イザヤ書24章

24章 魂の値打ちを問う
おはようございます。スマホや新聞でニュースをチェックしながら、この混沌とし、彷徨い続けている社会に、まことに正しいことをなさる神がご自身を現わされるとしたら、その日はどのような日になるのか、イザヤの観察に教えられることとしましょう。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.全世界に向けたことば
イザヤのメッセージは、イスラエルを中心として、当時の中東周辺諸国全体に対して語るもので、悔改めを勧めるものであった。聖書の信仰は、イスラエル民族に発してはいても、民族的な書物であることを超えた普遍的な性質を持っている。そもそも、なぜイスラエルが中心なのか、それは、神のご意思であって、神がイスラエルを選んでこのイスラエルを通して全世界を救おうと決心されたからである。つまり神の愛は全世界に向けられているのであって、イスラエルに特定されるものではない。神はイスラエルだけを祝福するために選んだのではなく、イスラエルを祝福の器とするために選ばれた。それは新約時代の教会についても言えることである。今日神は、教会を選び、教会を通して、全世界を祝福しようとされている。だから教会には内向きではない外に向かう神の愛との一致が必要なのである。
 ともあれこれまでは、ユダを中心とする周辺諸国への預言であったが(13-23章)、さらにここからは、全世界に対する主のことばとなる。それは27章まで続き、その預言は、救われた者の賛美を織り交ぜながら、終末的な神のご計画を語るものとなっている。
2.裁きと祝福
主が全世界の裁き主として法廷に付かれる日が来る(23節)。その日にはもはや何の差別もない(2節)。神にアメリカ寄りも、中国寄りもない。民族の違いはもとより、一般人もそうでない人も、奴隷も主人もない。買い手と売り手もない(2節)。神はいかなる差別もなく、ただご自身の契約に対して人がどう生きたかを問われる。そのような神の存在が明らかになれば、「陽気なタンバリンの音はやみ、はしゃぐ者の騒ぎも消え、陽気な立琴の音もやむ」(8節)ことになる。しかしそれは他方で、喜びと賛美が起こる日でもある。
14-16節は、報われた者の賛美が挿入されている。このあたり、イザヤ書は、ヨハネの黙示録と構造がよく似ている。ヨハネの黙示録では、地に対する裁きのことばに、天上の贖われた者の賛美と礼拝の光景が、交互に綴られているが、24-27章にも同じ構造がある。ともあれその日は、一切の不公平が正され、帳尻が合わされる時であり、主の契約の前に正しく歩む者にとっては救いの日、贖いの日となる。
だが、神の側にたって、正しき者に入るはずの預言者イザヤは、手放しでその日を喜べない。16節「私はだめだ、だめだ。ああ、悲しい」と人の罪の性の深さを見つめ、神の裁きに耐えられない現実があることを感じている。確かにそうだ。神が正しい者に報い、悪い者を裁かれるとしても、自分に目を向けるなら事はそれほど単純ではない。誰が神の前に自分の正しさを主張しえるだろうか。誰が神の目を恐れることなく真っすぐに見ることができようか。だからこそ、キリストの十字架にある罪の赦しが、人には不可欠なのである。

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