マタイの福音書14章

マタイは、イエスに対する反応の一つとして、ヘロデ・アンティパスのそれを加える。ただエピソードは回顧的に描かれている。国主ヘロデは、2:1のヘロデ大王とは違う人物である。彼は最初の妻を離別して、異母兄弟ピリポの妻と結婚することになったのだが、それは律法を破ることであった(レビ18:16)。ヨハネの抗議は、ユダヤにおけるアンティパスの信望を傷つけることになったのである。アンティパスは自分の不名誉を感じつつも、ヨハネの正しさや高潔な人柄を認めざるを得ず、躊躇するところもあったのだろうが、最終的には自分の意に反する形で、またこれもユダヤの律法に反する形で(裁判もなされずに)ヨハネを処刑してしまうことになる。ヨハネの死はイエスに報告された。
イエスは、それを聞くと、寂しい所に行かれたという。神の子であるイエスが、世の横暴とその不条理を思い知らされた時であろう。ヨハネとイエスの母たちは親交があり、あるいは、幼い頃は遊んだ時もあったのかもしれない。そのヨハネがヘロデの娘の気まぐれに殺されていくのである。それはイエスの傷心を癒す旅であり、神と語らう時であったのかもしれない。ただこれ以降、イエスは、「ツロとシドンとの地方(15:21)、「ピリポ・カイザリヤの地方」(16:13)へと出ていくのである。もはやイエスはヘロデの領地を離れ、兄弟ピリポの領地へと出ていく。ヨハネの死後、イエスに弟子入りしたヨハネの弟子たちの不安を静め、弟子たちにいよいよ本格的な信仰の訓練を与えるには、ちょうどよい場所であったとも言える。
ところが、そんなイエスを群衆がさらに追いかけていく。ただただ、目が見えるようになりたい、不自由な手足が動くようになりたい、重い皮膚病が癒されたい、そんな御利益的な要求をつきつけて、イエスに群がった。にもかかわらずイエスは彼らを深くあわれんで、彼らの病気を治されたという。その心のエネルギーや、いったいどこから来たのであろうかと、イエスの強靱さに驚くばかりである。しかし、祈りにこそイエスの秘密があったというべきなのだろう。乗り越えがたい出来事を乗り越えるためには、神の力に触れる以外にない。
 また15節、5000人の給食の出来事は、確かに、イエスの驚くべき奇跡であり、それは荒野のマナの奇跡に等しい。信仰はただ霊的な慰め、励ましを意味するのではない、それは、日毎の糧を満たす手段であると考えて間違いはない。精神も物資も、神は確かに満たしてくださるお方で、期待を持って祈るべきである。ただ、このエピソードには、イエスのメシヤ性を認める内容があることにも注意すべきだろう。旧約においてエリシャという預言者は、20個のパンで、100人の人を養う奇跡を起こしている(2列王4:42-44)。つまり、群衆にもヘロデにも拒絶され、否定されたイエスが旧約の預言者に等しい存在であることを示している。またヨハネの福音書では、既に述べたように神がイスラエルを養った荒野のマナ(出エジプト16章)を想起させるのみならず、聖餐を象徴する物語として語られている。つまりこの奇跡は明らかに「メシヤの祝宴」の象徴として語られている。散らされた者たちをキリストのもとに一つに集め、祝されることの象徴的な出来事である。イエスは、パンを「取り」「祝福し」「裂き」これを「与え」られた。終末における世の終わりにあって、メシヤであるイエスは、全人類の家長となり、あらゆる民族、国語、人種の者たちの集まりを迎え、祝されるのである。
続く湖上の嵐の出来事は、この5000人の給食の奇跡と密接に結びついている。マタイはここに、他の福音書にはない、ペテロが水の上を歩きたいと語った独自のエピソードを加えているが、それは弟子たちに信仰を教える実践教育となっている。信仰を糧として歩むことは、ある意味で、常識的な人生を超えた歩みをすることである。全く望み得なき所に、望みを抱いてなおも先へ進む歩みをすることである。それは、風を見て怖くなるような、様々な惑わしがある中で、ただ私たちの家長であるイエスを注視することによって可能となる歩みである。問題は、この信仰を現実に働かせることを、私たちが意思するかどうかである。教会にあってこの世にないもの、それは信仰である。信仰を用いることこそ、神の子の特権であり、祝福である。今日も一切の必要を満たされる神に、大いなる期待を持って歩ませていただくこととしよう。

マタイの福音書13章

 バプテスマのヨハネの反応(11章)、パリサイ人の反応(12:1-45)、イエスの家族の反応(12:46-50)、そして13章は、後半で、イエスの郷里の人々の反応が語られている。前半は御国についてのたとえがまとめられている箇所である。全部で8つのたとえがあり、その内の3つに解説がつけられている。全体の構成からすれば、山上の説教(5-7章)、宣教の教え(10章)、そしてこの御国の教え(13章)となるイエスの大きな説教集の三番目にあたる。しかも、この章では、語る対象が区別されている。種まきのたとえは「大勢の群集」に向かって語られたが、その解き明かしは弟子たちにのみ語られた。また続くたとえも「群衆」に向かって語られたが、その解説と残りのたとえは、群衆と別れて家に入り、弟子たちにのみ語られている。イエスは、ここで明らかにただの聴衆と弟子を区別している。
まず、種まきのたとえ。蒔き方は同じで、四種類の土壌に落ちた結果が違うことに注目させられる。最初に道ばたに落ちた種。それは、踏み固められた道のように堅い心、みことばを悟らない人をたとえている。土の薄い岩地に落ちた種。それは、みことばを喜んで受け入れても、土が浅いため、根が育たず困難や迫害が起ると、すぐにつまずいてしまう人をたとえている。茨の中に落ちた種。肉と霊の相克の心を象徴し、結果的に肉の思いが勝って霊の実を結ぶことができない人のことを言う。良い地に落ちた種は、みことばを聞いて悟る心をたとえる。大切なのは、このたとえは、12章最後のイエスの家族の応答につながっていることだ。イエスのまことの家族は、「父のみこころを行う者」つまり正しい心でイエスのことばに耳を傾け、それを行おうとする人である。イエスのことばには人それぞれが応答する、しかし、正しい応答をし、豊かな実を結ぶ人こそ、神の家族である。たとえで語られた説き明かしまで求め、イエスのことばに耳を傾けた弟子たちは、まさに神の家族であった。
続いてイエスは、成長をテーマとする3つのたとえを語られる。毒麦のたとえ(24-30)、からし種のたとえ(31-32)、パン種のたとえ(33節)である。毒麦のたとえは、しばしば、「畑」を「教会」として理解されることが多い。しかしイエスの時代にはまだそのような状況はなかった。ここは「世界」として理解すべきところだろう。世界中に主の福音の種が蒔かれ主の民が起こされていくのではあるが、真の主の民が区別され明らかにされるのは、神の御国が完成する時である。からし種のたとえにしても、パン種にしても、主の働きは小さく始まり大きく完成することを伝えている。イエスの働きは、いきなりパリサイ人に反対されることになり、その始まりはおぼつかなくすら見えたかもしれないが、また、どれほど大きな反対や障害にあおうとも、その完成は確実であることを伝えている。興味深いことにこれらのたとえは皆11章以降の人々の反応と結びついて語られていることだ。イエスの働きを認めてエールを送ったヨハネの反応、イエスとイエスの弟子を問題にし、拒絶するパリサイ人の反応、そして、どっちつかずと困惑の中にいるイエスの家族の反応、それらに結び付いている内容である。
さてイエスは群衆と別れて家に入られると、弟子たちに、毒麦のたとえを解説し、さらなる3つのたとえを教えられる。第一に宝のたとえ(44節)。天の御国を見つける喜びは素晴らしい。弟子に犠牲感はない。むしろ利己的ともいうべき喜びから、持ち物を全部売り払い、主に従うのである。犠牲感に囚われた心は、イエスの弟子のそれではない。真珠のたとえ(45-46)も同じ、動機付けを語っている。第3の網のたとえ(47-50)は、毒麦のたとえの結論(49-50)を繰り返すものである。網は、選り分けのために用いるものであろう。終末的なたとえでもあり、「そのとき、あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる」(マラキ3:18)と語るマラキの諭にもつながる。イエスの教えは決して新しいものではない。それは旧約の完成なのである。
最後の51-53は、結論となるたとえであり、要点は、イエスと共に家に入り、たとえの意味を教えられ、理解を深めた弟子たちは、御国学についての学位を取った学者のような者なのだから、これを、他の人々に教えるように、ということである。聖書は読んでわかった面白いで終わるものではない。聖霊の働きによって真にその意味を悟らされた者は、これを語らずにはいられないものだ。その神の無尽蔵の恵みの素晴らしさの故に。キリスト者として歩むことは、よい品性が養われるだけではなく、主のみ教えを喜び、それを分かち合い、実を結ぶ人生を歩むことを意味するのである。

マタイの福音書12章

 主権を示したイエスに対する第二の反応として、パリサイ人のそれがあげられる。既に11:28-29では、イエスのくびきは負いやすいと言われたが、パリサイ人のそれは逆である。それが、二つの安息日物語によって具体的に教えられる。
まず、ある安息日に、イエスの弟子たちが空腹であったので、通りがかりの麦畑の穂を摘み、手でもみながら食べていたことが問題となった(1-8節)。盗んだというのではない、安息日にしてはならないことをした、という宗教的な罪が問題にされた。ユダヤ人にとって安息日は、単なる祝日でも、儀礼的な日でもなかった。それは、神が創造者であることを覚え、神とイスラエルが特別な契約関係にあることを確認し、イスラエルが神の聖めと祝福に与る特別な日であった。しかし、パリサイ人は、安息日を特別な儀礼的な日とし、その守り方についての細則を定め、それを忠義に行うことをよしとしたのである。イエスは、緊急措置として臨在のパンを食したダビデ(4節)と安息日に合法的に宮仕えする祭司(5節)の例をあげて、弟子の立場を弁護したように見える。しかしここでの論点は、旧約律法やパリサイ人の規定に違反したことにあるのではない。むしろ問題になったのは、「イエス」の弟子たちが行ったことであり、そもそも「イエス」とは何者か、である。「イエス」がダビデに匹敵するのか、「イエス」の弟子たちが公職の祭司に相当するのか、である。そこがわかれば、イエスがご自身を宮よりも大いなるもの、安息日の主であると主張することのつながりが見えて来る。つまり、宮は神の臨在される安息の場、しかしその宮よりも大いなる者が今ここにいる。イエスは、ご自分が、一人の律法学者ではなく神ご自身であることを示されているのであり、さらには、イエスの弟子たちは、そのイエスを認めて従っている者たちであり、安息日ごとに形ばかりのいけにえをささげるのではなく、神に真実の愛をささげるまことの祭司であると語っている。だから、ホセア6:6のことばを理解し、弟子たちを尊敬したに違いない、というわけだ(7節)。そして、イエスは、ご自分が安息日の主であられることを明言されるのである。
パリサイ人との次の衝突は、片手のなえた人のいやしであった(9-21節)。ユダヤ人の掟集ともいうべきミシュナーによれば、瀕死の人だけが安息日でも手当を許されていた。しかしこの人は、手が麻痺した人、いわゆる病気ではなく障害を抱えた人である。となればわざわざ安息に癒されなくてもよい人である。そこでパリサイ人はイエスを罠にはめるためにこの人を利用したというわけである。イエスは、再びホセア6:6の引用を敷衍している。安息日にはよいことをすべきである、と。しかし、ここでの争点も、安息日規定を守るか否かではない。むしろ安息日の主を、どのように迎えるか、ということで、パリサイ人は、イエスを決定的に拒絶した、と言うことに過ぎない。パリサイ人はイエスを滅ぼそうと考えるようになった(14節)。
 そう考えると、マタイが旧約聖書イザヤ書から引用し(18-21節)、イエスを約束のメシヤと確認すること、群衆に「もしかするとこの人がダビデの子なのではないだろうか」(23節)と言わしめたことの意味が理解できる。先に11章でヨハネは、イエスの正体を認めた。ここ12章では、パリサイ人は徹底してそのヨハネの評価を却下している、と言えるだろう。 
22節からは、パリサイ人のイエスの働きに対する解釈が語られている。すでにイエスは、多くの人々を癒されていた。ここでも悪霊に憑かれた人を癒しているのだが、パリサイ人は、イエスを悪霊のかしらとみなしたのである。イエスは二つの点を指摘する。悪霊が組織や秩序を持ち、なおかつ仲間割れすることがあるだろうか。だから一歩譲って自分がベルゼブルによって悪霊を追い出したとするなら、今あなたがたがしている悪霊の追い出しは誰によってなされているのか、というわけである。イエスは明言する。私は神の御霊によって悪霊を追い出し、それは神の国が来ている証拠である、と。そして、イエスにおいて神の御霊の働きを認めないならば、それは許されない神に対する冒涜であるという。パリサイ人の軽率なことばに、イエスはそれが根のある言葉であると指摘する(34節)。
 38節からいよいよ、表面的な安息日議論を超えて、核心的な議論に入っている。つまり、律法学者やパリサイ人は、イエスがメシヤであることの「しるし」を求めているのである。そこでイエスは、自分が、宮よりも(6節)、預言者よりも(41節)、王よりも(42節)勝ることを明言する。実に大胆な発言である。この発言をほぼ狂人のものとみなすか、それとも、まことの神のものとみなすか、まさに決断を迫られるところなのだろう。イエスは、それを空き家の例として、語られる。安息日の主、まことの神を心の中心に向かえることを勧めているのである(43-45節)。そしてイエスを主として迎えた者たちがまことの神の家族というべきものたちなのである(46-50節)。

マタイの福音書11章

 イエスと12弟子たちの秘密裡の会合は終わった(10章)。今や弟子たちはイエスの心を自分たちの心とし共に宣教へと出ていくのである。メシヤとしてご自身を現され、その主権を示したイエスに対する様々な反応が綴られていく。大まかにこの反応は、16:13-20のペテロの信仰告白にまで続くと考えてよいだろう。新しい区分として読むことができる。
まずバプテスマのヨハネ。彼は、死海東岸のマケルスの獄吏に閉じ込められていた。国主ヘロデ・アンティパスとヘロデヤの結婚を不法であるとし、様々な悪事を糾弾したからである。神の前に正しいことをして彼は、不正な力にねじ伏せられていた。その彼が、自分の弟子たちを遣わし、イエスの正体について確認している(3節)。素直に読めば、ここはそう読めてしまう部分である。
だが、かつて彼は、イエスを「神の小羊」として指し示し、この方こそ、神に遣わされた神の救い主であると皆に紹介した。そしてバプテスマを授ける中で「これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という天来の声をイエスとともに耳にした人物である。ヨハネの信仰がぐらついたと理解すべきなのか。いや、ここは疑問文ではなく力強い肯定・断定として読むべきところなのだろう。つまり、「おいでになるはずの方は、あなたですかそれとも、別の方を待つべきでしょうか。(いやあなたこそそうです)」というわけである。ヨハネは獄吏にありながら、イエスの働きを認め、その働きの祝福を、弟子たちを通して伝えているのである。だからその後のイエスのことばは、エールを返している、と読むことができる。互いに互いの働きを認め、働きの継承を確認しあっている、というわけだ。
だからイエスは、ヨハネの働きを評価し、ヨハネを偉大な預言者として認めた。彼は単に時の声となった預言者ではない。マラキ3:1で預言された、あの「使者」である。つまりヨハネはイエスの先導者、きたるべきエリヤなのだ(14節)。神のご計画の中では最も重要な位置に配置された預言者である(11節)。
こうしてイエスと弟子たちも一体であったように、イエスとヨハネも一体なのであり、連続している。そのイエスとヨハネに対する反応が語られる(16-19節)。イエスやヨハネに対して、彼らは市場に座っているあまのじゃくな子どものように受け入れようとしなかった。コラジン、ベツサイダ、カペナウムは、当時、豪華な会堂のあった豊かな町で知られた土地であった。ベツサイダは、ピリポ、アンデレ、ペテロの出身地であったが、その土地の人々は、イエスの力ある業に直接触れていながら、イエスのメッセージに耳を貸そうとはしなかった。
イエスを誤解し、拒否する者たちが多くいる中で、イエスの使命を正しく理解し、受け入れる者たちがあることが指摘される(25節)。「賢い者や知恵のある者」ではなく、「幼子」たちである。前者は宗教的な指導者の事を言うのであろう。後者は、卑しく学問のない単純な人たちである。しかしそれは、人間の側の努力や感性によるものではなく、神の一方的なあわれみとして起こる出来事でもある。「子が父を知らせようと心に定めた人」とあるように、神の子とされる恵みは神の賜物として、人々が全く予期せぬ人たちに、神のみこころによって与えられる。
28-30節、最後の招きのことばは、旧約外典ベン・シラ(51:23-27、6:24-31)の招きのことばを反映している、と言われる。イエスもその書を知っていたというわけである。とすればイエスは、それをもじってご自分のこととして語り、ご自分の業として語った、というのは大いにありうる。当時の教養の範囲であればそうなのだと思われるが、もちろん、イエスは、ご自分の権威をもってこれを語られたことに間違いはない。イエスは「来なさい」と言い「休ませてあげる」と語った。そして「学びなさい」そうすれば「安らぎを得る」と言った。イエスのもとに来て、心通うよき時を持つのである。ここにまさに聖書通読の奥義がある。聖書をただ知的に読むのではない、キリストのマインドを感じ、わかろうとするように、読んでいく時に、あるいはその足元で耳を傾け、教えを乞うならば、そこにたましいの安らぎがあり、祝福がある。神を信じることは、一見厳しい覚悟をさせられるようであるが(10章)、それは、本質的に神の中に安らぐ人生なのだ。

マタイの福音書10章

 イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。それは、これまでの8-9章で示されたイエスの権威であるが、宣教のための権威であり、組織運営のためのものではなかった(1節)。10章では、12弟子が選ばれ、神の国の宣教のための重要な原則が教えられていく。 
第一に、伝道の方法について(5-15節)、後には弟子たちは、異邦人世界を含めて全世界に派遣されるようになるのだが、この段階では、「イスラエルの家の失われた羊たち」を優先とするように命じられる(6節)。それは、今の私たちからすれば、かつてキリストを信じた教会に通ったものの、今、不幸にして落伍者になっている人への宣教を優先させることに他ならない。また、8節。「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」「ただ」と訳されたことばは元々「全くの贈り物として」を意味する意訳である。つまり受け流しをせよ、ということに他ならない。伝道牧会がただということはない。「私は、あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう」(2コリント12:15)がその真意だろう。またそれは緊急性を要する(9-10節)。主が備えてくださるものに信頼し、任せて、なすべきものである。神の働きであるなら、神が備えてくださらないはずがない。伝道者は主の備えに信頼し、その働きに専心すべきだ、ということである。そして実際には、まず、平安を祈ることから始めるようにと勧められる。そして相応しい人を訪ねるようにという。これを思う人や家を選んで教育をする。しかし拒絶するような人には、「聖なるものを犬に与えてはいけない」と戒められているように、縁なきことと思い、次の相応しい人を求めて宣教を進めることである。
そこでイエスは、迫害の問題を率直に取り上げる。つまりここから伝道者の心構え、その忍耐と勇気について(16-33節)教えていく。そこで迫害にどのように対処するか。一つは、賢くあること。具体的に、空気を読んで、自ら災いに飛び込まないことだ(17節)。「迫害されたら逃げなさい」(23節)と教えられている。真理の戦士として戦うことだけが能ではない。そして純粋であることだ。不幸にも捕らえられた時には、ずる賢く器用に立ち回ろうとせず、純真で素直に従い、主に語るべきことを委ねることだ(23節)。誠実さは誰の目にも明らかであり、主の助けがあるだろう。イエスの教育は、行動や考え方を教えるだけではない、姿勢や態度を教える。忍耐を持って伝道を大いに進めよ、ということだ。
迫害があっても、恐れることなく、積極的に伝道を進めることである。イエスは言う。弟子は師の代理である。だから、イエスが受けた同じ不評を受けることも覚悟しなければいけない(25節)。弟子と師の心は一体である。恐れることはないし、師の心はすっかりみな話せという。先に、イエスは主の祈りにおいて、私たちに「父よ」と呼ぶことを許された。それは、父と子の親密さの中に、私たちが加わってもよいことを許可するものであった。今一度、イエスは、私たちに自分の立ち位置を明確にさせる(32-39節)。私たちがイエスと父に連帯するのか、それとも、世における形ばかりのつながりを大切にするのか、どちらであるかを迫っている。イエスの弟子になるということは、神に生きることであり、神の御国の民としての旗印を明らかにすることである。福音を恥としない、決意が求められる。
最後に、伝道の目的、つまりどんな信徒を作るのかを語る(34-42節)。それは一言で言えば、「自分の十字架を負い、イエスに従う者」である。そのような歩みには誤解を受けて、親しい者、つまり家族ですら敵となってしまうこともあるだろう(35-37節)。もちろん、キリスト教は「あなたの父と母を敬え」と教えているのだから、信仰のために父や母を敵とせよということではない。孝道を重んじながらも、罪人が認めたがらぬ神を認め、神に生きる人生に何等かの衝突は避けられない。しかし、神の存在は現実のことだから、忍耐と愛を持って、自分を救うためではない他人を救うために腹をくくるなら、それなりの手ごたえのある人生を歩むことになる。つまり受け入れてくれる人もいるだろう。それは神を受け入れることであり、その人も同じ報いを受けることになる。神の恵みの福音を、忍耐を持って、いのちをささげる覚悟で、必要に応じて語る者でありたい。