イザヤ書33章 窮した者を顧みられる
おはようございます。全ての荷を下ろして休みの時を得る、しかも、永遠と思われる休息の時を持つ、そんな思いが満たされる時が来るのであろうか、と思いきや、イザヤはそのような時が与えられることを明言しているのがこの箇所でしょう。主の安息に与る幸いがあります。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.祈り
1節は、ユダ南王国を侵略する国の滅亡を預言する。その国が何であるかはわかっていない。「苦難の時の、私たちの救いとなってください」(2節)とイザヤは、国民の立場に立って祈っている。9節、「レバノン」「シャロン」「バシャン」「カルメル」はいずれも北イスラエルがその美しさを誇った森、平野、高地、山であるが、すでにそれらは皆占領され壊滅状態にあった。3-4節、7-12節は、そうした外敵の圧力によって苦境に立たされているエルサレムの惨状と嘆きが生き生きと描き出されている。
イザヤは、そのような窮地にあって、神への祈りをささげる。「主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と義で満たされる。主はあなたの時を堅く支え、救いと知恵と知識の富みとなられる。主を恐れることは、その財宝である」(5、6節)10-13節は、主の応答である「今、わたしは立ち上がる」(10節)。主は窮した者の祈りを顧みられるお方、その叫びをないがしろにされないお方なのだ。
2.主の救い
13節以降後半は、実際に救い出されことの驚きを告白している。かつてアッシリアの王センナケリブは、BC701 年に、エルサレムを「かごの鳥のように」閉じ込めたと自慢したが、彼の部隊は一夜にして、18万5千人の死者を出し退却した(2列王18⁻19章、2歴代誌32章)。だから、「遠くの者よ」をアッシリヤ、「近くの者よ」をユダ南王国に当てはめて読むこともできる。「わたしのしたことを聞け」「わたしの力あるわざを知れ」(13節)。当時アッシリヤの脅威は、誰の目にも明らかで、誰ひとりその剣から逃れる者はない、と思われるものであったが、神が正しき者たちの岩となり、守りとなったのである。
17節からは再びメシヤの預言となっている。メシヤが王として描かれ、終末的な幻を読者に提示している。18節は、国を囲む外敵が、どれだけの分捕りものを獲得できるか、数え、測っている様を物語っている。「わかりにくい」(19節)外国語を話す外敵の暴虐は、ユダヤ人にとっては恐怖であった。しかしその敵が、目の前から立ち去った。恐ろしかったことを思い出しながら、敵がどこに行ったのかと驚くような出来事が起こっている。神の力が成し遂げる不思議と、救いがある、というわけだ。ただこの箇所は単純にある特定の時代の救いについて語っているわけではない。17節「遠くまで広がる国」つまり国境を超えた広さを持つ国。祝祭の都は安らかな住まい。移ることのない天幕は、永遠の定住を暗示する。そこに主がおられる。川はあるが船の動きはない。さらに病気も罪へのさばきもない。これはもはや終末的な展望である。確かに私たちの願うものは、永遠の安息をもたらす救いだろう。その御国に相応しく、いよいよ義と愛と平和を求めて歩みたい。