26章 ほんのしばらく身を隠せ
おはようございます。聖書を読みながら、この時代をクリアに再現できたら、と思うことがあります。しかし、おぼろげながらでありながらも、望み無き状況の中で神を信頼することの重要さが、語られているのだ、とわかるところがあります。聖書の読みを深めたいところです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.シャーローム・シャーローム
26:1-19は、敵城陥落感謝の歌(25:1-5)、モアブ滅亡についての感謝の歌(25:9-12)に続く第三の讃美歌となっている。1節「その日」は、25章のつながりからすれば、ユダに敵対する者たち、モアブが裁かれる日のことである。しかしここもまた、終末の日と解釈する時に、そのメッセージがより深く理解される。その日、世界が裁かれ、正しい者たちは回復される。素晴らしきかな、と初めに救いへの感謝を歌って、神を崇めているわけだ(1節)。「強い都」は、終わりの日のことであるから、いわゆる天上の神の都を指していると考えてよいだろう。だから2節、天からの応答として「城門を開けて、忠誠を尽くす正しい民を入らせよ」となる。こうして神にしっかり心を寄せて歩む人々は、ヘブル語でシャーローム・シャーロム(全き平安)の内に守られていく原則的な幸いが語られる(3節)。
4-6節は、このような未来に対する見通しのもとに、現実の苦難にある者たちへの慰めと励ましを語るものである。25:8にあるように、侮辱や蔑みの中で、なすべき正しい選択は、神を信頼し、神に委ねること、そして神の守りを経験することにある。神に生きるということは、私たちに最善をなしてくださる神を信頼することに他ならない。神を誠実な方、正しい方として認めていくことである(4節)。
2.正しき者の道
7節からは、上門から強い都に入りうる者への信仰告白がまとめられる。正しい者の道は、平らな道である。人生にでこぼこがあるのは、当たり前のことだが、神がそれを均してくださるからだ(7節)。だから、その神の善意を信頼し、一切の侮辱や蔑みを主におゆだねするのがよい(8節)。そして、主を一層切に求めよう。真剣に尋ねよう。そして主が正しいことをなしてくださるように祈ろう(9節)。となる。
10節以降は、彼らの歴史を反映する民族的な歌であり祈りである。神がやはりイスラエルを愛していることを、具体的に示して欲しい、とイザヤは告白する(11節)。イスラエル北王国が滅び、ユダ南王国が生き延びる状況にあり、実際、ここまで来るのに、神がどれほどの守りをイスラエルに与えてくださったのかを回顧している(12節)。偶像を拝む時代もあったが、今はただ唯一まことの神のみを礼拝している(13節)。いのちのない偶像ではない、まことの神だからこそ、イスラエルを大いなる国民にもしたからだ(15節)。
その確信に立って、とりなしの祈りが続く(16-21節)。神の民の苦難は、妊婦の出産の苦しみに例えられ、しかもそれは、風を産むような苦しみになると予感されている。しかしたとえそうであっても19節、希望をもって祈り続けることが大事なのだ。諦めてはいけない。正しいことをなさる神に信頼し「ほんのしばらく身を隠せ」(20節)と言う。