エステル記5章

5章 ハマンの奸計

<要約>

おはようございます。神の時を待つというのは、自然な営みであり、現代人が忘れた事の一つなのかもしれません。物事がうまく動く行かない時にこそ、あるいは物事がうまく行く時にこそ、私たちは神の時があることを覚えたいものでしょう。そして人間的にではなく、神的に物事が進んでいくことを願う必要があるのです。神のただしさこそが、私たちの業に表されますように。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.エステルの良識

エステルは、王妃の衣装を着て、王宮の内庭に立った。三日間断食と祈りに専念していた後のことである。エステルも灰をかぶり、荒布をまとっていたに違いないが、エステルはその悲しみの最中から立ち上がり、美しい王妃の衣装を身にまとった。それは金刺繍がふんだんに施され、白と紫の着物を上にまとったもので、これまた豪華な紫の衣装を身にまとった王の前に出るにはふさわしいものであった。ともあれ、断食と祈りにすがりつつも、そのやつれと悲しみを表に出さない、エステルの良識に、エステルが神に用いられた理由もあるのだろう。

実際エステルは王の許可なく、王の前に出るという法を犯していた。それは、王の怒りに触れるか、それとも王の好意にあずかるか二つに一つのきわどい行為であった。果たして結果はいかに?王は、エステルに好意を向けた。エステルが妻の立場にあるとすれば当然のことのようにも思われるが、先のワシュティの問題からすれば、これも神の恵みによって守り導かれたことと考えるべきなのだろう。

さらにエステルは、もう一つの良識を示している。「王国の半分でも、あなたにやれるのだが」というのは、ある意味で、社交辞令のようなものであったが、王がエステルに心を開いていることに間違いはなかった。ただ、エステルはそのような機会を与えられても、直ちに自分の願いを口に出そうとせず、むしろ、最良の時を見極めようとした。ハマンの身に起こった顛末を知る読者からすれば、この行為は図らずとも、物語をいよいよ盛り上げるものとなっているのであるが、エステルはただ神の時を待ったのである。そして神が働かれた。王はその夜眠れなかった。

2.ハマンの奸計

一方、ハマンは王と共にエステルが設けた宴会に招かれたので、上機嫌で家に帰って行った。しかしその途上、ハマンは、自分に対して頑なに敬意を示そうとしないモルデカイに出くわし、突如憤りに満たされる。彼はとりあえず我慢して家に帰り、家の者を集め、モルデカイのことで毒づいた。ハマンは、自分の輝かしい富、大家族であるという勢い、そして王が自分を最高位に昇進させてくれたという地位を誇った。さらに王妃が設けた宴会に招かれたことに、気分をいよいよ高揚させている。しかし、その気分も、ただ一人の人物のために、かき消されている(13節)。自分の力に自惚れ、自分の力を認めない者に苦々しい思いを抱く、ハマンはごく普通の人間である。ハマンは、自分の心が気に入る意見に耳を傾けた。これもまた神を認めない者の行動である。妻のゼレシュそして友人が、モルデカイをつるし首にするように進言した。柱の高さは、50キュビト、約25メートルである。それは、王宮の宴会の席からも眺められる突拍子もない高さであった。ハマンの気に入る進言であった。モルデカイを見せしめにし、いよいよ自分の力を誇示する機会である。だが、自分の思い通りに物事を動かせる時にこそ罠がある。特に神と神の時を認めない時には、と教えられるところだろう。

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