50章 主は私を助ける
おはようございます。事態は常に逆である。そんな事実を考えなくてはなりません。神が私たちを忌むべき罪人として拒んでいるのではなく、人間が神を過小評価し、その器を小さく考えていることがあるものでしょう。神の偉大な愛の中に飛び込んでいきたいものです。今日も主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.神は離縁せず、売り飛ばさない
1節「あなた方の母親を追い出したという離縁状は、どこにあるのか」ここで想定されているのは、母親と子に例えられるエルサレムとその住民である。エレミヤは、「配信の女イスラエルが姦通をしたので、わたしは離縁状を渡して追い出した(エレミヤ3:8)と語ったが、イザヤは、エルサレムについて言えばそうではないのだ、と言う。捕囚の民となり、国を失ったイスラエル、もはやだれも国の再興を期待することはできなかっただろう。それは離縁状を渡され見捨てられた妻に等しいことであった。しかし神は言う。その離縁状があるのなら、出してみろ、と言う。また奴隷のたとえが語られる。「わたしがあなたがたを売ったという、私の債権者とはだれなのか」(1節)、と。神は人を創造した。その創造者が人間を売却するのなら、一体誰がそれを買うのか。誰もいない。
人には人を離縁する冷たさがある。あるいは人を売る残酷さがある。「一緒に幸せになろうね」と言いながら、いつしか疎ましくなり、自分の思いにそぐわぬことになれば、紙切れ一枚で関係を解消しようとするところがある。あるいは人のたましいの値打ちなど秤もせず、犬猫と同じように値段をつけて売り飛ばす蛮行がある。しかし、神は神であって人ではない。神が人を嫌うことも、見捨てることもない。むしろ、人が神を見捨てる。最初の人アダムがそうであったように、人が神に背を向け、自らを離縁させていく。
2.第三のしもべの歌
4-9節は、第三のしもべの歌と呼ばれる。第一の歌(42:1-9)、第二の歌(49:1-6)、第四の歌(52:13-53:12)と、イザヤ書にはしもべの歌と呼ばれる一群がある。しもべは種々解釈されるが、第四の歌が頂点となるので、後でまた取り上げるが、神は、窮地に立たせられた人間の苦悩を見逃す方ではない。
だから、呼びかけておられる。自分の元に戻ってくるように招いておられる。しかし、人は、その神の愛を受けることができずにいる。自分は追い出された者、関心を向けてもらえない者と思っている。またもや人の心が神を堅く締め出している。事態は常に逆である。神は、闇の中にある人を助け出されようとしている。人が神を捨て去り、反逆の牙をむいても、神はそれを超えて私たちを助けられようとしている。「闇の中を歩くのに光を持たない人は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め」(10節)。しかし、自分の力になおも頼ろうとするのなら、つまり、なおも「火をつけた燃えさし」に拠り頼もうとするならば、その結果は「苦悶の場所で伏し倒れる」(11節)ことになる、という。人の光ではなく、神の光こそ、まさに暗き世の光なのである。何の望みもないと思う時にこそ、私たちに熱い思いを持って救い出そうとしておられる主により頼もうではないか。