2章 終わりの日
おはようございます。イザヤの預言は、時代順に語られておらず、前後して収録されている部分があります。2:1-4:6を、第二のメッセージの塊として読むとよいのでしょう。終わりの日は、終末と限定せず、神がご自身の存在を証しされる今と読むこともできます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.「終わりの日」
2節「終わりの日」、すべての国々からまた多くの民が「主の家の山」に集められて平和を享受するようになる、と約束される。3~4節は、実際には、ミカ書4:1-4に一致する。それでイザヤかミカのいずれかがコピーしたとか、すでに存在していた讃美歌から引用されたなどと議論されている。しかし内容的にはいかにもイザヤらしく、イザヤ自らの手による、と考えてもよいのだろう。
いずれにせよ、「終わりの日」人々は和解し、もはや相争うことがなくなるという。なぜか、それは、神が国々を裁かれる時が来るからである。万物の造り主であり、支配者である主がご自身を人々の前に公にし、その意思を告げられるので、もはや国々は、相争うことを止めてしまうのだ、という。
人類は、争いを繰り返してきた。二度の大戦を経て、今なお、国際情勢は落ち着かず、国家間が一触即発の危機に陥ることが多々ある。だが11節、「その日」、この天地万物をお造りになり、それぞれの国とその境界をお定めになった、主ご自身が現れ、ご自身のお言葉を述べる時が来る、という。それは、自分こそ神であると奢り高ぶる指導者、国は、低められて恥を見る時である。だから、5節、恐れつつ、主の光のうちに歩もうというわけだ。
2.イスラエルの現実
しかしその日とはいつのことなのか。2章は、おそらく、ウジヤ、ヨタムの時代(BC735年以前)の預言とされる。当時、ユダ南王国は、アラビヤ湾に臨む商業上の要地エラテを占領し、富国強兵の勢いにあった。そのため、諸外国との交流も進み、東方諸国の偶像崇拝が国内にもたらされて蔓延り、結果、彼らが従ってきた天地創造のまことの神が退けられていた時代である。人々は「金や銀」という財力、「馬や戦車」という権力、そして「偽りの神々」(偶像)の力をすべてとしていた。だがヨタム王の晩年には、ユダ南王国の国威は、衰退し始め、政治は腐敗混乱し、それら財力、権力の副作用に病んでいた時代でもある。
そこで、私たちは、希望を持つために、一般に解釈されるように、終わりの日、人類の終末の日の到来を待つべきなのだろうか。だが、この預言の言葉を熱心に語るイザヤの指針は、当時の人々に向けて語られている。確かに、預言書の指針は二重であり、それは、終末について語っている部分もあるが、当時の時代についても、またそれがゆえに、今の時代についても適用しうる事柄がある。21節「主が立ち上がり、地を脅かす時」は、疫病の蔓延する今でもある。「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値打ちがあろうか」と深く思われる、まさに今の時なのだろう。主は確かに「今」ご自身を表されている。それがわかるなら、主のことばを聞きに「主の山、神の家」に集まる心にもなるだろう。