ヨハネの福音書3章

パリサイ人は、ユダヤの宗教派閥の一つであり、厳格に律法を実践する。主として中流階級に多いグループであった。彼らは、たびたびイエスと衝突している。それは、彼らの律法主義が厳格ではあっても聖書律法よりも言い伝えを大事にし、さらに表面的な見せかけに過ぎなかったからである。そんなパリサイ人の中にニコデモという人物がいた。ニコデモは、イスラエルの教師でもあった。つまり、ユダヤでは、ほんの一握りの、誰もが尊敬し、真の指導者として認められるような人物であった。そんなニコデモではあったが、悩むところがあったのだろう。彼は、イエスの元を訪れた。誰からも尊敬され、誰からもよい人であると思われていながら、彼の心はイエスのアドバイスを必要とした。

イエスはニコデモが抱える問題の核心に触れる。「新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」と。パリサイ人である彼は、人を殺したことも、姦淫したことも、偽ったこともない。しかし、そんな彼も新しく生まれなければ神の国に入ることができないという。問題は、行為ではなく思いである、内面的な魂の救いである。しばしばこうした罪意識は理解しにくいところであろう。ことに日本人は罪意識よりも恥意識の方が強い。恥意識は、社会的なもので、人の目を意識して感じられる。しかし罪意識は個人的なもので、神の目を意識してこそ感じるものだ。日本人にとって、罪は罪でも、他人にばれなければ罪ではないのである。しかし、対人的にではなく対神的に物事を考えるのでなければ、姦淫も殺人も犯したことはないが、神の前に自分は罪を犯している罪人であると自覚するのは難しい。イエスが問題にしたのは、人が神の前にあってどうなのか、という部分、ある意味で、枯れ木のような、再生不能な自分自身の現実である。

イエスは言う。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」確かに、私たちがこのまま天国に行けるとしたら、そこは、天国ではなく、この世の延長である。天国に行ってまでも、私達は人をねたんだり、うらやんだり、憎んだり、疎んだりするだけであろう。やはりどこかで今の自分に完全に死んで、新しく生まれることが必要なのだ。それはどうしたら可能なのか。イエスは、聖霊の働きが必要なのだ、と語る(6節)。救いは神の業だからだ。ではその神の業はどのようにして起こるのか。14,15節、イエスは具体的な方法を示される。十字架にかけられたイエスを、自分の救い主として受け入れ、信じるならば、そうなるという。イエスの御業が罪人である自分に力を及ぼすと信じるならば、そうなるという。神の聖霊の働きは、私たちの信仰による。私たちの業ではなく、ただ神の愛とあわれみに基づく、神の業によるのである。私たちは神の愛を認めなくてはならない。

16-21説は、ヨハネによる解説である。2章から既にそうであるが、これを書いた老ヨハネは、半世紀以上も前の出来事の心に残るエピソードを回顧的に描き、その意味を読者に問いかけるように書いている。実に、イエスの生と死の主要な目的は人間の救いであり、ニコデモとの対談に語り尽くされていることを示している。問題は、このエピソードの意味を悟ろうとするいわゆる求道の心があるかどうかである。ヘンリー・ナウウェンは、人の心には、スコトーシス、つまり、光を愛すると同時に、闇を愛する心があると語った。人は、起こって欲しくない閃きを恐れて、光に近づかない、と。しかし、起こって欲しくない閃きにこそ、人の魂を真に解放する力がある。光よりも闇ではなく、闇から光へと向かう者でありたい。

22節以降は、バプテスマのヨハネによるイエスについての最後の証言である。重要なのは、イエスのバプテスマと、ヨハネのバプテスマの違いを理解させることであったのだろう。その決定的な違いは、イエスのそれは聖霊によるバプテスマであることにあった。ヨハネに真のきよめを提供することはできない。ヨハネはキリストではなかったからである。ヨハネの務めはキリストを指し示し、キリストを証することであった。キリストの務めは、ヨハネの証言を受けて、御霊と永遠のいのちの実質を与えることであった。そしてその実質は、信仰によって得られるのである。信じることがすべてである。ニコデモとの対話の要点を再度、ヨハネは主張する。老ヨハネの話の進め方は、エピソードを語りながら、その真意をまとめるというものだ。そして語られることばも、単純明快である。神のいのちを与えてくださるイエスを信じるか否かにすべてがかかっている。それは生死にかかわる問題である。イエスを信じよう。

 

ヨハネの福音書2章

ヨハネはこの2章で二つのエピソードを取り上げる。水をぶどう酒に変える、イエスの生涯の中で最初に行われた奇跡、そして一般に「宮清め」と呼ばれている、イエスが神殿で商売をしている人たちを追い散らした事件である。

まずカナの婚礼のエピソードであるが、ユダヤでは、通常結婚式は盛大に行われ、その宴会は一日ばかりか1週間続くこともあった。この婚礼で、ぶどう酒が足りなくなる不測の事態が生じてしまい、イエスが母マリヤにその対応を求められるのである。

水瓶の水はユダヤ人が手を洗ったり、また、食器を洗ったりするためのものであった。80リットルから120リットルの水瓶が6つ。おおよそ2,400人分のぶどう酒にこれが変化したと考えてよいのだろう。そのスケールの大きさのみならず、水がぶどう酒に変わる、奇跡が描かれている。そして、このしるしによって弟子達は信仰を持った、という(11節)。

ヨハネはこのエピソードを取り上げて何を言おうとしたのか。単純に、イエスが物事の本質を変える力を持つ神に等しいと言いたかったのだろうか。自分たちとともにいるのは、全能の神である、そのような確信に弟子たちは満たされた、と。そして私たちも、自分の人生が水瓶の中に閉じ込められた味気のない水のように思えたとしても、信仰を持ってイエスの御業に期待すれば、人々を喜ばせ楽しませる上質のぶどう酒のようなそれに変えられるだろう、と受け止めていけばよいのか?

あるいはそうかもしれないが、注目すべきは、イエスが、母の求めに対して「わたしの時はまだ来ていません」と語っている点である。「時」ということばは、福音書の中では一貫して苦難の時を指すものとして用いられている。つまり「わたしの時」と言えば、それはイエスにとって十字架の時以外にありえない。母はこの機会に、神の不思議を行って、メシヤであることをカミングアウトすることを期待したのかもしれないが、イエスは、メシヤであることをカミングアウトするのは、まさに「苦難の時」以外にはありえない、と答えた、というわけだ。

確かに、イエスがこの世に来られたのは、人の肉体的な欠乏を満たすためでも、幸福度を高めるためでもない。ヨハネは、単純に気前よくぶどう酒の不足を補い、人々を喜ばせるイエスを描いているわけではない。むしろヨハネは、これがイエスの「最初のしるし」であった、と言う。つまり、イエスにとって水をぶどう酒に変える奇跡は、「わたしの時」、苦難の時が来る、というしるしだったのであり、その時が来れば、人類に新しい命を豊かに注ぎだす、神の恵みがあることを伝えるしるしだったのである。イエスが、私たちの味気のない人生を、全く新しく変えられるとしても、その根幹に、イエスの苦難がある、イエスの十字架がある、その上での私たちの人生の変革である、ということだ。

次に、ヨハネは、いきなり宮きよめの出来事を取り上げる。いきなり、というのは、他の共観福音書をよむならば、時間的な位置づけが違うからである。他では、このエピソードはイエスの生涯の最後の一週間の初めにでてくる。この出来事を通して、イエスはユダヤ人の権力者たちに睨まれ、十字架刑へと送られることになっていくのだが、ヨハネは、そのエピソードを、メシヤとしての宣教開始直後の、最初のエルサレム訪問のことだとしている。

これをどう考えるか、同じような出来事が、二つの異なる機会にあったのか。あるいは、同じ出来事についての二つの異なる伝承が伝えられてきたのか、よくわからない。しかし、ヨハネは先のカナの婚礼のエピソードをしるしとしている。これもしるしとして読んでいく必要があるのだろう。つまり、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」とある。本来、いけにえの動物は、遠方から来る巡礼者の便宜を図って売買された。それがいつの間にか金儲けの手段となり、普通の値段の10-12倍の値段で売られていたと言われる。神の神殿は、こうした腐敗と、あくどい商売の横行する場として利用されていた。そして、礼拝も形骸化していた。イエスは、それに義憤を感じ、両替人たちのテーブルをひっくり返した、と言うわけだ。しかし、これもしるしである。つまり、弟子たちはこの出来事を見て、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」と言う言葉を思い起こしたという。つまり、先のしるしが十字架の苦難を予表するものであるとしたら、この第二のしるしは、まさにその苦難によって食い尽くされたイエスの死を予表している。そして第三のしるし、として、ヨハネは、イエスの復活の話を加えている(18-22)。

大切なのは、この2章を通して、イエスの苦難、死、そして復活の三つがしるしとして語られたことなのだろう。そして、このことは、当時の弟子たちにはわからなかった。けれども、イエスが実際に、苦難と死と復活を通り抜けた後に、彼らはそれを理解し、信じたという(22節)。

イエスが生きていた時に、イエスがなさろうとしていたことを正確に理解していた人はいなかった。イエスの十字架の救いが、すべての弟子たちに了解されたのは、イエスが復活した後のことである。そしてヨハネは、イエスが昇天してから60年、半世紀以上も経ってからこの書を書き起こし、イエスの生涯には、そのまさに初めから、苦難と死と復活の予告があったのだと伝えているのである。イエスを単純に信じるのではなく、イエスのことばと御業の深い意味を理解し、そして信頼していく、これが私たちに求められていることに他ならない。

 

 

ヨハネの福音書1章

この福音書を書いた著者は、実際には誰であるかはわかっていない。ヨハネ21:24を注意深く読むと、どうも編者のいたことがわかる。伝統的には使徒ヨハネが書いたと言われてきたが、彼が書いたとしても、これに加筆し、手を加えた者がいる。しかしだからと言って、イエスの深い心を語る本書の価値が下がるわけではない。著者は、自分を「イエスが愛された弟子」(21:20)と語るが、実は、本書の特色は、先の共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカと違って、個人に向かい合うイエスの姿が描かれているところである。本書にあるイエスは、群衆に語られるイエスではない。ニコデモ、サマリヤの女をはじめ、膝を交えて語られるイエスである。著者は、自分を愛するように、他の一人ひとりとも大事に向かい合われたイエスを描いている。

さて、1章の序論(1-14節)は、いささか神学的な書き方になっており、何やら深い考察を迫られる感のあるところだろう。この箇所の解説としては、エレミヤスが『新約聖書の中心的思想』で語っていることが、私としては納得がいく。つまり、なぜイエスがロゴス、ことばとして表現されたかと言えば、それは、旧約のマラキ以降、400年の沈黙を破る神のことばが待ち望まれた背景があったからである。確かに当時の人々は、神のことば、神の慰めを待ち望んでいた。しかし、それはマラキ以降、400年の間与えられず、人々の心には、主のみことばに対する飢え渇きがあった。その沈黙を破って、イエスが現れ、イエスを通して神の言葉は発せられたのである。創造の初め茫漠とした無秩序の世界に「光よあれ」と神のことばが発せられ、光ができたように、長きに渡り混沌とした人間社会に、イエスを通して神はご自身を現し、ご自身の恵みの福音を語られ、ご自身の御業を成し遂げられた。こうしてヨハネは、イエスが、神と等しい存在であることを明確にしている。

だからイエスは永遠の存在(1 節)であり、創造主であり(2,3節)、霊的な命を与えられるお方である(4,5,9節)。その命は単に肉体的なものではなく、人の知的、霊的な理解力、意識と良心の源となる命であった。当時のユダヤ人は、イエスをそれと認め受け入れることはなかった(11節)が、イエスは、これからの21章によって語られるように、神の栄光を証し(14節)、私たちを神の豊かな恵みへと導くお方である。それはまさに闇の中に輝き続ける光であり、受け入れるならば、その豊かな恵みに与ることになるだろう(12節)。

挿入的に記されたバプテスマのヨハネについてのコメントは(6-8節)、その背景にバプテスマのヨハネとイエスの関係がキリスト教会でも整理されるべき問題として持ち上がっていたためなのだろう。ヨハネは明言する。イエスは「神」であるがバプテスマのヨハネは「人」である。イエスは「光そのもの」であって、バプテスマのヨハネは「光について証しする」ために来た。そしてヨハネはバプテスマのヨハネのことばを借りて、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」である、イエスは神であると同時に、人間のための生け贄そのものである、と結論する。

18節「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」神の子キリストは、父といつも一緒であるから、神については何でも知らないことはない。そのキリストに耳を傾けるならば、神がわかるだろう。私達は、神とはどういうものかとあれやこれやと想像をたくましくすることがあるが、そんなことでは神はわからない。むしろ、神を知ろうとするならば、イエスに注目し、イエスを読まなくてはならない。

ヨハネは、イエスの公的宣教の最初の一週間を細かに描く。そして最初の弟子たちが招かれた様子を描いている。大切なのは、彼らは多くの知識欲を満たしてくれる人物に出会ったというよりも、まさに、メシヤ、自分たちが目的とする神ご自身の御心とご計画について十分語ってくれるお方に出会ったと確信したことだろう(41節)。ナタナエルも、イエスを神の子と呼んだ(49節)。イエスは、神を豊かに解き明かしておられる。イエスと接することによって、地に囚われていた人々は天へと引き上げられる。イエスによって、私たちは天の父の事を知るのである。そして神が、私たちのために何をしてくださったのか、否、してくださっているのかを知ることになる。イエスに目を向けるなら、神は高くに座しておられる方というよりも、私たちのために、ご自身を犠牲にし、私たちを回復させてくださった、救ってくださったということを知る。神と神がなさってくださったことを知る。そんな目的をもってイエスに注目していくことにしよう。

 

 

ルカの福音書24章

「週の初めの日の明け方早く」私たちの言う日曜日である。「女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた」香料は死人を葬るためのものであり、少なくとも女たちは、イエスが復活するとは思っていなかったのであろう。安息日の前にそそくさと葬られてしまったイエスを、丁寧に葬りなおそうとしていたのである。現に、彼女たちは、イエスのからだが消えたことに「途方にくれていた」。そんな女たちに御使いが語りかけている。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」(6節)。後半のことばは、後の時代の挿入という議論もあるが、聖書の真意をよく伝え、良き考察を与えてくれる。つまり、今なお、イエスを死人の中で探そうとしている私たちに語りかけて来ることばである。イエスは、目に見えない霊的な存在としてよみがえられたのだ。目に見えないよみがえられた主を信仰の目で仰ぎ、その後を追っていくことが大切なのである。

さて別の弟子たちが、死んだはずのイエスが復活したことについて語り合っていた。ルカ固有の記事である。エルサレムからエマオとい村へ行く途中の弟子たちに、イエスが追い付いてきた。彼らはイエスとともに歩き、イエスと話しながら、イエスであるとわからずにいた。それこそ不思議である。しかし彼らにとってイエスの死はそれほど確かであった、ということなのだろう。今の私たちも同じである。イエスは2000年前の歴史的人物となってしまった。しかしそのイエスが、私たちに語りかけてくださらない限り、私たちの目は開かれることがない。聖書全体を体系的に説き明かされても、聖書を読む私たちの心が、内に燃えていることがあっても、イエスがご自身から生きておられることを示してくださらない限り、私たちの目はイエスを認めることができないのである。

ルカが語ろうとしているのは、「聖書を悟らせるために彼らの心を開」く、主の業があることだ。ルカの福音書は、イエスの人間性を伝えるところに特徴がある。いわば、マタイの福音書は、王としてのイエス、マルコの福音書はしもべとしてのイエスであるとすれば、ルカの福音書は人間としてのイエスを語っている。ただ勘違いしてはいけないのは、俗的に言う、人間くさいイエスを描いているわけではなく、私たちの模範としてのイエスを描いている。だから、他の福音書に比べ、人間として神により頼み、祈るイエスの姿が多く描かれている。また、聖霊により頼み、聖霊に満たされて活動するイエスの姿がより多く描かれている。これらは、人間である私たちがどのように神にお仕えし、神に生きるかを教えている。ルカの福音書が信徒教育のテキストとして書かれた所以である。

しかしこの最終章は、人間としてのイエスよりも、復活に与った神としてのイエスにルカは注目させてくれる。イエスは、聖書を解き明かし、心の目を開かれる神である。信仰を与えてくださる神である。「父の約束してくださったものを送られる」(49節)神である。それによって弟子たちは心からの喜びに満たされ、主を賛美し礼拝した。イエスは、私たちの模範であると同時に、私たちをご自身の模範に導かれる神なのである。

となれば、どれほど、私たちは、自身のことはばかりか、魂の救いを願う隣人のためにも主の豊かな恵みを祈らねばならないことか。私たちは福音を熱心に語らねばならない。しかし同時に、宣教は、私たちの業ではなく、主の恵みとあわれみの業であることを信頼しなくてはならない。私たちの唇を通して、私たちの振舞を通して主の働きがあるようにと祈らねばならないのである。

ルカの福音書23章

前章22章66節から、イエスは、自分の正体について白黒をはっきりさせている。これは、19章45節の宮きよめの事件から始まったイエスの権威を巡る一連の議論の結論である。イエスは、メシヤであり、まことの神の子である。このように証言するイエスに、当時の宗教家たちは憤慨した。「彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」(1節)。今日の読者もある種の決断を迫られることだろう。彼らと同様に、イエスをクレイジーな男として一笑に付するか、あるいはイエスの言葉を受け入れていくのか、である。

当時の宗教家たちにとって、イエスは馬鹿げたどころか抹殺すべき存在ですらあった。そしてここでは、本来のユダヤ人の裁判にはありえない強引な一斉評決を行っている。通常結審は、年長から初めて、一人一人が評を投じて行われたからである。

イエスは、朝9時に十字架につけられたのだから、それから鞭打ちの時間や、刑場に向かう時間、準備の時間を考えれば、かなり早朝に、ピラトはたたき起こされて、審理につくように要請されたことになる。すべては、手はずを整えられていたことである。

ともあれ、彼らは、イエスを三重の罪で訴えた。国民を惑わした扇動の罪、税金を納める事を禁じた法律違反の罪、自分を王キリストだと語るローマ皇帝に対する反逆の罪があると。しかし、レジスタンスの闘士に会う心備えをしたであろうピラトは、イエスを一目見て当てが外れた思いであったのだろう、彼は審理に値しない悪意に基づく訴えに気づいて、裁判官の権威を持って「この人には訴える理由が何も見つからない」と宣言した。だが、彼らは譲らなかった。

イエスを憎んだユダヤの宗教家たち、イエスなどどうでもよくなっていく裁判官、ちょっとイエスに興味をそそられて当てが外れて群集心理に陥って行くヘロデ、不当な裁判というべきか、神の正義が一切通じない、この世の悪の濁流に押し流されるようにしてイエスの十字架刑は確定した。イエスは荒削りの十字架を背負って、ビア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれる刑場に続く道を、歩かされていく。それは、約八百メートルの曲がりくねった、ゆるい坂道である。イエスはすでに力尽きていた。兵士たちが、田舎から出てきたクレネ人のシモンに、イエスの十字架を背負わせたのはそのためである。エルサレムの女性たちもイエスの苦しみに嘆き悲しんだ。

しかし、イエスはそんな女性たちに、自分たちのために悲しむようにと語る。それは、エルサレム破壊の危機が迫っていたからである(ルカ20:20-24)。事実、歴史は、女性や子どもたちがAD70年、ローマのエルサレム侵攻のために苦しんだことを証言している。ローマは、ユダヤ人を兵糧攻めにして降伏させたが、その際男たちは、女や子どもたちから食料を奪い、さらには女や子どもたちの肉を食べ、血を飲む、悲惨な状況であったという。もし、ローマの権威が「生木」つまり一人の無実な男にこんなことをするならば、「枯れ木」つまり敵となったユダヤ人に対しては何をかなさんや、とイエスは言いたかったのである。イエスの歴史的な預言であった。

イエスは二人の強盗とともに十字架につけられた。一方の強盗は、最後まで悔い改めず、イエスに悪態をついて、自分を救うように求めた。しかし、もう一方の強盗はイエスを救い主として認め、信仰を持って見上げ、自分の死後の運命について神のあわれみを求めた。悪事を働き十字架刑に値すると評決された人間が死の間際に、天国に行きたいなど虫が良すぎる話であるが、イエスは悔い改めたこの男にあわれみを示された。しかもまさに十字架で命絶えようとしている時に、人のことを考える余裕などあろうはずのない状況で、イエスは強盗の身勝手な願いに耳を傾けられるのである。またイエスは、自分を抹殺しようとする者たちのために罪の赦しを祈った。イエスは絶命のまさに最期まで救い主として生き抜いたのである。イエスの一部始終を見張っていた百人隊長は「本当にこの方は正しい人であった」(47節)と語らざるを得なかった。マタイやマルコは、百人隊長がイエスを「正しい方」ではなく「神の子」として認めたという。ルカの意図は、イエスが神の子と呼ばれるに相応しい、正しい歩みを完結したことを示すことにあったのだろう。確かに、イエスは、神をご自分の父と呼ぶにまったく正しいお方だったのである。イエスの生涯の終幕にあたり、私たちは百人隊長と同様に再び決断を迫られるであろう。イエスは午後三時に絶命した。それはちょうど神殿で動物犠牲をほふる時刻であり、イエスの贖罪が暗示されている。イエスは、人の罪を赦し、神との和解を達成し、神と共に歩む人生を導かれる、まことの救い主である。そのイエスに信頼を寄せて、今日も歩ませていただこう。