28章 神を覚えないなら
おはようございます。今日からまた新しい一つの区分に入ります。ユダ南王国に対する、地域的な警告、メッセージです。イザヤが繰り返すことは私たちの生活のあらゆる事象は、神によって支配され、覚えられていることです。神と同盟を組むことこそ人生の最善なのです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ユダ南王国への警告
24-27章は、終末的視点からの普遍的なメッセージが語られた。28⁻33章では、それを踏まえてユダに対する地域的、時代的なメッセージが語られる。
「エフライムの酔いどれが誇りとする冠」(1節)は、イスラエル北王国の首都サマリヤの町を指している。それは、谷の真ん中の小高い丘に立てられ、文字通り冠のように見えた町であった。その町が、酒に溺れ、酔いどれとなり、アッシリヤ侵略の脅威が迫っているのに気付かない、と言うわけだが、それは、イスラエル北王国のみならず、隣接するユダ南王国に対する警告でもあった。
しかし、ユダの政治的な指導者たちは、イザヤの声に耳を貸さず、イザヤの警告を嘲った(9,10節)。彼らはアッシリヤの脅威に対応してエジプトとの同盟を進めよう宇としていた。そんな彼らにイザヤは、嘲りのことばをそのまま返して(13節)言う。今サマリヤを襲っている嵐は終息することがない。むしろ、ユダにも襲い掛かり、ユダは捕虜とされ、頼りとするエジプトとの契約や同盟も、死との契約、よみとの同盟になるだろう(15節)。
2.神の支配を覚える
21節の「ペラツィム」には、ユダヤ人には特別な記憶がある。かつてダビデがペリシテ人を打ち破った時に、神はダビデに加担して「水が破れ出るように」敵を打ち破られた(2サムエル5:20)。この「破る」という動詞からペラツィムの地名がつけられ、敵を打ち破る神の勢いの激しさが記憶された。神はペラツィムの山でのように起き上がり、今度はユダを打ち滅ぼすためにその激しい勢いが向けられる(18⁻20節)。神の裁きは全世界に降り、全滅させる決定的なものであると(22節)。
だが神は気まぐれに怒りを発せられる方ではない。24節、農夫のたとえは神の裁きに目的があることを伝えている。農夫が土地を耕し、種を蒔くのは、それ自体が目的なのではなく、収穫を目指すためである。同様に、神が全地をさばかれるのは、それ自体が目的なのではない。正義と公平を回復し、主に忠実な神の民を起こすためである。
16節の預言は、新約にも引用され、キリストにおいて成就したと理解されてきた(ローマ9:23、エペソ2:20、1ペテロ2:6-8)。しかし、直接的な意味は、目先の脅威に惑わされることなく、いかなる時も主の確実性を信じ、主と同盟を結び、主に寄りすがるべきことを語っている。神無き戦略は、無策と同様である。日常と思しき農作業一つとっても、神のみこころの中で起こっている(23-29節)。この世に起こることに皆、神の深いはかりごとがある。すべては万軍の主から出ることである。神の支配を覚えて、神の法則に従う時にのみ、人は真の安らぎを得る。神を恐れつつ、神の最善の御手に引かれつつ歩むことだ。