イザヤ書22章

22章 悔い改める
おはようございます。「恐慌と蹂躙と混乱の日が、万軍の神、主から来る」(5節)と言います。同じように、救いも解放も、神から来るものです。すべての根源に神の働きがあることを謙虚に認め、神を恐れ、神の最善を期待しつつ歩みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.「幻の谷」への警告
 「幻の谷」というのは、南ユダ、エルサレムのことである。エルサレムは、ヒノムとキデロンの、二つの谷によって三方を囲まれた町であった。イザヤは、この町について、激しく泣きたい思いになっている、という(4節)。背景には、BC701年、アッシリヤの王セナケリブがエルサレムを包囲した時に、アッシリヤが突然その囲みを解いて引き揚げたのを見て、エルサレムの民が喜んだ出来事がある。エルサレムの民は、本来はそこで悔い改めるべきであった。これが神から出たことであることを認め、神に立ち返ることが求められていたのである(5節)。しかし彼らは、神よりも「森の宮殿の武器」(8節)つまりソロモンが蓄えた武器、人間的な力により頼んで、行動したということだろう。ヒゼキヤが王位について、シロアムの貯水池と水路を造り上げた直後のことであればなおさらの状況であったと思われる。しかし、そんな防備は役立たない、なぜお祭り騒ぎをしているのか(2節)というわけである。事実、彼らはこの預言がBC586年、バビロンのネブザデネカル王によるエルサレム攻撃となって実現しようとは、考えもしなかったのである。神の力によって奇跡的に物事を乗り越えただけであるのに、いつの間にか物事がすり替えられている。世に起こる全ての事柄は神から出ているのだから、助かった、救われたということにおいて、人はもっと謙虚であらなければならないだろう。
2.個人的な警告
前半は、ユダの人々全体に、後半15節からは、具体的なユダの指導者たちを名指しにした警告である。シェブナ(15節)は、ヒゼキヤの書記(2列王18:18、19:2)であり、アッシリヤの王セナケリブが、将軍ラブ・シャケを遣わしてエルサレムの開城を迫った際に、その使者と交渉した人物である。どうやらシェブナは、エルサレム解放後、贅沢な家や墓を建てたようである。つまり彼は、奇跡的な解放を自分の手柄とし、神が受けるべき栄誉を自分のものとしたのである。だからその地位はエルヤキムに与えられるという(20節)。エルヤキムはヒゼキヤに仕えた宮内長官であって、先の危機においてシェブナと共に対応した人物である。イザヤは彼がシェブナの職を継ぎ、すぐれた指導者として活躍すると語る。二人の人生の分かれ道は、「恐慌と蹂躙と混乱の日が、万軍の神、主から来る」(5節)ことを認める力の差、私たちを守るあらゆる防備を造られた方を認める力の差にあった。確かに、人間は優れた技術と能力で、あらゆる危機を乗り越え、自分たちの世界を発展させる。しかし、何一つ人間はゼロからそれを生み出したわけではない。神が備えられた大地の恵みを利用しているだけなのだ。だから、神を認めないことは神のものを黙って盗んでいることと同じである。神を認め、神を恐れつつ、今の時代を生きたいものである。

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