9章 ひとりのみどりごが生まれる
おはようございます。メシヤ預言として有名な部分です。前後関係を読む時に、これが、ある特定の地域の王ではなく、メシヤについて語るものであることが理解できます。確かに混乱した社会に平和をもたらすのは、神のあわれみとその御業という他はありません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.メシヤ預言
「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た」(2節)。人が辿る闇は、しばしば一瞬ではない。それは、何年も、いや何十年も、このまま人生が終わってしまうのではないか、と思うほどに、長く深い闇であったりする。そのような中で人は疲れ、物事を諦めてしまうものであるし、諦めてはいけない、と考えていても気力がもはやついていかないこともあろう。
イスラエルの悲惨な運命の預言(8:19-22)に続いて、その輝かしい希望(9:2-7)が語られる。戦乱が止み、平和が築かれるビジョンである。その主役の特徴が描かれる。彼は「不思議な助言者」である。人間的なものを遙かに超えた、超自然的な知恵を提供する方、つまり、人間的な知恵によって国家を滅びに至らせたアハズ王のようではない。むしろ「力ある神」つまり、神そのものである。そして「永遠の父」。人間の支配は断続的であるが、この王は、永続する統治権を行使する。しかもただの支配者ではない。父としての配慮を示すお方である。「平和の君」は、完全な統治を実現する、という意味だ。これら全てが、その主の熱心さによって実現する。ユダ南王国の現状を見れば、これはまさに神ご自身が不動の決意を持って、何事にも妨げられない主権を行使して実現しなくてはなしえない、というわけだ。しかし、これを実際的にイスラエル史上の誰に相当するのか、と考えていくと、もはやこれはキリストにおいて実現したメシヤ預言として読む他はない、という部分である。
2.預言の繰り返し
さて8節以降11章6節までの内容は、7章1節から9章7節までに語られたことを再び別の言い方で繰り返す。先にイザヤはユダ南王国のために語ったが、今度はイスラエル北王国に対して語っている。エフライムは北王国で最も重要な部族なので北イスラエル王国の代名詞として用いられる事が多い。エフライムは高ぶり、神を信頼せず、むしろ自分達の人間の力を過信した。彼らは、「れんが」が駄目ならもっと高価な「切り石」で、「いちじく桑」が駄目ならもっと高価な「杉の木」で、立て直せると(10節)自信を持っていた。ただ、すべてを握るのは神である。神は、「レツィンに仇する者たち」つまりエフライムに対する敵対者としてさらに強いアッシリヤを起こし、裁くと語られる。
しかしそんな警告も、北王国には効果がない(12節)。「かしら」と「なつめやし」は貴族、「尾」と「葦」は庶民を象徴する(14節)。つまりすべての者が、神の裁きを受け苦しい目に遭いながら悔い改めようとしない。そして国家を指導する者が、国民すべてを滅亡へと引っ張っていく(16節)。こうして神の御怒りは、北王国すべての者に留まり続け(17節)、内憂外患の事態となる(20、21節)。確かにこのような状況に至り、人間社会に平和がもたらされるとしたら、それは、救い主の登場なくしてありえないことである。