47章 バビロンの滅亡
おはようございます。47章は、全体が神の裁きのことば。読んでいて気持ちのよいものではありませんが、人間が分を弁えない結果と言うべきなのでしょう。常に神の前に謙虚に生きるべきことを教えられるところです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.バビロン滅亡の預言
バビロンは勢いのある国であった。しかしその繁栄は永遠ではない。「優しい上品な女」「王国の女王」と呼ばれたバビロンは捨てられ、瞬時に子を失い、やもめとなる。「下って行って、土の上に座れ」「王座のない地面に座れ」(1節)、「ひき臼を取って粉をひけ」「ベールを取り去り、裾をまくってすねを出し、川を渡れ」(2節)、「裸はあらわにされ」「恥もさらされる」(3節)敗北を知らない時の支配者であったバビロンが一転して、奴隷となる。彼らがどんなに呪術を行っても、その魔術は何の役にも立たないという。まことの生ける神に対比して、死せる偶像の神、ただの石であり、木である以上の何物でもない神に拠り頼む愚かさは、こうして明らかにされる。46章からの続きのメッセージというべきだろう。
生ける神は、もはや恵みの神としてではなく、裁きの神として、バビロンに向かう。神の怒りの火が彼らを全く焼き滅ぼすと宣告される(14節)。実にバビロンは、神によって裁かれ崩壊していく。
2.神の正義が支配する
バビロンの勝利は、神がイスラエルを懲らしめるために与えられたに過ぎなかった。ユダ南王国が滅ぼされ、その民がバビロンへ捕虜として連れ去られたのは、イスラエルに、偶像ではなくまことの神を仰がせるためであった。だから、その意図を理解せず、自らの分を超え、残虐と横暴を働き、おごり高ぶったバビロンもまた神の存在を諭される結果を受ける。残るは神の正義なのである。
たとえ、バビロンの軍隊がどんなに堅固に思われても、国の栄華が永久不滅のように思われても、神がこれをよしとせぬならば、それは脆く、一瞬の内に根こぎにされてしまう。神の前に特別はない。例外はない。「わざわいがあなたを見舞う。それを払いのける呪文をあなたは知らない」「破滅は知らないうちに、突然あなたにやってくる」(11節)。
3.神は贖う方
47章全体が、神の裁きのことばに満ちていて、読んでいて気持ちのよいものではない。しかし、「贖う方」という言葉に注目しよう(4節)。神は「万軍の主」であり「聖なる方」であると同時に、贖い主である。新約聖書を読むならば、神は私たちの罪を十字架によって赦し、癒し、受け入れてくださったことを知る。もはや私たちは裁かれる者ではなく、愛される者である。滅ぼされる者ではなく赦され、救われる者である。それが本当にわかれば神に背を向ける愚かさはありえない。しかし、人間は愚かである。十字架の恵みをわかっていながら、これを捨て去る愚かさがある。人間の分を弁え、神の恵みに拠り頼み続ける謙虚さに今日も立たせていただこう。神の恵みが全てである。