31章 神の強さに目を留める
おはようございます。人間は、その弱さの中にあって、真に力強い神を認めることができるものではないでしょうか。神に背を向け、神に逆らいながらも、神はそのような人に恵みを注がれる。そのような神の愛の心を知るときに、神は一層慕わしい存在となるのです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.エジプトに頼る愚かさ
1節、「ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、数が多いといって戦車に、非常に強いといって騎兵に寄り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。」30章の繰り返しとなる預言である。イザヤがこの預言を語った時には、既に同盟は具体的に動き出していたようだ。ユダから派遣された使者たちは、同盟締結間近であることに湧き立ち、エジプトの強力な軍事力「馬、洗車、騎兵隊」の助けに期待した。それは何より最善であるように見えた。しかしイザヤは、そのような人間的なはかりごとがどんなに賢くても、無に帰すと語る。「エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も肉であって霊ではない。主が御手を伸ばされると、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、皆ともに滅び果てる」(3節)という。
何かに行き詰まるようなことがあったら、どのような思いが湧き起こるだろうか。「御手をのばす」神に心が向かい、解決の鍵はそこにある、と思えるだろうか。いや、すぐに何か具体的な助けを求めることへと向かうのだろうか。神は、動じない獅子にたとえられる(4節)。何事があろうとも、主を信頼する者のために戦い、これを舞い飛ぶ鳥のように救い出し、解放すると約束される(5節)。
2.神のもとに帰れ
既に前の章で、神は約束しておられる。もし、人が主に叫ぶなら、神はその声を聞かれる(19節)。もし人が決断を迫られるなら、神がその方向性付けを助けてくださる(21節)。もし人が打たれ、痛むならば、神が癒してくださる(26節)。またあなたを打った者に立ち向かい、これを打ちのめされる(29節)。人は、この言葉の真実さを、弱さの中にあって思うことができるだろう。強い時にではなく、弱い時にこそ、神に愛される者である時にではなく、神に退けられるような者である時にこそ、この言葉の正しさを思う。
世の中に神と名のつくものはたくさんいる。しかし、唯一まことの神はただお一人である。人間が、銀や、金で鋳造した神が神であるわけではない。誰でもそんな簡単なことが分からないわけではないだろうが、人はその愚かしい呪縛から離れられないでいる。神は霊であっても、人間が手で作ったものに化けるわけがない。神は至高である。神はこの世界を創造し、支配し、保持しておられる。その神がこの世界の中に収まりきるなどありえぬことである。神を小さく、人間の手の中の存在と考えるからこそ、私たちは神を信じることができない。神は創造主であり、王の王である。その神がアッシリヤを滅ぼされるという(8節)。ここでは、アッシリヤは、最も強い世の権力の象徴として語られている。神の強さと愛に信頼して生きるのが信仰者の歩みである。