イザヤ書38章

イザヤ書38章 神の哀れみが注がれる
 おはようございます。不治の病に侵されたヒゼキヤの祈りが収録されています。ヒゼキヤが、国家的危機に続いて、個人的な危機においても、主に真っすぐ祈りの声を上げたことに注目すべきです。そして主の宮(教会)の存在の何であるかを教えられるところです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.逆順の記事配列
 ヒゼキヤ王の個人的な経験が語られる。ヒゼキヤは病気になって死にかかっていた。これは、時間順から言って36-37章の前に来る出来事とされる。というのも、病気から快復したヒゼキヤは、見舞いに来たバビロンの使者に宝物倉を見せているが(39:1,2)そこには、センナケリブに渡したはずの銀や金があるからだ。それでセンナケリブが侵入するBC701 年の直前に起ったとされるのである。正しくは、ヒゼキヤの病気(BC711年 :38、39章)、センナケリブの侵入(BC701 年: 36、37章)、ヒゼキヤの死(BC696 年)の順となる。このような配列の違いは、イザヤ書が列王記のような年代記ではなく、預言書であるためであって、これ以降の預言に対する国家的姿勢、個人的な姿勢を問うためであった、と言えるように思われる。
2.死の恐怖
1節、「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。治らない。」一般的に旧約聖書では、全ての人間はシェオール、黄泉へ行くとされている。そこは暗闇の、忘れられた死者の国である。死後の望みについて全く語られていないわけでもないが(ヨブ記19:25-26)、死後の復活の望みは新約聖書時代ほど明らかではなかった、とされる。だからこの宣告は、ヒゼキヤには脅威であったことに間違いはない(11節)。ヒゼキヤは、死に直面した病気の恐怖と悩みを四つのたとえで表現している。第一に、羊飼いの天幕である。石造りの王宮に住むヒゼキヤにとって羊飼いたちの住まう移動式の天幕は、あまりにも不安定である。羊飼いは自由に天幕をたたんでは移動する。自分の人生も留まらない(12節)。第二に機織りの糸。機織りで布が織られて完成すると、職工は糸を断ち切ってしまう。そうされた心境だというのだろう(12節)。第三に雄獅子(13節)。朝まで狂い叫ぶ雄獅子のようだ、と。そして天を見上げて泣き叫ぶ鳥(14節)。ヒゼキヤの祈りが続く。
3.主の応答
ヒゼキヤは、主の主権を認めてただ遜る(15、16節)。人間が神の主権を認められるのは、まさに肉体の病に置かれた時ではないだろうか。完全な無力さに置かれた時にこそ、人間は人間であることを知るのである。そして主の主権を認められる時にこそ、再び心に平安を与えられる(20節)。神はヒゼキヤの祈りに応じ、ヒゼキヤのいのちを延ばされた。しかしそれは、ヒゼキヤの祈りの熱心さや誠実さ、あるいは信仰深さによるものではなく、先祖ダビデへの約束のためであった。そのような意味では、私たちの祝福も皆、イエスの功績に対する神の約束による。大切なのは、イエスの功績に寄り頼み、主の宮、教会で祈ることである。教会は祈りの家、教会に集まり祈り合うことだろう(20節)。

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