マタイの福音書26章

いよいよ受難物語に入る。マタイの福音書は、イエスを第二のモーセとして描いているという学説がある。しかし実際には、誰にも知られないモーセの死に対して、イエスの死は実に詳しく描かれている。イエスの十字架の予告に始まり、一挙に、最後の晩餐、ゲッセマネの苦悶の祈り、ユダの裏切り、逮捕、カヤパの前での審問、おそらくサンヘドリンの小委員会での裁判へとマタイは書き進めていく。わずか半日ほどの出来事であるが、めまぐるしく時が動いていくような印象だ。イエスは裏切られたようでもあるが、実際には、これらすべてを予測し、自ら進んで、自らの主権によって、この出来事を実現していくのである。それが、サンヘドリンや弟子たちの予測に反していたことは以下の記録に明らかであろう。

というのもサンヘドリンの議会は、イエスの十字架は、祭りの後、と決めていたが、実際には、それは祭りの前に起こったことである。そして、イエスの予告を聞いていたにもかかわらず、そのための備えとなった油注ぎの事件の重要さに気づいた弟子は一人もいなかった。油を注いだ女も結果的にはイエスの葬りの準備をしたのではあるが、彼女がどれだけ、十字架についての深い洞察の中でこれをしたのかはわからないところである。ただ、孤独の中で、十字架でのなだめのいけにえとなる時を迎えようとしていたイエスにとってこれは唯一の慰めであり、記念となった。

油注ぎの出来事は、すべての福音書に記録されるが、微妙にその状況や内容が異なっている。女は、インドから輸入されたぜいたく品であり、死体に塗るために用いられた香油をイエスに注ぐのであるが、この行為に反対したのは、マタイの福音書では「弟子たち」である(マルコでは「何人かの者」、ヨハネではユダのみである)。つまり、そこには既に述べたようにイエスの孤独な戦いがあった。しかし、イエスのこのみ苦しみを覚え、その深い洞察から出て来る主に対する働きは、今なお少ないと言うべきなのだろう。私たちは主を覚えるのではなく、常に、自分の栄光と損得を求めて、主のしもべのふりをしている、ということがある。

次に、ユダの裏切り(14-25)。ユダがなぜイエスを裏切ったのか、マタイの書き方は、彼の貪欲さが、イエスを売り渡した、と読むことができる。銀貨30枚は、奴隷を失った主人に対する賠償金の額に相当する(出エジプト21:32)。ゼカリヤの預言を思い出させるところであるが(11:12)、神の子イエスは奴隷の値段を付けられた。主のしもべのふりをする悲劇的な結末であったと言えるだろう。だがすべては小さな取引から始まるのである。

ともあれマタイはこの後駆け足で、最後の晩餐の物語、ゲッセマネの祈り、逮捕と綴っていき、ルカの福音書にある、弟子たちの間に起こった誰が偉いかという議論は省略している。それは、献身と裏切りという両極端の弟子の在り様を描き出すことで十分だったからなのだろう。

さてマタイは最後の晩餐は、種なしパンの祭の第一日、ニサンの月の15日に行われたと記す(17節)。しかし、ヨハネの福音では、これはニサンの月の14日が始まる夜とされている(13:1、18:28)。となれば、イエスの受難はちょうど過ぎ越しの小羊が殺される時刻、ニサンの月の14日が終わる午後に起こったことになる。おそらく事実に近いのはこちらの方であろうと考えられており、マタイの記述のずれについては、多くの議論があるものの、その意図はよくわかっていない。

ユダの裏切り、最後の晩餐による過ぎ越しの新しい意味づけ、イエスの復活の予告、ペテロの裏切りの予告、ゲッセマネの苦闘の祈り、イエスの祭司長たちへの引き渡し、散り散りとなって逃げた弟子たちの姿、これらはすべて聖書が実現するためであったとマタイは記している(54節)。大祭司は、苛立ち、「あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい」と語り、イエスは「あなたの言う通りです」と答える。イエスに対するヒステリックな応答がなされている。イエスは祈った。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、私の願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」(39節)イエスご自身も、このような試練は、耐えがたく思っていることに注目されるが、イエスは神の主権の前にひれ伏し、それを受け入れている。こうした一連の記述を通して、マタイが語りかけて来るのは、私たちが一体どのような動機づけで、どのような姿勢で、イエスに従っているのか、信仰の歩みを進めようとしているのかではないだろうか。十字架への深い洞察をもって、苦難の僕を主とする歩みに、私たちは招かれている。そしてそこから全ての奉仕が、導かれる必要があるのだ。

マタイの福音書25章

終末と神の国を巡るたとえ話が続く。最初に花婿を迎える十人の娘の話し。次にタラントのたとえ。そして羊と山羊のたとえである。

花婿を迎える十人の娘の内、五人は賢く、五人は愚かな娘であるという話しは、終末への備えのあり方を語っている。これは、24:45-51に描かれた忠実なよいしもべの話しに通じるものだ。しかし、24章の忠実なしもべの話しは、「まだまだ大丈夫だろう」という態度への警告であるが、25章の十人の娘のたとえはこの逆である。愚かな娘たちは、花婿が直ぐにでも来る、という認識は持っていたが、その時が予想以上に遅かったということで、突然その時を迎えなければらなかった状況を語っている。いずれにせよ、これらの物語は、両極端の備えのなさに警告を発している。では、どんな備えが期待されたのか。灯をともすというのは、キリスト者として世の人々と自分を区別するしるし、つまり信仰告白と洗礼を受け、聖餐の恵みに与り、実際に信仰者として生きることだろう。そして、油は、常に霊的な熱心さを持って主に仕えることそのものであろう。つまり賢いキリスト者は、主の再臨を覚えて、絶えず聖霊により頼んで、生きた信仰の歩みをしている人のことである。ちなみにこの愚かな女たちの愚かさは、油を人に分けてくれるように頼んだところである。聖霊は、主ご自身のみが与えてくださるものである。主に直結した信仰こそが、終末にしっかり備えさせることになる。そういう意味で、「神とよき時を過ごす」訓練を自分に課したいものである。

そこで、どんな備えをすべきであったのか。次のタラントと山羊のたとえの二つがそれを教えている。タラントのたとえは、ルカに出てくるミナのたとえと似ているが異なる。タラントのたとえでは、しもべの能力に応じて預けられた量が違っている。ある者は、五タラント、ある者は二タラント、ある者は一タラントというように。ミナのたとえでは、いずれも同じ量、つまり一ミナを与えられている。この違いは何を意味するのか。ミナは、すべての神のしもべが平等に与えられているもの、つまり福音である。タラントはすべての神のしもべが同じではない、個性あるものとして任されているもの、つまり才能や賜物である。ということは、日々、聖霊によって与えられた賜物を十分に生かすように生きているか、それが重要な終末の備えというわけだ。聖霊により頼んで生きた信仰の歩みをするということは、具体的に聖霊に与えられた賜物を日々生かして、神のみこころに生きていくことに他ならない。だから、自分が神に何を与えられているかという自覚とその与えられたものを忠実に活用する心がけが重要なのである。結局、目に見えない神を思い、神を愛する心があるかどうかが、タラントを無駄にするか否かの分かれ目である。

神の忠実なしもべとして、神に与えられているものを十分生かしていく責任が私たちにはある。時間も、お金も、身体も、才能もみな神に与えられたものであれば、それを神の御心に沿って用いていく気持ちが必要だろう。私たちはそれぞれ異なった賜物を与えられている。それをすべて主人が戻ってくる前に、忠実に用いていかなくてはならないのである。だから備えができていることは、弟子として与えられたものをその大小に関らず、忠実に管理し、豊かに活かしていることである。そして三人に対する評価が違うように、責任を果たすというのは、単に失敗しない、ということではなく、むしろ結果を生み出すように精力的に奉仕をしていくことを意味するのである。

ただ、与えられた賜物を用いるというのは、実は、それほど大げさなものではない。本当に小さなことであって、愛の心をもって関心を向けること、気遣いをすること、声をかけること、といったようなものなのであろう。そこで最後に、羊と山羊のたとえはそんな意味付けを与える。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」(37-39節)。賜物を使う、才能を生かすということも、気づかずに行うような小さなことである。神に従おうと一生懸命になる信仰はどこか、ぎこちない。どこかずれている。自然体で、喜びと感謝をもってただ神に従わせていただいている、そんな謙虚な歩みこそが備えある日々を形作る。自分の心が神のみこころにあまりにも集中しているが故に、意図せずにそのことをしていくようなものなのだろう。本当に救われた心を持ち、神を愛することに喜びを持つ一日でありたい。

マタイの福音書24章

24、25章は、第五の説教、いわゆる終末のさばきがテーマとなっている箇所である。しかしながら、裁きということからすれば、23章から繋がっているとも考えられるのであるが、明らかに聴衆は異なっている。やはりここは、24章で区別すべきところなのだろう。これは弟子たちのみに対する教えなのである。

さてこの24章は、単に70年のローマ帝国によってエルサレムが破壊されることを預言するのみならず、「あなたが来られ、世が終わる時」(3節)とあるように、終末を語る今の私たちにとても意味を持つ二重預言となっている。イエスは、単に、私たちに倫理的に生きることを教えているのではない。やがて人は神の前に立つ、その時を目指して、しっかり説明のできる人生を生きるように勧めている。

さてイエスはエルサレムへのさばきに重ねて終末に起こることの要点をいくつか述べている。第一に、終末にいたる前兆的な事柄がある(3節)。救世主の名を名のる偽キリストが現れること(5節)、戦争・内乱、政情不安定(6-7節)、自然災害(7節)、迫害(9節)、宗教的な惑わし(11節)、社会的な不正、冷酷(12節)そして全世界に福音宣教が宣べ伝えられることである(14節)。こうした前兆の後に、黙示録20章で語られているようなファイナルシーンがやってくる(20節)。つまり「この天地は滅び去ります」(35節)ということであるが、大切なのは、神によって創造され始まったこの時代も歴史も、神によって終焉を迎えることだ。神の主権があり、神がこの世界を興し、この世界を終わらせるのである。私たちの宣教の熱心さによって終末が早まるわけではないし、人間の愚かさによって自滅が早まるわけでもない。それは、神に定められた時に、起こることであり、誰も知る由もない。となればこそ、神のみこころに心を合わせる努力も必要なのである。

15-20節は、明らかに歴史家ヨセフォスも語るように、AD70年のローマ軍による神殿破壊の時に文字通り成就したと言える。教会史家のエウセビオスによれば、キリスト者は、このイエスのことばを覚えて、既にエルサレムから立ち去っていたが、ユダヤ教徒は、宮に立てこもり神殿諸共に滅ぼされたという。

そこで第二に、イエスはご自身の来臨について触れている。「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」(30節)。まるで劇画的なイメージで、実際に文字通りのことが起こるのだろうか、とすら思われる部分だろう。しかし言わんとしていることは、終末の締めくくりに、私たちは、イエスの主権を確かに認めることになることである。「悔い改めよ、神の国は近づいた」と語る、イエスのことばが確かにまことにそのとおりであったことを、皆が認めることになるのだ。

第三に、そのような終末の時は、「だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(36-38節)「だから、目をさましていなさい」(43節)と警告される。終末は近づいているが、その時は誰にもわからない。

だからといって終末をことさら怖がる必要もない。終末がいつであっても、目を覚まして、終末にふさわし生き方をしていればいいだけだからだ(44,45節)。用心していなさい、そしてふさわしい生き方をしなさい、という勧めの中で、「食事時にきちんと食事を与える」という非常に日常的な内容が語られている。終末を意識するからといって、特別な生き方をするわけではない。ごく日常の事柄を普通に生きていく。普段すべき常識的なことをきちんとしていくことをイエスは勧めている。

信仰生活は、「宗教的」に熱心であればよい、というのではない。普段の日常の生き方の中に信仰が生きているかどうかが問題である。日々の人間関係や生活における忠実さ、誠実さが大事なのである。信仰を持つというのは神がかり的に生きることではない。まさに人間としての成熟の道を生ることに他ならないのである。目を覚まし、神にお会いする備えをもって、いわゆる、日常性の中で悟りながら、神と人と自分との誠実さの中に歩ませていただくことが大切なのだ。

マタイの福音書23章

すでに21-22章においてイエスは律法学者やパリサイ人たちと対決姿勢を示していたが、ここ23章ではいよいよ彼らの腐敗と欠点を容赦なく攻撃している。これは、24-25章の、エルサレムのさばきの宣告へとつながる、重要な局面である。ただ、これらのことばは直接的には弟子に向けて語られている。つまりイエスは、弟子たちを正しい方向に導くことを意識して語られた、ということである。

イエスは言う。「言うことはみな、行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです」(3節)。律法学者の問題は、口先だけ、行動が聖い内面の現われではなかった点である。しかし注意すべきは、彼らは何もしていなかったわけではないことである。30年も前になるが、新しいパウロ理解という考え方が日本にも紹介されて、1世紀のユダヤ教についての理解が深まっている。当時のユダヤ教は、「律法」よりも恵みの「契約」を中心とする宗教であり、イエスが攻撃されたのは、聖書に基づく律法主義というよりも、聖書に関連して先祖から言い伝えられた戒めを形式的に守る実践のことであった、と考えられるようになった。つまりここで批判されているのは、「聖書と食い違った実践」のことである。それは、日本のクリスチャンの現実についても言えるのかもしれない。どうも聖書が言っていることではなく、聖書が言っていると思いこんでいることを頑なに守る、窒息しそうなクリスチャンがいるのではないか。信仰を持ったらまずすべきことは、生来に築いて来た自身の価値観と思いこんでいるかもしれないキリスト教理解の検証である。そこから解放されるだけで、自由を得るキリスト者も多いことだろう。パリサイ人は、他人に「重い荷物」を負わせている、とイエスは言う。確かに、旧約は恵みを語っているが、彼らはそれを語らなかったのだ。神の恵みは新約においていよいよ豊かにされている。

クリスチャンにとって最も大切なのは、体裁が整うよりも、神の力によって価値観や考え方が変えられて、心が成熟していくことである。自分の成熟以上に自分自身を見せかけようとする偽善から解放されながら、着実に自分を成長させていくことだ。それは、宴会の上座や会堂の上席などを求める、あるいは人から先生と呼ばれたがる肉の性質から解放されることだろう。また、自分が出来ていない、つまり、キリストの十字架にある罪の赦しと聖霊の助けを最も必要としている者であることを自覚し、ますますキリストにより頼むことだろう。「経札の幅を広くしたり、衣のふさを長くしたり」(5節)といった外面的なことではなくて、真に律法の深い責めを心に受け、キリストを避け所として成熟を目指しているかである。「まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば外側もきよくなります」(26節)という内面の成熟を重視するかにある。

12節までは「群衆と弟子たち」に向けて語られるが、13節からは直接「律法学者とパリサイ人たち」に向けて語られ、文体も変化し、連続して「わざわいだ」で始まる七つの非難を向けておられる。言いたいことは、彼らは、いかに律法の保護者であり解釈者であるという役目を果たしていないかである。彼らの宗教的実践にしろ、教えにしろ、神を喜ばせたいという彼らの目的を達成するものではない。彼らはただ個人的な信仰生活に失敗していた、というのではなく、イスラエルの指導者として責任を果たすことに失敗しているのである。だからイエスのことばも激しい。先にイエスは、山上の説教において「幸いな者」がどのような者であるかを語ったが(5:3-12)、ここでは「わざわいなる者」がどのような者であるかを語っている。彼らの問題は、内面において神と向き合っていなかったことにある。だから彼らは神の言葉に応じることができず、神の預言者、知者、律法学者を拒絶し、迫害し、打ち殺したのである。その報いは、彼らが受けなければならなかった。36節、「この時代」は、直接的には、エルサレム崩壊、70年のローマ帝国によるエルサレム占領の出来事について語っているのだろう。しかしこれ以降は、24章のより明確な裁きのことばの橋渡しとなっており、私たちの時代を含めた終末預言としても受け止められる。

神は、私たちの心を求めておられる。行いではない。神を愛し、神に献身した心を求めておられるのである。行いはそれに伴うものだろう。確かに、心が貧しい者、心が破たんし、神にのみ望みを抱き、神に期待して歩む者にこそ、主の恵みも大きいのである。

マタイの福音書22章

イエスが語られた結婚の披露宴のたとえは、基本的に先の二つのたとえ、ふたりの息子(21:28-32)と旅に出かけたぶどう園の農夫(21:33-43)のたとえの繰り返しであるが、より深い決断を迫る内容になっている。というのもこのたとえは、王の婚宴というおそらくこれから先一度限りしかない招待、つまりは終末的な招待について暗示している。そうでありながらも、多くの人は、それに応えようとしなかった。なぜか。彼らの関心は、これから先のことよりも「今、ここ」にあったからである。だから、今という時でなければ二度と巡り来ないこの機会を、いつでもできることに費やすことを選んだのである。

そして神の御心を拒絶してきたユダヤ人的な態度をも再び指摘している。つまり、神に招かれていることを理解しながら、その招きを故意に自分のものにしようとしない者もいる。婚礼の礼服を着ていないことがその象徴だ。彼らはなぜ着てこなかったのか、という問いに黙っていた。つまり彼らは故意に着て来なかったのである。神が用意される義の衣(黙示録3:18)を拒絶するのは、まさにユダヤ人の歴史的な態度そのものであろう。彼らは「婚礼の礼服を着ていない者」であり、自分の義で着飾った者たちであった。

今日のキリスト者も、いつしか、当時のユダヤの律法主義者と同じようになり、神のみこころに無関心となり、ただ自分の義を着飾るだけの、儀式的慣習的な宗教者となっていくとしたらどうだろうか。キリスト者として生きることは毎週礼拝に通い、賛美し、献金をささげ、奉仕をする以上のことである。むしろ、日々神を覚え、その喜びの中に生きていくことに他ならない。この世にありながら、この世を超えた神との交わりの中にあることを楽しみ、神に満足を見出し、神と共に生きていることが大事なことである。そうであればこそ、大切な神の招きにも心と身体が応じるであろう。

ローマに課税することについてのエピソードは、私たちに、神にあってこの世に生きることのバランスを教えている。ローマに課税を認めることは、イスラエルの愛国心を刺激し、イエスに対する反対を強めると予測された。まさにそれは罠として、投げかけられた質問である。ここで言う税金はローマに直接支払われる人頭税であり、ローマのデナリで支払われた。それには、皇帝の肖像と皇帝を「神の子」と呼ぶ刻銘があった。したがって厳格なユダヤ人はこの硬貨に不快感を抱き、通常の取引には違うデナリを用いていた。だが、彼らはまさに皇帝の肖像のついたデナリを手にしながら「カイザルの通貨を用いているのだから、カイザルに返せばよい」と言われたのである。そしてさらにイエスが加えたことばは、神の権威のもとに、ローマ皇帝の権威があることを認めることであった。ユダヤ人は聖と俗を対立するものとして区別しようとしたが、イエスは俗なるものも、神の聖なる支配の中に置かれていることを明確にしている。つまり信仰に生きることは、それほど単純なことではない。私たちは単純にこの世の延長であの世の事も考えやすい。しかし、続く23-33節の復活についてのエピソードも、明らかに霊的なことは、全く新しい思考を必要とすることを教えている。聖書も神の力も、この世の感覚ではとらえきれないものである。この世の感覚で再婚を考えれば、嫉妬と排他性の問題を超克することはできない。しかし、来るべき世はこの世の感覚を超えた世界のお話であるし、この世にあって神に生きることもそうなのである。

ただ原則は決まっている。神を愛し、人を愛して生きる(37、39節)、それがすべてなのであるが、それを実践することは、やはりユダヤ人のように分離主義で生きればよいという単純なものではない。大切なのは、この世にあって、神を認め、神の主権のもとに生き抜いていくことなのだろう。だからマタイは最後に、イエスがダビデの子であることを否定されるような発言を取り上げたが、それはイエスがダビデの子に優る存在であることを示すことにある。イエスは単なる地上の国の王座よりもはるかに高い権威を持った、主であり神なのである。神とは無関係であるようなこの世の現実の中で、目に見えない神の確かなる存在を認め、神に従い神の力を味わい知る、そのような歩みをさせていただこう。