7章 ハマンの失脚
<要約>
おはようございます。ハマンの処刑が確定します。器用に動き回ったハマンでしたが、最終的には、悪者は自ら蒔いた種を刈り取った、と言うべきでしょう。全ては、正しく物事を導かれる神の御手の中にあると考えることが大事です。世の不正に心を腐らせず、神の最終的な導きを待ち望みたいところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.王の損失
順序からして二日目の食事の最後になるのだろう、三人が酒を交わしてくつろぎ始めたころ、王は再びエステルに願い事をするように語り掛けた。モルデカイが栄誉を与えられた後でもあり、すべてを話しやすい環境は整った。エステルは王の言葉に勇気づけられて語った。「私にいのちを与え…、私の民族にもいのちを与えてください」(3節)。王にとっては驚くべき告発であったことだろう。
4節の最後の文の意味は、難しい、新改訳と新共同訳では、異なる印象を得る。新改訳は、「事実、その迫害する者は、王のお受けになる損失を償うことはできないのですから」新共同訳では「王を煩わすほどのことではございませんから、私は黙っておりましょう」となっている。新改訳が「迫害する者」と訳したヘブル語は「迫害者、敵」だけではなく「難儀、困難」という意味も持つ。ただその場合は難儀を抱く主体が誰なのかがはっきりしない。また、損失と訳されたことばは旧約聖書ではここにだけ出てくる言葉であまりその意味は明確ではない。さらに「償う」と訳された言葉は「等しい、匹敵する」とも訳される。そこで種々の解釈が出て来ることになる。
一つは、新改訳のように、「迫害する者」ハマンは(王に銀一万タラントを納めると儲け話を持ち掛けたが)、ユダヤ人を皆殺しにするなら王の損失はそれ以上であると解釈した訳。次に、(RSV)Reverse Standard Version(英訳)のように、「迫害者」を「難儀、困難」の意味に、その主体をユダヤ人と取り、ユダヤ人の「難儀」は、王の損失には匹敵しないほど重いと解釈し、お金よりも人民の魂の重さを訴え、エステルが介入せざるを得なかった事情を説明する訳。そして最後に、新共同訳やNew International Versionのように、「迫害者」を「難儀」、「損失」を「王の悩み」と取り、その難儀、困難は、王の悩みには匹敵しない、つまり絶滅ではなく売買だけなら、王を煩わせるほどのものではない、と事の重大さを示す意訳。判断が難しいところであり、よくわからない。ただ、5,6節へのつながりと、3章からの流れ、つまりハマンが王に利益を持ちかけた(3:9)のに対して、エステルは王の損失に訴えた対比の構造があると考えれば、新改訳もしくはRSVのようにとるのがよいのかもしれない。
2.王の決断
「それは誰か」激情した王にエステルは、「その迫害する者、その敵は、この悪いハマンです」と答えた。王は酒宴の席を立った。王は一時の感情の高ぶりを納めようとしたのかもしれない。しかし、命乞いをしようとしたハマンの行動は逆に彼の命とりとなった。2列王記4:37には、シュネムの女がエリシャの足にすがりついて懇願している様子が描かれている。古代オリエントでは足にすがりつく懇願は多かったとされる。エステルのいた長椅子の上にハマンがひれ伏していたというのは、そのような状況だったのだろう。だがそれは余計王の誤解を招くものとなった。そしてさらに宦官のハルボナのことばによってハマンの罪は確定した。「正しい者は苦しみから救いだされ、彼に代わって悪者がそれに陥る」(箴言11:8)とされる。ハマンは自ら滅んでいった。正しく歩む者が揺るがされることはない、たとえ揺るがされるようなことがあっても、神が、その足を守ってくださる。神は真実である。