4章 神の恵みの業としての救い
おはようございます。終末の日、ある者は取り去られ、ある者は残されていきます。なぜ、私があの人ではなく、こんな私が残されたのか、と思うところもあるかもしれません。その神の御心を知ることはできませんが、そこには、神の期待と機会があると言うべきでしょう。
今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.将来の裁き
1節は、文脈の流れからすれば3章26節の続きである。つまり、3章16節から4章1節までが一つの区切りであって、エルサレムで気ままに浪費三昧の生活を送る女たちへの裁きが語られている。その日、裁きの日には、豪奢な生活をする女たちが頼りにする男たちが戦いに倒れ、少なくなり、その数少ない男性に群がる終末的混乱があるというわけだ。金と色恋に明け暮れる女たちは、結局その愚かさの中で、また権力と名声にしのぎを削る男たちも、結局同じように滅びを向かえる。伝道者の書で語りつくされた、人間社会の無知蒙昧ぶりと空しさがそこにある。
2.将来の栄光
しかし2節、「その日」は、ある人々には、混乱の終わりではない。「若枝」はヘブル語でツェマハ、「生える」を意味する動詞の名詞形で「地から生えて来るもの」、つまり植物、新芽を意味する。絶望的な混乱に対する主の裁きの後、地から生え出る主の新芽がある。つまり、滅びゆくエルサレムから、主にあって逃れた者「残った者」「聖なる者」「地の果実」というべき者たちがいる。
神の裁きは、すべてを討ち滅ぼすための裁きではない。神がご自分の民を聖別し、新しい未来を産み出すための裁きである(4節)。だから神は裁きの後に、救いと復興の時をもたらす。滅びを逃れ、残された人々を、聖なる者、つまり神のみこころにかなうものとするために、その「汚れを洗い落とし」(4節)、さらに「昼には雲を」(5節)夜、には火の雲の覆いをかけて(6節)、暑さや風雨から守る、という。
3.今の私たちに語り掛ける
大切なのは、「その日」は、ずっと先の日のことではない。ヘブルの著者が、今は「終わりの時」であると語っているように(1:1)、今はすでに終末の時である。だからこそ、終末的と思われるような事態があちらこちらに散見されるのであり、取り去られる者がいて、残される者がいるのだ。
そして、裁きによって逃れた者、残された者はどのような者たちかを考えることも重要だ。取り去られた者たちが邪悪で、残された者は、正しい者、と普通は考えるだろう。もし、そうならば、正しい者が、その「汚れを洗い落とされる」というのはどういうことか。だから、邪悪な者は滅ぼされ、正しい者は守られるという単純な図式は成り立たない。むしろ、残される者たちがいて、その中には邪悪な者、そして一見正しいと思われる者もいるというに過ぎない。そこでその神のあわれみ豊かさがわかればこそ、赦された命を、神の御心に沿ったよりよい命として生きたいと願うことだろう。