16章 神の招きに応じる
おはようございます。昨日に続き、モアブに対する神の裁きのことばです。大切なのは、常に、神の言葉は語られていること。しかしこれに向かい、神のことばが真実であると耳を傾け従う人は、救いないことでしょう。モアブの結末に悟りを得るべきところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.モアブを匿え
モアブに対する宣告の続きである。セラは、エドムの首都であり、「岩」を意味し、ギリシャ語ではペトラである。観光の名所として、訪れた人もいることだろう。かつてこの地は、ユダ南王国に属していたが(2列王14:7)、イザヤの時代にはエドムの支配下にあった。アッシリヤの攻撃に南下し、ついにエドムまで逃れて来た逃亡者たちに、ここで一息入れ、ユダに援軍を求める使者を送ように勧められている。「子羊」は、モアブの王メシャが「羊を飼う者」として知られており、それをいつも貢物として用いていたことによる(2列王3:4)。つまりいつものように子羊を贈り物とし、シオンの娘の山、つまりエドムではなく、南ユダに貢物を治める関係を維持せよ、と呼びかけている。だから3節は、ユダに対することばと理解される。強国アッシリヤの強い日差しに直接さらされたモアブをかくまえという。つまりユダもまたモアブとの同盟関係を維持せよ、というわけである。
モアブがこのような裁きを受けるのは、彼らが高慢であり、邪悪であったからだ(6節)。「高ぶり」、「高慢」は、ヘブル語のガアを語根とする。よい意味で、威光と訳すが、悪い意味では高ぶり、自分自身を過大評価する、となる。また「おごり」は、エブラ、あらゆる面で自分を誇るあつかましさを意味している。その高慢さと邪悪さが妨げとなり、モアブはユダを避け所とすることができない。だから一夜のうちに(15:1)、突然に彼らは躓き倒れる、と預言される。確かに、自分を過大評価する者は、悔改めが難しい。自分の心の貧しさや弱さを素直に認められる者は幸いである(マタイ5:3)。自分の愚かさを素直に認めることができれば、自分を変えて、物事に善処できるからだ。
2.モアブへの哀歌
自分を認められない結果は、「泣きわめくこと」(7節)、「しおれてしまうこと」(8節)、である。自業自得と言うべきか。しかし、神は、人が滅びることよりも救われることを望む(11節)。はらわたも内蔵も、感情の座である。つまり神は、人の滅びに、突き上げるような深い悲しみを味わっている。つまり、神が救おうとしても、それに人が応じるのでなければ神は助けられない。偶像に救いの力はない(12節)。しかし主の力は確かである。主には救いの力がある。それは味わうには、悔い改めが、神を認め、神のもとに遜り、神に助けを求める具体的な行動となる必要がある。古い思考や習慣から進み出て、主に頼る新しい生活へ踏み出していくことである。キリストの十字架の救いに与ることも同じである。キリストを自分の罪の救い主として認め、呼び求め、このキリストの復活の力に自分の人生を変える力があると信頼して、キリストの弟子となって歩む一歩を踏むことである。13、14節は、後の付加文ともされる。神の言葉の確実さが、心に残るところである。