10章 神に未来を託す
<要約>
おはようございます。今日で歴史書を読み終わることになります。明日からはジャンルとしては、知恵文学、いよいよヨブ、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌と読み進んでいきます。けれども、メッセージは、共通しています。神を認め、神を信頼するように、聖書は私たちを励まし続けます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.クセルクセスの政策
クセルクセスは、苦役を課した。普通それは、強制労働に駆り出すことを意味したが、この時代には課税の意味が含まれている。彼の影響は、地中海沿岸諸島にまで及んだ。しかし、その力は、モルデカイの力に拠るのだというのが、暗に示されている。ユダヤ人を滅亡から救出したモルデカイの功績をたたえて、エステル記は閉じられている。
しかしながら、当時一体誰がこのような事態を予測しえたであろうか。ハマンの手によって、ユダヤ人根絶の法令が発布された際には、誰も、前途に望みを得ることができなかったはずである。事実、そのような状況にあって、神の公正を願い、神の真実を期待するのは、難しい。アウシュビッツの惨事を逃れたコーリー・テン・ブームという人は、「私たちが知っている神に、知らない未来を託することを恐れてはならない」と語ったというが、私たちに最善をなしてくださる神のみこころに信頼し、そのことばに立ち続けることはしばしば困難である。しかしそれが、やがて真の祝福になることを知らなければならない。
神は、闇から光へ、死から命へと私たちを導かれる。悲しみを喜びに変えてくださる。確かに、神のなさることは、いつでもエステル記に書かれるようなハッピーエンドで終わることはない。ヘブルの著者が語るように、この地上においては、祝福と思われるものを何も得ずに終わってしまうこともある(ヘブル11:39)。しかしそれでも神は、「さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられた」(ヘブル11:40)とされる。つまり、エステル記は、ハッピーエンドでまとめられたが、たとえそうではなくても、さらに主の物語は続くのである。失敗だ、終わりだと思う先に、神はさらにストーリーを展開してくださる。
2.主に信頼し続ける
イエスの十字架もそうであった。イエスの十字架を目の当たりに、この人は「まことに神の子であった」と思うところがあっても、すべては終わってしまった、と誰もが考えたことだろう。その三日後に、イエスが死の門を打ち破り、復活されるとは誰も考えなかった。しかし神が用意されるシナリオは、誰の心にも思い浮かばないことである。
イエスを復活させた神の力が、私たちの人生に働くのだ、そのような信仰を持つことが大切だ。そのように、神を認めるところがあればこそ、「自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語る」ことも起こりうる。幸福は、福利を意味する。また平和は、あらゆる種類の繁栄を意味する。健康、安全、物質的な満たし、よい人間関係である。こうしたことに関心を持ち、力を注ぐ指導者であればこそ、敬愛される結果にもなる。
本来人間は、自己中心な者であろう。権力につけば、自分の立場を有利にすることを考えてしまうものだ。サムエル記、列王記に描かれたイスラエルの王の記録は、それをよく例証している。そしてそのような王の統治による不本意な時代が続くことも、よくありがちなことである。しかし、必ず新しい出エジプトもある。私たちの思いを超える業をなしてくださる、主を認め、主に期待する歩みをさせていただこう。