。つまり、キリストである。キリストのいけにえが、私たちの罪を赦すのである(ヘブル10:19)。
2.罪のきよめのささげ物の種類
 罪のきよめのささげ物は、その置かれた立場によってささげるべきものが違う。油注がれた祭司(3-12節)、全会衆(13-21節)、上に立つ者(22-26節)、一般の人々(4:27-5:16節)と、四種類に分けられる。油注がれた祭司は、傷のない若い雄牛。全会衆は若い雄牛、上に立つ者は傷のない雄やぎ、一般の人は、それぞれの能力に応じて雌やぎ,雌羊、山鳩二羽、家鳩の雛、細かな麦粉とされる。それらの違いは、罪を犯した人の身分と能力に応じて、それだけ高価なささげ物が必要とされていることを意味している。油注がれた祭司のささげ物は、全会衆のささげ物に相当する。それは、祭司が全国民を代表し、宗教的権威の高い地位にある人の罪の結果は、事柄の性質上他の人物の場合よりもはるかに深刻であることを意味する。また上に立つ者、国家の為政者の犯す罪も私的個人の罪よりも重い。また逆に身分が低いからといって罪が見過ごされることもない。富める者も貧しい者も、神の前に罪は決して見過ごされない。が、同時に罪は、必ずささげ物によって赦される。そこに私たちの信じる神の恵みが語られている。
3.罪のきよめのささげ物の祭儀手順の特徴と意味
 それぞれの立場のささげ物の手順に共通するのは、血の注ぎである。しかも立場によって、祭壇に塗る場合と(25、30節)、それでは済まず会見の天幕に入り、聖所の垂れ幕に向けて血の注ぎを行い、香りの高い香の祭壇の四隅の角に血を塗ることの二段階がある(6、17節)。つまり立場が重ければ重いほど、聖所の中にまで血注ぎの行為が深められた、ということだ。確かに祭司は、一般の人よりも神に近づける特別な立場にあった、だから、彼の罪は、聖所そのものを汚したと見なされ、彼の立場が回復されるためには、その場所で血塗り、血注ぎの行為が必要だったのである。そして神のあわれみの契約が完全であることを示すために、完全数である七にちなんで、七度血が注がれた。
大切なのは、先に述べたように、今日の私たちは、これらのささげ物を全く必要としない。ヘブルの著者が言うとおりである。「雄牛と雄やぎの血は、罪を除くことができないからです。…イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。…一つのささげものによって永遠に完成されたからです」(ヘブル10:4,10,14)罪の赦しのために永遠の効力を持つキリストがささげ物としてささげられた、という。ペテロが言うように、私たちは、神の前に祭司である(1ペテロ2:9)。だから、立場上、当時のささげ物であれば、傷のない若い雄牛に相当する、最も高価ないけにえがささげられた、と考えるべきだろう。そして、順序を間違えてはいけない。神は犠牲動物があるがゆえに、私たちを赦し愛されているわけではない。神はまず私たちを愛して、私たちの罪の赦しのためにキリストを犠牲にすることをよしとされたので、キリストのささげ物がささげられたのである。だから、私たちは彼らが祭儀手順でそうしたように、キリスト(傷のない若い雄牛)の頭に信仰の手を伸ばし、按手し、キリストを自分の罪のきよめのささげ物として、神にささげることができるし、要求されている。それは、一度の行為で、永遠の効力を持つものとなる。どうしてこれを拒むことができるだろうか。
人は罪の償いを要求し、いつまでも他人の犯した罪を忘れない。神も罪の償いを要求されるが、永遠の完全なささげ物であるキリストを携えて、罪の赦しを求めよと勧められている。キリストご自身が傷のない自らをささげられたことで、私たちの完全な罪の赦しと聖めが実現し、私たちは生ける神に仕えることが許されている。神の前に罪を告白し、希望をもって、神と共に歩む新しい人生をしっかりと歩ませいただこう。

レビ記3章

<要約> 
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日はレビ記三章、交わりのいけにえについて語っているところです。とても重要な今日的意義のあるいけにです。神はもはや私たちと敵対されることなく、味方となり、私たちに命を与えられる方であることを、覚えるべき、いけにえです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.交わりのいけにえの種類

交わりのいけにえは、①牛(1-5節)、②羊(6-11節)、③やぎ(12-16節)のいずれかでささげられる。ささげるものは動物に限られるので、五種類のささげ物の内、これだけがいけにえ、と新改訳2017では訳されている。動物は、雄のみならず、雌でもよかった。それは、神からイスラエルに提供された食事という目的にかなうものであればよいのであり、原則ささげ物は、傷のないものでなければならなかったが、一部(進んで献げるもの)体型が基準に合わないものでもかまわなかった(レビ22:23)。なお、七週の祭りの時以外(レビ23:19-20)、いつささげるべきかは、定められていない。つまりいつでも自発的にささげられるものとされた。
2.交わりのいけにえの和解の要素
ささげ方については、傷のない動物の頭に手を置き、そのささげ物の血を全部祭壇のまわりに注ぎかけ、脂肪を焼き尽くし、主の前に揺り動かされた胸の部分は奉献物として、ももは奉納物として祭司に与えられた。その他の部分は、いけにえをささげた者と家族や友人たちの食用に与える。
つまり、このいけにえの特徴は、まず全焼のいけにえと同様に、身代わり的な要素を持ち、キリストの十字架を予表する。実際パウロも、キリストの十字架の犠牲について、その意義は、「二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました」(エペソ2:16)と語っている。イエス・キリストが十字架上で流された血、そのささげられた尊いいのちの犠牲によって、神は、私たちと和解してくださったのである。そして、この和解は、信仰によって受け止められるべきものである(ローマ5:1)。私たちは、この和解を受け止めるために、「信仰」を求められている。主イエスの十字架の犠牲が、神との和解を成立させることへの信仰である。
しかしながら、神と和解することは、私たちの人生にどんな意義をもたらすのであろうか。神なんてものは、遠い存在で自分の生活と何の関係もないと思っている人も多いだろう。しかし聖書の神は、この世界をお造りになり、支配しておられる神である。その神を敵に回すなど考え難いことである。かつて、アッシリヤの将軍セナケリブは、世界の覇者となり、パレスチナの地にまで遠征し、ヒゼキヤ王を脅迫したことがある。「お前は誰に頼ろうとするのか」エジプトと同盟を組んでアッシリヤに対抗しようとしたイスラエルは、赤子の手をねじられるようにいとも簡単に侵略されようとしていた。しかし、天地創造のまことの神を認めず、おごり高ぶったアッシリヤは、その時奇跡的な神の介入により大敗を帰しているのである(イザヤ36、37章)人間は、被造物に過ぎないことを忘れてはいけない。この世のすべての事象は、見えざる神の御手に導かれて成り立っている。謙虚になればこそ、人間よりもさらに遜って和解の手段を自ら差し出してくださる神の存在がわかるのである。
3.交わりのいけにえの食事の要素
さてこのいけにえのもう一つの特徴は、神との平和を象徴する食事の要素にある。全焼のささげ物は、全てが焼き尽くされて儀式が終了した。しかしこのささげ物では、最後に食事が伴うのである。そこで、このいけにえには、「感謝のいけにえ」「誓願のささげ物」「進んでささげるべきささげ物」とも呼ばれ(レビ7:11-21)、儀式の最高潮として、神と和解したことを喜びながら、食事をする時を持った。それは、喜びの交わりである。いつでもささげられるいけにえであったということは、いつでも感謝と共に持ち得るものであり持つべきものであるということだろう。もちろんこのいけにえの食事は、自宅ではなく聖所でなされるものであり、神が招いてくださった宴会としての意味がある。そして、二つの食事があった。一つは奉納者と家族、もう一つは祭司による食事である。しかしながら、注意すべきことは、異教においても同様の食事があったことであり、異教のそれと聖書が教える交わりのいけにえの違いは、宴会主催者が誰かということにあった。異教では、宴会主催者は、いけにえを持ってきた人であり、神を客として宴会に招くのである。しかしレビ記が教えていることは、宴会主催者は、神であり、人が客として宴会に招かれている、ということだ。実際、奉納者は、奉納から血の注ぎの儀式の流れの中で、犠牲動物を神にささげてしまっている。犠牲動物はもはや神のものなのである。だから、神は受け取ったものを、和解の証拠として、今度は、一部を祭壇の上で焼き尽くし、一部は、祭司に与え、残りの部分で礼拝者をもてなすのである。これが自宅ではなく、神の家で食べるように命じられているのは、奉納者が宴会主催者を勘違いしないように、という工夫でもある。だからこの食事の主人は、神ご自身であり、神が、一人一人を和解の食事、和解の宴会に招いてくださっている、とする(黙示録3:20)。そのたびに、それが私たちのものであることを信じ、喜び、目と舌と鼻と胃袋全てで味わう恵みなのである。
 今日で言えば、それは聖餐式の恵みに通じるものだろう(1コリント11:26)。聖餐式のたびに、私たちは、主イエスの十字架の犠牲により和解の恵みにあることを覚えて、感謝をささげる。聖餐は神が招いてくださる、舌で味わう恵みである。聖餐のたびに、私たちは、神が私たちと争うことを止め、敵対されることなく、味方になってくださる平和の契約と和解と交わりの現実を覚え、その霊的な祝福を味わい、感謝をささげる。キリストは、天から与えられたマナのごとき、いのちのパンであり、私たちのいのちを維持するために永遠に与えられた交わりのいけにえである。私たちは神の子羊の肉を食べることによって生きるようにさせられている(ヨハネ6:52)。そこに私たちの力もあり、日ごとにイエスによって養われることの重要さを教えるいけにえである。今日も、いのちのパンである主イエスのからだに預かり、主の恵みに感謝しつつ歩むこととしよう。

レビ記2章

<要約> 
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。さて、今日は、穀物のささげ物についてですが、私たちの献金のあり方について深く考えさせられる原理原則が語られるところです。全て主に守られて、祈りによって進められている日々の労働の実をささげる、そんな認識を深めたいところです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

レビ記の最初の七章は、主にささげられるべきささげ物について扱っており、第二のいけにえは、供物のささげ物である。香りのあるささげ物と香りのないささげ物に分けるならば、先の全焼のいけにえにと共に、穀物のささげ物は香りのあるささげ物となる。
1)穀物のささげ物の種類と特徴 
通常、穀物のささげものは、動物のいけにえに添えてささげられた。ただ例外として、いけにえの動物を手に入れることができない貧しい者は、動物のいけにえに代わる罪のためのいけにえとして、これをささげることができた(レビ5:11)。それ以外は、毎日朝と夕にささげられる全焼のいけにえに添えてささげられた。他方、穀物のささげ物は、小麦であることが指定された。それは、当時の穀物の中で、最も高く値積もりされたものである。つまり、イスラエルの民は最上のものをささげることが求められた。貧しいからといってささげるものがない、という言い訳はできず、ささげる場合は、最上のものを、これがささげる者の心得である。
さて穀物のささげものは、土地を耕す人間の労働によって産出された農産物のささげ物であるが、三種類定められている。料理していない小麦粉(1-3節)、手で平らに伸ばされ、熱い石かかまどで焼かれたパン(4-13節)、そして単に火であぶっただけの穀粒か引き割り麦である(14-15節)。穀物といえども、多様な形でささげられることが許されたのは、それぞれの財力に応じたささげ方が許された、ということなのだろう。いずれにせよ、手が加えられている点が重要であり、それは、労働の実をささげることを意図している。額に汗をして、苦労の末手に入れた、労働の実をささげるのである。つまり全焼のいけにえは、いのちそのものをささげる行為であるが、穀物のささげ物は、いのちの営みの結果をささげる。いずれにしても、ささげ物は、いのちをささげる行為にほかならない。
2)ささげ物への追加物と禁止されるもの
ところでこの穀物のささげ物は、乳香、油、塩を混ぜてささげられた。また、パン種や蜂蜜を入れることは禁止された。それぞれ意味のあることであった。
油は通常オリーブ油であり(1,4-7、15-16節)、王や祭司の任職の際に、注がれるものであって、聖霊の象徴である(2コリント1:21-22)。主の聖なる生涯も聖霊の油注ぎを必要としていたように(使徒10:38)、私たちも聖霊の油注ぎを受け、聖霊のお取り扱いを受けたいのちの営みをささげるのである。確かに、私たちの人生の歩みは聖霊の助けにより、成り立つものであり、勤労の実も、聖霊の守りと助けがあって、産み出されるものである。聖霊の働きを信頼し、感謝しつつ、ささげる心掛けがそこに教えられている。
乳香(1、15節)は、かんらん科の植物の樹脂で幹に傷をつけると乳白色の樹脂がにじみ出てくる。様々な種類のものがあったようだが、当時は入手しにくい非常に貴重なものであった。乳香は古代エジプトにおいては、神にささげる薫香として使われ、王だけしか使うことを許されなかった聖なるものである。このエジプトの習慣が出エジプトと共に、ユダヤ人に伝わり、神にささげる薫香として用いられるようになったとされる。乳香の煙は神を拝する人々と神を結ぶもの、つまり祈りの象徴である(詩篇141:2,黙示録5:8)。主にささげる供え物は、常に祈りをもってなされた。
また、塩(13節)は、腐敗を防ぐことと味付けをすることがその目的であるが、「神の契約の塩」(民数18:19)と語られるように、それは、神の不変の契約の象徴である。神は、永遠の契約関係の中に私たちを入れてくださっていることを覚えてなされるものである。
以上から、全焼のいけにえが、イエスの十字架の死、つまりいのちをささげることであったとしたら、これは、イエス・キリストの生活と品性がささげられたことを思い起こさせるものである。イエスの地上の生涯が、神を喜ばせる実としてささげられたように、私たちも、私たちの日々の労働と生活が、神を喜ばせる実となることを願ってささげるのである。だから穀物そのものよりも、穀物という収穫を生み出した私たちの忠実さや誠実さが、そこでささげられるのである。だから今日の貨幣を労働の実とする社会にあっては、お金がささげられるのであるが、神が喜ばれるのは、お金ではなく、その結果をもたらした私たちの誠実な労働である。確かに、どれほどたくさんのささげ物であっても、不正なお金、不正な実をもらって嬉しい者はいないのであるし、神を思う思いの希薄な形ばかりのささげ物も、喜ばれることはない。
だからささげものには、パン種や蜜を入れてはならなかった。それらは、発酵や腐敗を促進させる作用があるので、それらから全く自由にされた聖別されたものだけをささげることが期待された(1コリント5:6-8)。私たちが古いパン種を取り除き、聖霊に信頼し、祈りにより塩味の効いた神の栄光を現す生活と勤労を重ねる、そのような営みから出た実をささげる、そこに、穀物のささげものの意味がある。礼拝における献金の行為は、実際には私たちの日常生活と切り離すことはできない。イエスの生活と品性に近づく信仰の鍛錬があってこそのものである。そのような認識のもとにささげられる献金であればこそ、教会財政も本当の意味で強くされるであろう。主に対するささげ物の認識を新たにしたいところではないだろうか。

レビ記1章

<要約> 
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。さて、今日からレビ記に入ります。創世記も出エジプト記も、レビ記もみなつながっています。個々に読んでいませんか?今日から学ぶレビ記は、創世記、出エジプト記の土台の上に、語られるものです。そして聖書の深みを理解する最も重要な書です。しっかり読んでまいりましょう。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

創世記において一番大切なのは、創世記12章を軸に展開する終末史的ビジョンを読み解くことである。つまり、そこには、罪と堕落によって裁きを受け散らされた人類(11章)が、アブラハムとその子孫の選びと働きにより一つとされる終末に向かう神のご計画が語られている。出エジプト記は、具体的にイスラエルの民の選びが描かれている。彼らは、贖罪(血による罪の赦し)によって選ばれた(12章)、そして、神の戒めを与えられ(19,20章)、礼拝する民とされる(25章以降)。すなわち、創世記に描かれた終末史的ビジョンは、神を礼拝する民の証しによって達成されるのだ。レビ記は、出エジプト記において、物語的に語られた「罪の赦し」「神の民のきよめ」「礼拝」という重要な考え方を、神学的、論理的に深く解き明かす書である。実際、レビ記は出エジプト記と連続している。出エジプト24:16で神はモーセを「呼ばれ」幕屋建設の詳細を告げ、その準備が終わり、聖所が設けられると、再び神はモーセを「呼び寄せ」(レビ1:1)、個々のいけにえに関する規定を与え、神の民がささげるべき礼拝のあり方を教え導いているのである。
1.全焼のささげ物の種類
そこで1章、まず「全焼のささげもの(=なだめのかおりの火によるささげ物)」の規定が語られる。ささげ物は、その経済状況によって異なっていてもよく、豊かな者は牛を、貧しい者は鳥をささげたが、いずれにせよ、全く傷のないものでなければならなかった。だから、肉食獣は除外され、清い獣や家畜に限定された。そして、このささげ物は、祭壇の上で、それらを全て焼き尽くし煙にするのが特徴であった。
2.全焼のささげ物の手順
 だからささげ物をささげる手順に注目し、その意味をよく理解しなくてはならない。まず焼き尽くすささげ物となる動物は幕屋の入口に引いていかれなくてはならなかった(奉納)。次に按手がなされる(4節)。それは、動物の頭の上に手を置く行為であるが、それによってその動物に、私たちに下される神の刑罰の義務が移行したことを意味した。ささげられる動物は、まさに私たちの身代わりとなって焼き尽くされるのである。だから第三に、いけにえは屠殺される(5節)のであるが、それは、神の怒りの刑罰が、身代わりの動物を通して私たちに下されたことを意味する。ささげられた動物と私たちは一体で、私たち自身が神の刑罰を受けて死んだことになるのである。パウロは、イエスの身代わりの死について、「私はキリストとともに十字架につけられた」(ガラテヤ2:20)と語っているのはそのことである。イエスの十字架は私たちの罪の赦しのための身代わりの死であるが、それによって私たちも神に裁かれたのである。私たちも古い自分に死んでいる。
第四に、祭壇の周囲に血を注ぎかける(5節)。祭壇は神の臨在の象徴である。だからそこに血を注ぐことは、自らの死と贖いを確認する行為である。「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」とヘブルの著者は語った(9:22)が、それは神との確実な契約に基づく行為なのである。そして最後にいけにえが焼却される(6-9節)。火は神の怒りの火、焼きつくす火である。そして同時に浄化の火を示している。しかしそれらの火によって、いけにえは最終的には、宥めの香りの火によるささげ物となる。主を喜ばせることが最終目的である。この全焼のささげ物は、すべてのささげ物の基本となった。
3.全焼のささげ物の意味
全焼のささげ物について三度繰り返されることばに注目したい。「主への食物のささげ物、香ばしい香り」(9、13、17節)がそれである。神に崇敬の念を示すために、ささげ物において神に食物が提供されるというのが古代異邦人の考え方であった。しかし、イスラエルにおける主への食物は、そのような物質的な必要を満たす意味はない(詩篇50:8-15)。それはあくまでも霊的な意味であって、食物は契約の神への感謝、忠実さ、また信頼を象徴している。神が私たちに献げるように期待しているささげ物は、まさに私たちの感謝、忠実、信頼、そして神に対する愛なのである。私たちにとって食物が不可欠なように、神にとって霊的な食物、つまり私たちの全き献身が不可欠のものである。しかしながら、レビ記において最も理解するべきことは、私たちが全き献身をささげるのではなくて、私たちの代わりに全き献身が既に献げられたことである(ヨハネ1:29)。私たち罪人の自己献身はいかなる献身であろうとも不完全さを免れ得ない。完全な献身は、永遠の御子が罪人の身代わりとなり、ゴルゴダの丘においてご自身を献げた自己犠牲以外にありえない(マタイ26:28)。御子の十字架の死に至るまでの、御父に対する完全な愛と服従が、主への食物であり、香ばしい香り、すなわち喜ばしく、受納される宥めであったのである(4節、ヨハネ17:19、エペソ5:2)。
だからパウロは、キリスト者に、自分自身を神に献げて歩むように勧めているが(ローマ12:1)、それは、キリストの十字架の犠牲を神が受け入れられたことが前提となっている。つまりキリストの故に私たちは、受け入れられており、神に近づいて自分自身を献げる歩みが許されているのである。こうして全焼のささげ物をささげることは、神に献身を示す、神に対する愛の行為というよりも、完全な犠牲によって神に愛されていることを確認し、自らをキリストに倣って神のものとされることを願う行為と理解されるのである。
ペテロは語った。「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」(1ペテロ2:5)。私たちは、キリストにあって既に自分自身を神にささげ、受け入れられている。ならば、受け入れられている者としてさらに自分自身をささげて生きていくことが、期待されていることである。神は物がささげられて喜ぶお方ではない。私たちが、キリストの十字架を覚え、遜り、この方にあって新しいいのちと神との関係があることを覚え、感謝と、忠実さと、信頼を益々深めるように神を仰ぐことこそが、神の喜びとされる食物となるのである。今日も神の恵みとキリストのとりなしに守られてある事を覚え、神にささげた歩みをさせていただこう。