29章 顔色を失うこともない
おはようございます。イザヤが、エルサレムの神殿の前で、預言したこれらのことばに、深い悔い改めを覚えさせられるところでしょう。神は、滅びではなく救いを受け取るように、いつでも、私たちに慈愛の顔を向けておられることを覚えたいものです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.アリエル
「アリエル」はヘブル語原語の音訳で、「祭壇の炉(2節)」とも訳される。イザヤは神殿の庭にいて、祭壇の炉を前にこの預言を語ったのだろう。そこではいつものごとく祭儀が執り行われる平穏無事な姿があった。しかし片や放縦、偶像礼拝、そして世の策に溺れる別の日常がある。イザヤはそのような矛盾した社会は、神の来臨に耐えられず滅びると預言し、嘆いた(3、4)。そして、エルサレムを滅ぼした巨大勢力も、また神の手によって滅ぼされる、と言う(5-8節)。つまり最後に栄光を受けるのは神のみなのである。
2.霊的昏睡
だが、このメッセージは、当時の人々には理解されなかった。預言者と言われる人々、つまり「読み書きのできる人」ですら、悟る力がなかった(11節)。というのも、彼らは神の心を掴むように聖書を読まなかったからである(9-14節)。パウロは、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないからです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです(1コリント2:14)」と語っているが、神の心を知り、その心に生きようと神に近付く信仰ではなく、単に宗教的な雰囲気に浸ってよしとする信仰がある。そのような信仰に命はない。神を真に恐れる心も生じない(15節)。ただ形ばかり祈り、習慣のように礼拝へ行き、義務的に奉仕をするだけで、生ける神に対する忠誠も献身も起こらない歩みである。
3.終末の救い
当時のユダの政治的指導者は、密かに、アッシリヤに対抗してエジプトとの同盟を結ぼうとしていた。だが、それはイザヤに筒抜けであった(15節)。神を神として考えぬ人々の浅はかな図り事である。人間と神を同じように考えてはいけない(16節)。神は遠くから、ことばが舌にのぼる前に、すべてを読み取るお方である(詩篇139:2)。神を小さく考える人間の不幸がある。神は実に偉大である。その神が、ご自身をやがて世に現わされる目的は、刑罰にあるのではなく救いにあり、また滅亡させることではなく完成にある(17-21)。だからイザヤは、エルサレムの滅亡、霊的昏睡と宗教的堕落に対する神の裁きを語りながら、その預言を自然や社会の輝かしい復興、また貧しい者、弱い者の救い(18、20節)の福音をもって閉じようとする。預言は、常に希望を与えることばとして語られる。
人はどうしても、この世の秩序やこの世の勢いの中で物事を考え易い。しかし本当にこの世の動きを支配しておられるのは、あの人でもなく、この人でもない。目に見えない天地創造の主である。その神の心を知るように聖書を読み、神に従うなら「恥を見ることはない」。